2009年11月10日 (火)

キリスト教は排他的か?

■「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に
(読売新聞 - 11月10日 23:33)

私はクリスチャンですので、”イエス・キリストの十字架と復活が救いの道である”と信じています。これを言ったところで、いじめられることは、今の日本ではまずありません。逆にクリスチャンでない人からも”信じることのできるものがあるというのはよいですね”とあたたかい言葉をいただきます。

問題が生じるのは、新約聖書のヨハネの福音書14章6節にあるイエスの言葉です。
”わたし(=キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(=父なる神)のみもとに来ることはありません”

これを受けて、イエスだけが救いに至る唯一の道であり、聖書にある三位一体の神が唯一の神であると言ってしまうと物議をかもしだすのです。
そのようなときに聞かれる主張は、

--->神様というのは、そのような宗教の枠にはめ込むことのできない大きな存在のことを言うのではないか。
--->どの宗教の神様も正しい、それでもよいのではないか。
--->そのような排他的な教義をもつキリスト教は嫌いだ(排除すべきだ)。

ということになり、迫害が起きて来るのです。
しかし、裏を返せば、クリスチャンのように神は唯一だと言ってはいけない!という主張は排他的であるとは言えないでしょうか?
排他的なのはいけないというのであれば、教義として他の神々を礼拝することを禁じるクリスチャニティを受け入れることができるはずなのに、なぜかその考えは排除され、嫌悪感をいだかれることもあります。

でも、それは仕方ないことです。

私も神様の導きでキリストと出会い、聖書を読むようになったのでクリスチャンになったのですが、もしそういうことがなく、イエスが十字架につかれる程に私を愛して下さっているということを知らされなければ、愛である神に出会わなければ同じことを言い、「排他的な」クリスチャンを罵っていたかもしれません。

しかし、私は神のあわれみによってキリストを信じることができるようになったわけですから、「キリスト教は排他的である」という意見に対して、私なりの弁明をすることが先にキリストに出会ったものとしての役目だと思います。

はじめに、必ず申し上げたいのは、聖書の神は他の神々を否定しているのであって、あなたを排除しているわけではないということです。あなたがもし、キリスト教が嫌いだとか、諸悪の源は世界最大の宗教であるキリスト教だと思っていたとしても、イエスが十字架につかれたのは、あなたと神の関係を損なっている罪を肩代わりするためであったのです。

そして、それはそのような神の子とされているクリスチャンに求められている姿勢です。悲しいことにすべてのクリスチャンがそうとは言えないですが、多くのクリスチャンは他の宗教を信じている人や信仰を持たない人に対して排除するような気持ちはありません。どの人も神によって造られ、神がご自分のいのちをも捨てるほどに愛しておられるということを信じているのです。
だから、排他的になるということはできないはずです。

今の日本で最も影響力のある政治家が「キリスト教は排他的で嫌いだ」と言ったとしても、クリスチャンはその発言に対して弁明をすることおそあれ、「神のために」彼を憎むということは教義上ありえないことです。

クリスチャンは教義上は他の神を受け入れないという点で排他的であっても、他の神を信じたり、聖書の神を否定する人を排除したりするという排他性はありません。事実、クリスチャンの慈善団体の多くは、他の宗教が国教であるような国々で、布教を禁じられているような状況の中で、あるいはキリスト教に改宗したら殺されるという社会の中で、様々な支援を行っています。それは、神がすべての人を愛しておられ、これらひとりひとりのためにイエスは十字架につかれたのだと信じているからです。

教義的に排他的なのは、なぜかと言われれば、「それが真実だから」としか言えません。なぜ私がそう思うかということは長くなるので書きませんが、神がなぜそのように言われるかというと「それが真実だから」です。神は偽ることができないし、”他の神様でもいいよ。それも神様だよ。”と偽ることで人々が罪の問題を解決しないままになり、神の国で永遠を過ごすことなく、神の裁きのもとに置かれることを避けたいからです。なぜ避けたいかと言えばやはり、神はわたしたち一人一人をこよなく愛しておられるからです。

また、キリスト教は教義上、排他的であるがゆえに独善的だという主張もあります。
「独善的」というのは辞書では、自分だけが正しいと考えること。ひとりよがり。とありますが、このようなコンテキストで語られると
”自分たちだけが真理を知っていると思って、他を見下している”というくらいまで意味しているのではないかと思います。ここは正直に言いますが、クリスチャン歴にかかわらず、このように思いたい誘惑が常にあるのではないかと思います。私もクリスチャンになったばかりの高校生のころには、つい舞い上がってしまって、「君たちは知らないだろうけど、聖書の神こそが本当の神なんだよ」というような雰囲気を醸し出していたかもしれません。クリスチャンはたまたま、というか神の一方的な恵みによって、他の人たちより先にキリストを主と仰ぐようになった人のことを言うのであって、
「あの人はクリスチャンだから、立派だ」とか言うことはまったくありません。
でも、このように高慢な態度を含むという意味で独善的であると思われることは、クリスチャンにとっては避けなければいけないことで、もし私がまわりの人にそのような印象を持たせていたのであれば、ひたすらに謝るほかありません。

