2012年5月 2日 (水)

公式?留学報告 : つながりたい思い、つなげたい願い。

医局の同窓会誌に掲載される予定ですが、少しあらたまった留学報告書を書きました。
ブログを(いつか)終えるにあたり、ここでも紹介したいと思います。

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留学報告  つながりたい思い、つなげたい願い。      アメリカ西海岸スタンフォード大学での4年間

留学からの帰国を半年後に控えたある日、書類を整理していると昔の自分が書いた一通の手紙のコピーが出て来ました。

“将来は留学や国際学会などに積極的にチャレンジし、世界の医師と協力しあい、世界的なレベルにおいても小児医学に貢献できるような働きをしたいと願っております。(1996年10月、医学部6年:○◯大小児科入局志望動機)”

わたしの国際学会デビューはその8年後でした。さらに2年後の学会で3回目のアメリカ国内での学会発表で後のボスとなるA先生との出会いがあり、電話インタビューとラボ訪問を経てStanford University School of MedicineのDepartment of Neurology and Neurological Sciencesのポスドク(博士研究員)として4年間 (2007年9月〜2011年8月)、研究留学をすることになりました。アメリカ西海岸の名門大学で、自分が持ち込んだ院生時代のプロジェクトを発展させた研究テーマ、年俸も約束されて、すべての希望が叶った形での留学となりました。

スタンフォード大学は米国カリフォルニア州のサンフランシスコ市郊外にあるハイテクIT産業のメッカであるシリコンバレーと呼ばれる地域にあります。気候は過ごしやすく治安も良い分、物価はハンパなく高いのですが、地域には日本人(日系アメリカ人も含めて)が多く、暮らしやすい場所でした。スタンフォード大は自由でオープンな雰囲気の中に世界のトップ、そして最先端であることを目指すという“明るいハングリー精神”があります。スタンフォード大学の卒業式でアップルの元CEOの故スティーブ・ジョブズ氏が訴えかけた”Stay hungry, Stay foolish”の精神が息づいているようです。スタンフォード大だからトップを走っているのではなく、トップを走り続けているからスタンフォード大なのだと思わされます。

このように恵まれた環境の中でしたが、最も困ったのは先述した物価の高さ(とくに家賃と教育費)でした。ツーベッドルームの家賃が2500ドル/月という地域でしたので、ポスドクの給料だけでは追いつかず、毎月が「特大」赤字。渡米当時は1ドル=120円の時代でしたから、毎月の収支を見ながら、これではもたないと焦る日々でした。そういう困窮状態のために、フェローシップ(給与に当てられる研究助成)を獲得するために火のついたように申請書を書き続けました。幸い渡米後4ヶ月後にDean's Fellowshipから、さらに半年後にはAmerican Heart Associationから、そして翌年はStanford University Child Health Research Institute からの助成を獲得し、ついでに、低所得者向け家賃補助プログラムにもあたってなんとか生活を続けることができました。

スタンフォード大では、様々な国や地域からの多くの人たちとつながることが出来ましたし、研究に関するディスカッションも大いにしました。ラボではミーティングのオーガナイザーや、二人の大学院生と学部学生の教育係を任され、他のラボのポスドクとの交流も盛んでした。また、Journal of Visualized Experimentに依頼されて作成した新生児HIEモデルの実験方法の動画は掲載後半年くらいで視聴が1万回を突破し(2012年4月現在の視聴回数は3万回)、世界各地から多くの質問や相談がよせられました。また、学会でも口頭発表(1回)やポスター発表(3回)だけでなくHIE研究のパイオニアであるV教授から共同座長を依頼されるなど、同じ分野の研究をしている仲間に加えていただきました。

それと同じくらい大きな収穫だったのは、異国での日本人どうしのつながりです。いろんなことで助けあうのはもちろんですが、アメリカだと、ただ日本人であるというだけでお互いにつながりたいと思うのが新しい発見でした。それは東日本大震災のときには顕著でした。多くの日本人が協力しあって、チャリティイベントが震災後、継続的に行われ、寄付金を集めていました。それは祖国のために協力しあっているマイナリティである日本人たちをアメリカ人たちが応援してくれるという麗しい構図でもありました。私たちも海の向こうで起きている悲劇に際して、日本国内で祖国を心配している人たちにどう寄り添えるのか。そこから国際交流が始まるような気がします。なので、日本人どうしがちゃんとつながりあうことなしに海外の人たちと手を結びあうというのは無理な話だし、日本にいる外国人に親切にすることなしに海外に手を差し伸べるというのも不自然なことなのかもしれません。普段からそういう意識をもっていること、それが国際感覚というものではないでしょうか。私が四年間、太平洋の向こう岸に立ってみてわかったことは、この偉大な太平洋はここから始まって日本につながっている、日本からはじまってここに繋がっているということでした。同じように、世界へと通ずるつながりとかネットワークというものは、本当に身近なところからはじまるのだと思うのです。

