Big Sur Lodgeにて(8/2/2011)
カリフォルニアで過ごす最後の夏の思い出に3泊4日でMt.HermonとBig Surにやってきた。
一日目。Bible101のBBQのあと:
Mt.HermonにやってきてFernando Ortegaのコンサート。
二日目。緑に囲まれたチャペルで礼拝をし、午後はRedwoodの森林を散策。
カーメルでシーフードを食べてBig Surに来た。
三日目の午前がPfeifer SPの散歩、プール。午後はPfeifer State Beach、滝、灯台などを回った。
Big Surから青く、どこまでも続く太平洋を見ていると、神の偉大さ、自分の小ささが見えてくる。

自分は小さい。人生は短い。
神は偉大。その王国は永遠に続く。
自分がこの先、どうすればよいのかということより、
今、自分は神に従っているか、
自分の人生を神にゆだねているか
そのことが大切に思えてきた。
そして、この四年間、本当にたくさんの素晴らしい経験をさせて下さったことを主に感謝した。
まだまだ人生やりたいことはたくさんあるけれども、いつ死んでもいいくらい幸せな日々を送らせていただいた。
”いつ死んでもいい”
そう思うことはネガティブなイメージがあるけれど、私はそう思える経験をしたことで、どんな困難にも立ち向かって行けるような気がしてきた。
つらいことがあったら、カリフォルニアの日々を思い出そう。
美しいスタンフォードのキャンパスと、そこで働いた仲間たち。
Peninsula Bible Churchの礼拝、メンズバイブルスタディ、そしてBible 101 in Japanese (日本語の聖書の学び会)。
アラスカ、ヨセミテ、グランドサークル、イエローストーン。
カリフォルニアの青い空と美しい海岸、どこまでも広い太平洋。
”あの時はよかった。戻りたい”ではなく、
”あの時はよかった。だから今がんばろう”と思いたい。
今、Big Sur Lodgeのキャビンにある暖炉の火を見ている。
昔はこうやって薪を割って、暖炉に焼べて、そして、灰を肥料にして畑にまいていたのだ。日々生きていくための営みにじっくり時間をかけていたのだ。でも、今は、生きていくために必要なもの以上の”何か”を求めて、効率や便利さを求め、そして生きていくためには不要な何かを得て、人生を生きた気になっている。
私もすでに40歳になったから、これができないといけないとか、これを持っていないといけないとか、そういうことを考えて不安になっている。
もともと短い人生、何を急いでいるのか。
自分が考えている40歳の自分じゃないなら、自分を30歳と思えばよい。
40歳と30歳、何の違いもありはしない。
暖炉の焚き木は面白い。
火をつけるとき、二つくらいを並べておく。
この二つに火がついたら、それに垂直に薪を置く。
すると、もともと燃えていた木がさらに燃える。
新しいクリスチャンに信仰を燃やされるクリスチャンみたいだ。
また、火が弱くなったときには、木の配置を変えたり、息をふきかけると、再び強くなる。
人の信仰も同じようにちょっとした人との関わりが神様によって導かれたり、神様から息を吹きかけられたりして、再び信仰の炎を燃え上がらせる。
そして、燃えて光と熱を発するということには二つの意味がある。
ひとつは、他の薪に火を移らせること。これは、信仰の伝搬であり、信仰の継承といえる。
そしてもうひとつは、自分自身がどんどん小さくなること。
信仰の炎が強くなるにつれて、人は炎を見て木を見なくなる。
私も誰かが私を見るときに、
”この人をこのようにさせている神とはどういうお方なのだろう”という思いを与えられるように自分を小さく、神を大きくしたい。
そして、炭となってくだけたものにも役割がある。
それは、燃えさかる木の炎を下から支える役割。
リタイヤしても祈りで支えることができるということだ。
今、暖炉の火はほとんど消えた。
ものごとにはいつか終わりが来る。
カリフォルニアの日々も終わるし、
自分の人生も終わる。
そして、この世界もいつかは終わる。
しかし、神には終わりがない。
そして、私はこの神に生かされて今を生きている。
2:02AM

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