留学中の仕事の一部を発表した論文をもとにした研究計画は幸いにも帰国後に科研(基盤C)をいただくことができました。これからも臨床のバックグラウンドを生かした研究を続けていきたいと思っていますし、できれば後輩の皆さんがさらに発展させていってくださるような新しいこともチャレンジしていきたいとも思っています。そういう願いとか研究そのものというものは、ある意味、灯火(ともしび)のように喩えられるかもしれません。わたしが持っている灯火は、小さなものではあっても指導いただいた先輩方やしんどい思いをした赤ちゃんやご家族からいただいた大切な灯火です。そして、HIEの後遺症とともにある子どもたちやご家族にとっては、“小さくてもそこにある光“なのかもしれないです。その大切な灯火をさらに大きくさせること、そしてその灯火を絶やすことなく、同じように重荷を持って下さる方々へとつなげていくことで、病気の子どもたちを先に見据えた研究をさらに発展させていきたいと願っています。

謝辞:本報告にあたり、この留学を支えてくださったK教授、M教授、副センター長のK先生をはじめ○◯大小児科の皆様にあらためて感謝致します。そして海の向こうにまでついて来てくれた妻と二人の娘たちに心からの感謝を送ります。

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証し:吹田聖書福音教会にて

先日(2012.4.27-28)、吹田聖書福音教会において証し礼拝というものがありました。

クリスチャンって、みんなどのようなきっかけでなるのだろう?
クリスチャンになったら、何が変わるのだろう?

クリスチャンでない人には、そのような疑問があるのではないかと思います。
今回、私を含めて4名のクリスチャンが「証し」という形でこのような疑問に答えるべく、実際に自分たちの身に起きたことや、心に生じた変化などを分かち合いました。
「証し」というのは、「神様がわたしにこんなことをして下さいました」とお話することです。
それによって、神様が確かに生きて働いておられるお方であること、私たちひとりひとりを大切に思ってくださっていることを「証し」するものです。

以下が、先日の礼拝でお話した内容です。よろしければお読み下さい。

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キリストとの出会い

私の両親はクリスチャンで、幼い頃から教会学校でキリストの話を聞いていました。 しかし、自分から神様に従いたいという気持ちはあまりなく、小学校2年生ごろに 教会に通うのはやめました。そんな中、わたしは自分勝手に普通の小中学生として 過ごしていました。小学校高学年になると、授業を妨害したり、学校でたばこを吸 ってみて親が呼び出されたりする「普通の」小中学生でした。

中学 3 年生のころ、ある友達と度々もめ事がありました。そして、中学卒業のとき にどうしてもゆるせないことがあり、その友人を殺してしまいたいと真剣に考えま した。いろいろ方法を考えていたところ母が英会話に通っていた教会から「高校生 のための聖書合宿があるから行かないか」とお誘いがありました。幼い頃の記憶で は教会といえば同年代の子と遊ぶところと思っていましたので、私はむしゃくしゃ していましたし、女の子とでもあって気を紛らわそうくらいの気持ちで参加しまし た。

そこで牧師のメッセージがあり、このように語られました。
“ここにあなたを連れて来たのは神様です。あなたには憎んでいる人がいる でしょう。神樣があなたをゆるして下さるのだからあなたもその人をゆるし、その人の祝福を祈りなさい。“

“神はボクのことを知ってる“と思いました。非常な恐れとともに神を受け入れ、 キリストの十字架が自分の罪の赦しのためであったと感謝する祈りをしました。そ の合宿で私は女の子と出会うどころかキリストに出会い帰ってきたのです。そして 帰宅して次の日、新しい心で新聞を開くと同級生を殺した高校生の記事が載ってい ました。しかもその手口が私がまさにやろうとしていた方法だったのです。自分は もしかしたらこの新聞に載っていたのかもしれない、しかし神は寸でのところで私 を止めてキリストに出会わせてくださったのだと思いました。

神様の成功体験

私はその後、小児科医となり海外での研究活動を希望していたところ、アメリカの カリフォルニア州にあるスタンフォード大学に研究留学の道が開かれました。そこは日本人が多い地域ですが日本人のクリスチャンは少なく、自分たちが福音を伝えなければならない、という危機感を募らせました。妻とわたしはクリスチャンでない人たち をお誘いして日本語バイブルスタディ(聖書の学びの会)を始めました。

はじめは数人が集っていたバイブルスタディは、数ヶ月で参加者がやめていき誰も 来なくなりました。何度も「家族だけやったら、家でバイブルスタディしたらい いのでは?」という自問し、その度に「いや、今日は神さまが誰かを導いてくださるかもし れない。いつも決まった時間に必ずそこにいるということが大切なのだ。」と答え ていました。すると私たちの中に自然と、

”これは日本人の人たちのためにしていることではない。これは実は神様にお捧げしている奉仕なんだ”

という思いが芽生え、喜んで待つことができるようになりました。数ヶ月後、神様は少しずつメンバ ーを加えてくださり、最終的には 20 名ほどが参加する楽しい学びと交わりの会と なりました。参加者はいろいろな教会に集う日本人クリスチャンたちが多くなり、 クリスチャンでない人も気兼ねなく参加できる家族のようなグループを神様は作って下さいました。はじめた経緯も不思議だったのですが、予想もしないような展 開に神様の見えざる手を見させていただいたような気がしました。神様はささげた ものを無駄になさらないのだということ、それはまさに「神様の成功体験」と呼ぶ べきものでした。

何百倍も素晴らしい人生

異国の地で不安と悩みの中にある日本人の方々になんとかしてキリストのことを 伝えたい、と祈っていたときに私は神様からこのような語りかけを受けたように感じました。

「あなたの人生をたった一人の魂の救いのためにだけ使うとしたも、あなたは私に すべてを明け渡してくれるだろうか?」

ひとりの魂の価値は何よりも重いのです。 私は「主よ。喜んで。わたしをその人のためにお使い下さい。」 と祈りの中で答 えました。

「もしかしたら、その人が救いに至るのを見ることができないかもしれない。その人の為に祈り、聖書を分かち合うためだけならどうか。」

私は思ったのです。自分 の労苦の成果をみたいと思うのは肉の思い。『はい、主よ。それがあなたのご計画 でしたら。』人の目には「たったそれだけ」と思われることでも、それが神のみこころならば、それでよいと思いました。『私のこれまでの人生がその小さなことの ためであったとしたらなんと素晴らしいことでしょう。あなたが私のためにご計画 されていることが誰かにちょっとした親切をすること、教会に誘ってみること、な んであっても、あなたのご計画であれば人生を捧げられます。』

私は、予備校時代を乗り越えて医学部に入って、つらく厳しい研修医時代をへて、 苦労して大学院を出て、夢を抱いてカリフォルニアまでやって来ていたのでした。 これらの苦労がたったひとつの小さな働きのためであっても、私を造り、愛し、導 かれた神様のご計画であったのならば、それは非常に価値のあることだと思えるよ うになりました。 そう考えると日々、小さなことに忠実に神に従うことがキラキ ラと輝き始めました。誰かに愛をもって接するように努めること、「わたしはクリスチャンです」と言うこと、「聖書を読みませんか?」と声をかけること、教会の イベントを知らせること。それらひとつひとつは人生をかける価値のある奉仕なのです。 クリスチャンとして生きるということは、そのように価値のある機会に囲 まれて生きること。人の一生の価値に値する働きを毎日のように行って、これまで の何百倍も価値のある人生を生きることができるのだ、これが神を信じる私たちに 与えられた特権なのだとわかりました。これは神を知らずに生きて来たときとは比 べ物にならないほどの大きな大きな恵みです。 この恵みに目をとめると「この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れるこ とはない」とか「天に宝を積みなさい」とか「小さいことに忠実なものは大きいこ とにも忠実だ」とかいうキリストの言葉が現実味を帯びて来ます。神が備えられた 豊かな人生。それは、私たちひとりひとりに与えられた神さまからの贈り物なのです。

「わたしが来たのは、いのちを、あふれるほど豊かに与えるためです。」 (新約聖書 リビングバイブル ヨハネ 10:10)

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2011年8月26日 (金)

四年間のカリフォルニア

カリフォルニアで最もよかったのは出会った人々です。カリフォルニアで得たものといえば、友。そして、カリフォルニアで学んだことは自分の人としてのあり方を立ち止まって考えることの大切さ。

こういう経験はふだんでも、またカリフォルニアまで行かなくてもできることです。でも、私たちは日常の生活のなかで「あたりまえ」と思っていることがらのもつ素晴らしさに目を閉ざされているのだと思います。わたしは太平洋を渡ることで、人と向き合い、神と向き合い、そして自分自身と向き合うことができました。

これまでの「あたりまえ」があたりまえでなくなったとき、それは何かを発見するよいチャンスです。それは帰国後の私にとっても、震災に直面した日本の方々にとってもそうなのだと思います。

さて、私には誰にも持ち去ることができない素晴らしい宝があります。

その宝は、誰ともシェアできるし、手渡すことさえ出来ます。それでもその宝はわたしのものです。

それはキリストに表された神の愛。御子を通して与えられた永遠のいのち。
それはキリストゆえに私たちが仕える人々や場所。
それはキリストにある神の家族の交わり、一緒に過ごした時間。
神が下さる宝はこのようなもの。誰にでもシェアできるのに、誰にも奪えない。神は実にそのひとり子イエスを私たちに与えて下さった。このお方こそ、王の王、主の主。

私たちは目を開いてこのような宝に目を止めるべきです。それを取って、肌身離さずにすべきです。そして、キリストに結び合わされてそれらを抱きしめるべきなのです。

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2011年8月16日 (火)

毎日泣いている次女へ

次女が毎日泣いている。
カリフォルニアを去るのがイヤだと泣いている。

「もし、友達が出来なかったら?意地悪されたら?日本の学校の勉強が難しくてついていけなかったら?」その不安はもっともで、どうもこうも解決できないよね。どんなに笑顔をつくっても、どんなに勉強を頑張っても、不安は不安だろうね。でも思い煩わなくてもいい理由はあるんだよ。

それは神様にゆだねることだよ。神様はあなたのことを気にかけているかいないか?
ーいるよね。

神様は善いお方か悪いやつか?
ーもちろん善いお方。

じゃあ、神様はあなたの心配をご存知か?
ーそりゃ知っている。

でっ、神様にできないことはあるかないか?
ーないでしょ。

神様はお祈りを聞いて下さるか?→
ー(神さまはお祈りを)耳をダンボにして聞いてる。

あなたが泣いていたら神様は「そんなしょうもないことで泣くな!!」と怒るか?
ー怒らない。

悲しければ神様に悲しい気持ちもあずけてごらん。「神様、ayumiは悲しいです」って言い。神様「そんなん知るか」とは言わへん。きっとこう言う。

"I am with you" (私も同じ気持ちだよ)

そういって神様はともにいて下さる。だから心配事があったら、悲しい気持ちがあったら、神様に言いなさい。

・・・この会話のあと、次女は泣くのをやめ「そうか」という顔になった。
話している自分も「そうか・・・」と思い気持ちが落ち着きました。

「わたしはあなたとともにいる(I am with you)と言って下さる神は実は「わたしは地の定まるずっと前から、また限りなく続く永遠の永遠までずっとずっとあなたとともにいる(I AM with you)」と言っておられるのです。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:6-7)

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:20)

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2011年8月 2日 (火)

Big Sur Lodgeにて(8/2/2011)

Big Sur Lodgeにて(8/2/2011)

カリフォルニアで過ごす最後の夏の思い出に3泊4日でMt.HermonBig Surにやってきた。

一日目。Bible101のBBQのあと:
Mt.HermonにやってきてFernando Ortegaのコンサート。
二日目。緑に囲まれたチャペルで礼拝をし、午後はRedwoodの森林を散策。
カーメルでシーフードを食べてBig Surに来た。
三日目の午前がPfeifer SPの散歩、プール。午後はPfeifer State Beach、滝、灯台などを回った。

Big Surから青く、どこまでも続く太平洋を見ていると、神の偉大さ、自分の小ささが見えてくる。
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自分は小さい。人生は短い。
神は偉大。その王国は永遠に続く。

自分がこの先、どうすればよいのかということより、
今、自分は神に従っているか、
自分の人生を神にゆだねているか
そのことが大切に思えてきた。

そして、この四年間、本当にたくさんの素晴らしい経験をさせて下さったことを主に感謝した。

まだまだ人生やりたいことはたくさんあるけれども、いつ死んでもいいくらい幸せな日々を送らせていただいた。

”いつ死んでもいい”

そう思うことはネガティブなイメージがあるけれど、私はそう思える経験をしたことで、どんな困難にも立ち向かって行けるような気がしてきた。

つらいことがあったら、カリフォルニアの日々を思い出そう。
美しいスタンフォードのキャンパスと、そこで働いた仲間たち。
Peninsula Bible Churchの礼拝、メンズバイブルスタディ、そしてBible 101 in Japanese (日本語の聖書の学び会)。
アラスカ、ヨセミテ、グランドサークル、イエローストーン。
カリフォルニアの青い空と美しい海岸、どこまでも広い太平洋。

”あの時はよかった。戻りたい”ではなく、
”あの時はよかった。だから今がんばろう”と思いたい。

今、Big Sur Lodgeのキャビンにある暖炉の火を見ている。
昔はこうやって薪を割って、暖炉に焼べて、そして、灰を肥料にして畑にまいていたのだ。日々生きていくための営みにじっくり時間をかけていたのだ。でも、今は、生きていくために必要なもの以上の”何か”を求めて、効率や便利さを求め、そして生きていくためには不要な何かを得て、人生を生きた気になっている。

私もすでに40歳になったから、これができないといけないとか、これを持っていないといけないとか、そういうことを考えて不安になっている。

もともと短い人生、何を急いでいるのか。

自分が考えている40歳の自分じゃないなら、自分を30歳と思えばよい。
40歳と30歳、何の違いもありはしない。

暖炉の焚き木は面白い。
火をつけるとき、二つくらいを並べておく。
この二つに火がついたら、それに垂直に薪を置く。
すると、もともと燃えていた木がさらに燃える。

新しいクリスチャンに信仰を燃やされるクリスチャンみたいだ。

また、火が弱くなったときには、木の配置を変えたり、息をふきかけると、再び強くなる。

人の信仰も同じようにちょっとした人との関わりが神様によって導かれたり、神様から息を吹きかけられたりして、再び信仰の炎を燃え上がらせる。

そして、燃えて光と熱を発するということには二つの意味がある。
ひとつは、他の薪に火を移らせること。これは、信仰の伝搬であり、信仰の継承といえる。
そしてもうひとつは、自分自身がどんどん小さくなること。
信仰の炎が強くなるにつれて、人は炎を見て木を見なくなる。
私も誰かが私を見るときに、
”この人をこのようにさせている神とはどういうお方なのだろう”という思いを与えられるように自分を小さく、神を大きくしたい。

そして、炭となってくだけたものにも役割がある。
それは、燃えさかる木の炎を下から支える役割。

リタイヤしても祈りで支えることができるということだ。

今、暖炉の火はほとんど消えた。
ものごとにはいつか終わりが来る。
カリフォルニアの日々も終わるし、
自分の人生も終わる。
そして、この世界もいつかは終わる。

しかし、神には終わりがない。
そして、私はこの神に生かされて今を生きている。

2:02AM

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2011年8月 1日 (月)

日本語バイブルスタディ(Bible Study 101 in Japanese) の皆様へ

こちらで日本語での聖書の学びを教会でリードしてきましたが、わたしたちの帰国にあたり、次のメンバーに引き継ぐことになりました。(参加ご希望の方は、こちらまでメールください)7月の終わりの日にこのバイブルスタディのメンバーが恒例の夏のBBQの中で私たちのためにお別れ会をしてくれました。

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その夜、私たちはMt.Hermonというところに出かけたのですが、そこでバイブルスタディのメンバーにあててお手紙を書きました。

日本語バイブルスタディ(Bible Study 101 in Japanese) の皆様へ

先日はBible 101のBBQにおいて、皆様からの心温まる言葉をいただき、本当に有り難うございました。

皆様には「さよなら」を言いたくはないのですが、今になって本当にもうこのような形でみなさまとご一緒する機会がないのかもしれないと思うと寂しい気持ちがこみ上げてきます。

たくさんの親切な言葉に”ほめられるのはイエスさまであって、私たちではない”と受け取るのに抵抗を感じていましたが、今は素直に感謝して受け止めたいと思っています。

それはなぜかというと、たしかに私の中にも”ほめられたい”とか”感謝されたい”という思いはありますし、それは悪いことだとは思わないこと、そして、みなさまのやさしさや感謝の言葉が、神様から私たちへのプレゼントであると思うからです。

Bible 101のあり方を探っている段階から忠実に出席し続けて、私たちと重荷を分け合って下さったAさんファミリー。
とくに女性たちに福音を伝えるために規代と歩みを共にして下さったSさん。
日本人への重荷をもって参加して下さっていたYさん。
ひとりひとりが、様々な形でこのグループに加えられて、ひとつひとつの出会いが私たちにとってのかけがえのない宝となっています。

それは、私たちが何をしたからというのではなく、神様がこのようにコーディネイトして結びつきを与えてくださったことは明らかです。

Bible101に集まって下さった皆さんご自身が神の御手が今も私たちの上に働いておられることの証しです。そして私たちは聖書の学びを通して、楽しい交わりを通して、祈りあうことを通して、そして互いに仕えあうことを通して、神様の素晴らしさを見つめ、賛美し、この神を世に証ししていくことをしてきたのだと思います。

今になって私は”ああ、この仲間を心底求めていたのは私だった。私の隣りに立って一緒に神様を見上げてくれる友を求めていたし、そのような友を得たのだ”と思います。

Bible101はPBCに集う女性たちとその家族に聖書を説明するために始めたものでした。
しかし、今はこのベイエリアのいろいろな町のいろいろな教会からクリスチャンが集められ、ノンクリスチャンの方々も輪の中に加えられています。
私たちの想像しなかった形になているけれども、とてもユニークな素晴らしいグループになっていることからも神様の御手の計画を感じます。

キリストにあってひとつにされること、
お互いに認めあって、尊敬しあえる群れであることに何か強さをも感じます。

本当に神様の御名を褒めたたえたいです。

どうか皆さん。今つないでいる手を離さないで下さい。私たちは不完全で、不従順で、傷つきやすくて、弱いひとりひとりです。明日の見えない中で不安だらけです。

でも私たちはキリストにあってひとつです。
私たちはどんな時もキリストを楽しみ、お互いを喜ぶことができるのです。

本当に皆さん。手をつないで天の御国に至る勝利の行進を、これからもともに続けていきましょう。

最後に、日本人特有の恥ずかしさと、自分への自信のなさから言えなかったことを書いて祈りとともにこの手紙を閉じたいと思います。

私は皆さんのことを心より愛しています。

2011年7月31日(日)Mt. Hermonにて
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(写真:Mt.Hermon Conference Center, CA)

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2011年7月20日 (水)

5つのメッセージとひとつの約束

最近はキリスト教ブームという感じで、去年あたりから雑誌でもキリスト教特集が組まれてあったり、聖書についての本が一時的にベストセラーになったりして、キリスト教や聖書への人々の関心がこの震災がおきる前から高まってきているのをインターネットを通じて感じています。

最近も、ある牧師が書いた聖書に関する書物がベストセラーになったりして「なにが正しいことなのか」「よりよく生きるとはどういうことか」を探り求める人々の答えがもしかしたら聖書にあるのではないかと思っておられるのではと思います。もしかすると震災があったことで、そういうニーズが高まっているのかもしれないです。

聖書を読めばこんな人間になれます、とか、こんな良いことがありますとかいうことを「ウリ」にしてしまうことはよくありがちだけど、そんなことをしてしまえば、聖書を自己啓発書とかスピリチュアル本のようなものへと格下げしてしまっていることになるのではないでしょうか。

信仰をもたない人は別にして、信仰を持っているのであれば、聖書のそこが「ウリ」でないことは知っているはずです。それなのに、あたかもそうであるように伝えるのは、真実な態度ではないと思います。それは聖書をあまり読んだことのない人に受け入れられやすくするためにとか言いながら、聖書と真面目に向かい合おうとしている人に対して失礼なことです。
聖書に興味のある人であれば、自己啓発書の類いなら読んでいるでしょうし、聖書のなんたるかくらいはある程度知っているはずです。だから真摯な姿勢でこれが聖書の真実だと知っていることを伝えるべきです。

だからもう、そういう風に聖書を「売り込む」のはやめにしたいです。
たしかに聖書には、自己啓発書っぽいこととか、人生を生きていくために示唆に富んだ言葉に溢れています。でもそれは、プレゼントの包装紙、ステーキにそえる人参ソテー、カレーライスにつける福神漬けみたいなもの。

嘘ではなくても、そこにそのような本質でない部分を強調することで、聖書という書物を「どこにでもある啓蒙書のひとつ」にしてしまっているのです。でも聖書はそんな書物ではない。

また、聖書には、この世での成功とか、より幸せな人生とかそういったものを約束していません。
逆に、神に従って歩んで来た人々がどのような困難に晒されたのかというストーリーで溢れているのです。聖書にはご利益はないのでしょうか。ないです。わたしたちが考えているようなご利益はない。

なのに、なぜ、聖書がこのように読み継がれ、それによって生き方を変えられた人々によって文化が花開き、歴史が動かされて来たのでしょうか。それは、単なる「生き方指南書」みたいな本を越えた何らかの力が聖書にあるから、そして、単なるご利益以上の祝福が書かれているからだと思うのです。

聖書に書かれているメッセージは、本質的には次の5つ。そして約束されていることはひとつだけだ、と私は思います。(あくまでわたしの見解です)

聖書のメッセージ1:神はどのようなお方か。
聖書のメッセージ2:私たちはどのような存在なのか。
聖書のメッセージ3:このような神が、このような私たちに何をしてくださったか。
聖書のメッセージ4:そして私たちはそのことに対してどのように応えるべきなのか。
聖書のメッセージ5:私たちの選択に対して神はどのようにお応えになるのか。

聖書の約束:イエス・キリストを主と告白するものには、神はいつまでもともにいて下さる。

これを読めば、こういうふうに成功しますとか、よりよい人生になりますとか、そういうちっぽけなことを書かれているのが聖書ではないのです。天地万物の創り主である全知全能の神があなたとともにいてくださいます、という大きな大きな約束が語られているのです。

神がともにいてくださる。

この他に何を足さなければならないのでしょうか。
何も足す必要もないし、何を足しても意味がありません。聖書はくりかえし、くりかえし、これらのことを語る書なのです。Img_9099
(写真:長女minori (10歳)撮影 Canon Power Shot SD750)


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2011年7月19日 (火)

Finish Strong!! なでしこジャパンの快挙。

サッカー女子ワールドカップ決勝戦。

アメリカは絶望的に強かった。でも・・・・勝った!
強い相手にも勝てる、そういうことを教えていただきました。

彼女たちの活躍を見てこれらの聖書箇所を思い出しました。

兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。(1コリント9:24-25 新改訳 )

なでしこジャパンのようにあきらめずにゴールを目指して残りの留学生活を頑張りたい、そのように思わされました。

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2011年6月13日 (月)

東日本大震災のためのチャリティランチョン:神様の算数

5月22日(日曜日)、わたしたちPeninsula Bible Church(PBC)で行う東日本大震災のチャリティイベントの第二弾目として、ランチョンを企画しました。(第一回目のチャリティベイクセールの様子はこちら

日本では多くの被災地の教会が、それぞれの地域の人々のお世話を行っています。
その活動をバックアップしているキリスト教系の団体のひとつがCRASH Japanというところです。
今回のイベントも前回に引き続き、この団体にPBCとして支援金を送る為に企画しました。
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(各テーブルにはこのように資料を置いて、この団体について説明しました)

このイベントは、わたしたち夫婦が企画して、わたしは教会の責任者や奉仕者と連携をとって会場や物品の確保、イベントの告知などをし、そして妻のnori-tanがお友達を中心に協力を呼びかけて、食事の準備の陣頭指揮をとりました。その結果、教会の多くの人々の協力に加えて、日本人の女性が40名が協力してくださいました。
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そして当日は、予想というか目標の150名をはるかに越える200名ほどの参加者がありました。
はじめは、「もしあまり人が集まらなかったらどうしよう・・・」と心配して祈っていました。
そして会場を開けるとそこには長蛇の列がありました。そして教会学校を終えて、子どもたちをピックアップしてきた家族が続々とやってきました。
今度は「食事が十分に足りますように!」という祈りに変わりました。
当日は10数名の日本人の方々が次から次へとビュッフェ形式の料理を入れ替えて、最後のひとりに至るまで満足していただけることができました。

そして総額4000ドル以上の義援金が集まりました!
前回のベイクセールでの6000ドル近いものと合わせるとPBCとしては10,000ドルもの額を寄付することになりそうで、本当に感謝でした。

ご協力いただいた皆様、お祈りで支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。
善を生み出すのはクリスチャンでもノンクリスチャンでもなく神様
私はこの企画をするにあたって、こういうことを考えていました。

今回はクリスチャンである私たちが神様から思いを与えられて、クリスチャンが行っている人道支援を支えるのだ、神の子どもとされた私たちが希望の光となって善を行うのだ、と。

確かに、この働きはクリスチャンが多く関わっています。企画もそうだし、その団体もクリスチャンです。しかし、蓋を開けてみればどうでしょう。料理を準備するために協力してくださった方々のほとんどはノンクリスチャンの方々なのです。

わたしは思いました。自分は高ぶっていた、と。
神はノンクリスチャンの方々の中に思いを与えて行動を起こすようにしてくださるお方であることを。

だから、善を行うのは、クリスチャンもノンクリスチャンも関係なく誰でも行うことができるのだということに行き着く人も多いでしょう。たしかにそういう考えもできます。
しかしクリスチャンでも、ノンクリスチャンでもないのだ。究極的な意味では善を行うことがおできになるのは神おひとりなのだと思うのです。これが神様が行ってくださったことを特に示すのは次の理由からです。

わたしたちは人手を150人、そしてひとり5ドルほどの寄付を募るつもりでした。
事前には「ひとり5ドルをお願いしたいですが、お金にお困りの方は、無料ランチをお楽しみください」とアナウンスをしていただきました。なので、全部で1000ドル集まれば、材料費や労力に見合った寄付がいただけてひとまずは成功と思っていました。しかし、わたしはクリスチャン。神様のされることだから予想の倍の2000ドルくらいになるかもしれない、なればすごい!と思っていました。
ところが蓋を開けてみれば4000ドル以上だったのです。

これは、人間の業ではないと即座に思いました。
そして、神様は算数がわかっていない!とも(笑)。

いえいえ、実は、わたしたちが神様が教えてくださる「信仰算数」を学んでいなかったのです。
神様はわたしたちの想像を超えて働かれるお方なのです。本当に感謝です。

わたしはこのように二つのことを教えていただきました。

ひとつは、神様は信仰の有無に関わらず人を用いて善を生み出すお方であること。そして神のみが善の源であるということ。
ふたつめは、神様の算数と人間の算数は違うこと。わたしたちは神様の算数を学ぶことを求められていること。

そして、わたしの祈りは主に次の三つです。
ひとつは、これらの義援金が、人々の苦しみを和らげ、慰めと力を与えるために用いられること。神様の愛が被災された方々に支援の形で伝わること。
ふたつめは、今回の働きに参加してくださった方々が神様の愛を実感し、そして個人的に天地を造られ、わたしたちひとりひとりのために御子をくださった神を知ることができるようになることです。
そして、みっつめは、今回、関わってくれたPeninsula Bible Churchの人々が祝福を受けるように。そして日本のことを祈りに覚えてくれるように。

わたしたち夫婦は、本当にこのような神様に仕えることを喜びとすると同時に、このように素晴らしい日本人の方々に囲まれていることを誇りに思っています。そしてどうしても、どうしてもこの素晴らしい神様とこの素敵な人々を取り持つような働きをしたいとますます思わされています。


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2011年6月12日 (日)

もうひとつの”クリスマス”

6月12日はペンテコステ(聖霊降臨)礼拝です。

キリストが復活して50日後(キリストの昇天の10日後)に聖霊(御霊なる神)が弟子たちに下った日です。彼らが大胆にキリストを証ししはじめ、神が弟子たちを通して奇跡を行いはじめました。これによって、キリストを信じる人が多く集まり、そして初代キリスト教会の基盤ができました。だからこの日は「キリスト教会の誕生日」と言われています。
(これは新約聖書の「使徒の働き」の2章に詳しく書かれています)

遠藤周作氏は、このような弟子の働きを記した小説に「キリストの誕生」という題名をつけました。
遠藤氏の考えでは、この日を境に”イエス”が”キリスト”になったのだというものであったように覚えています。(読んだのは20年前なのでうる覚え・・・)
しかし、正確にはやはり、この日は『キリスト教会の誕生』ではないかと思うのです。

聖霊が私たちに下されたことは、キリストが十字架で死んで復活されて天にあげられた「おまけ」ではありません。キリストが来られたのは聖霊がわたしたちに与えられるようにするためでした。だからペンテコステはクリスマスと同じくらいに意味のある出来事なのです。

つまり、クリスマスが御子なる神がわたしたちのところに下って来て下さったことをお祝いする日であるならば、ペンテコステは御霊なる神が私たちとともに住み始めて下さったことを感謝する日です。

ペンテコステ。それは、御霊なる神がキリストを信じる者の内に住んで下さっているということを思い出す時としたいと思います。御霊なる神を内に宿した信仰の先駆者たちに思いを馳せる時としたいと思います。そして彼らを導かれた御霊が自分の内にもおられるという重大な事実に注意を向ける時としたいと思います。

クリスチャンであるわたしは御父、御子、御霊からなる三位一体の神様を信じています。
でも、もっとも身近におられるはずの御霊なる神にはお祈りをすることがないように思います。
そこで、ペンテコステを迎えるにあたってお祈りを捧げたいと思います。

御霊なる主であられる聖霊さま。 いつもあなたがともにおられるのを当然のように思いながら、ときにあなたが心の中でささやかれることを無視したり、おられないことにしてしまったり、あたかもおられないかのような言動をしてしまうこの者を赦してください。 聖霊さま。このような私であっても、聖書を読む時には説き明かしてくださり、わたしの祈りを導いてくださり、さまざまな局面で助けて下さっていることを感謝します。本当にあなたがいなければやって来れなかったことは山のようにあります。 聖霊さま。これからも共に働いてくださり、自分ではなし得ないことをあなたの御力によってなし得ることによって、神が今も生きて働いておられることを証しさせてください。とくに自分が愛せない人を愛し、赦せない人を赦し、堪えられないことを堪えていくことによってあなたを証しさせて下さい。

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(写真:Sunol Regional Wildernessにて)

聖歌576 聖霊きたれり
(オルガン伴奏はこちらのYouTubeで)

1.いずこにある しまじまにも いずこにすむ ひとびとにも
喜ばしく のべつたえよ 聖霊 きたれり

※繰り返し
聖霊きたれり 聖霊きたれり あまくだりし なぐさめぬし
地の果てまで のべつたえよ聖霊 きたれり

2.暗き夜は開け放たれ 嘆く声も 今はやみて
目にいるもの みなかがやく 聖霊 きたれり

3.きみのきみに ときはなたれ 自由なる身と せられしもの
勝ちのうたを たかくあげよ 聖霊 きたれり

4.いとも深き 愛と恵み いざまよえる 罪人らに
語りつげて 神の子とせん 聖霊 きたれり

5.みつかいらも 神の民も 無限のあいを ほめたたえて
天にひびかせ 地にみたせよ 聖霊 きたれり


6.聖霊きたれり 聖霊きたれり あまくだりし なぐさめぬし
地のはてまで のべつたえよ 聖霊 きたれり


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著者:遠藤 周作

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