キリスト教は排他的だと言われれば、他の神々を認めるかという教義的な面ではたしかにそうであると言えます。しかし、そのことイコール、人に対して排他的なのではないと言いたいです。

「排他的」という言葉を、”自分の仲間以外の者すべてをしりぞけて受け入れないこと”
としてしまうと、キリスト教は排他的か?という質問への答えはNOです。

他の神々に対して排他的な面があることも、人に対しては排他的ではないということも神の真実と愛がそのようにしているのです。

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2009年11月 9日 (月)

マルコの福音書(9):神の御子としての権威(その1)

hide-tanと読むマルコの福音書(9):神の御子としての権威(その1)
*これまでのhide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら

「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。」
(マルコの福音書1章27節)

今日は、新約聖書マルコの福音書の学びのつづきから、キリストの持っていた『権威』について学びたいと思います。まずはじめに、権威の定義を調べてみました。

権威(けんい、Authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。代名詞的に、特定の分野などに精通して専門的な知識を有する人などをこう称することもある。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

広辞苑では、このように権威と権力の区別は明確にされていません。このウィキペディアの書き方だと少しポジティブな印象がありますね。

さて、権威と聞いて、どのような権威を思い浮かべますか?
権威のある人って誰でしょう?
身近なところからは、ドライバーに対しての警察は権威がありますね。
「止まれ!」と言われたら従わないといけません。
仕事の上司とかも権威があるかもしれませんし、子どもにとっては先生や親もそうでしょうね。
大きな権威をもった人は誰でしょう?
一国の首相とか大統領の権威が一番大きいでしょうか。

権威という言葉を聞いた時に、どのようなイメージがありますか?
ちょっとコワいとか、うっとおしいとか、自分の意志に逆らうものといったようなネガティブなイメージがあります。

権威のある人に対しては、多くの人は、それを乱用しないでほしいと願います。
私は個人的には、権威というのは自分を守ってくれる役目があるものであると期待しています。
ここでは、イエスがもたれている神の権威とはどういうものか、イエスの権威について描かれている聖書箇所をちょっと書き出してみました。

まずは3回シリーズで、学びたいと思いますのでお付き合い下さい。

権威をもって教えられたイエス(マルコ1:22)
悪霊の上に立つ権威をもつイエス(マルコ1:23-27)
病気をなおす権威をもつイエス(マルコ1:29-34)

罪をゆるす権威をもつイエス(マルコ2:10)
被造物の上に立つ権威をもつイエス(マルコ4:35-41)
人の上に立つ権威をもつ者に対するイエスの教え(マルコ9:35)
自分のいのちを捨て、それを再び得る権威をもつイエス(ヨハネ10:18)
神以外、誰もイエスに対して権威をもっていない(ヨハネ19:11)

聖書箇所:マルコの福音書1章21節〜22節 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

カペナウム (Capernaum) について
正確な場所は不明ですが、おそらく今のイスラエルにあるガリラヤ湖の北側に位置する町であろうと言われています。遺跡群のある場所であると推測されています。

イエスがカペナウムに至るまでの経緯をさらっと調べてみますと、
ヨルダン川での洗礼→カナの婚礼→初期ユダヤ伝道(約8ヶ月)→カナ→ナザレでの排斥→カペナウム
という感じです。推測ですが、イエスは故郷のナザレを本拠地として活動したかったのではないかと思います。しかし、イエスを子どもの頃から知っている町の人々は近所の子どもであったイエスが神から来られたお方であるとは信じられず、イエスを排斥したのでした。こういう経緯があって、カペナウムはガリラヤ伝道の拠点とした場所として今後たびたび登場します。


安息日(Sabbath)———(創世記2:2、出エジプト16:23,20:11,35:2)
安息日とはユダヤ教の休日で、神が6日間で創造の業を終えられて7日目に休まれたということを覚えて一週間の最後の日(土曜日)を聖なる日として働かないように定められていました。
仕事をしないので、会堂にもっとも人が集まる日であったのではないかと思います。


会堂(Synagogue)について
ここは、主にユダヤ人が神に礼拝を捧げるところです。
普段は主に律法学者が律法を教え(ネヘミヤ8:8、ルカ4:20)、祭司が神への捧げものの儀式をします。また裁判所のような役目も担い(ルカ12:11)、このようないろいろな特権のもとに宗教的な階級が築き上げられていたようです(マタイ23:6)。

そのような場所に今回は特にイエスとはじめの弟子達(=一行)がそこに入り、イエスが教え始めたのです。そこで教えられた内容は他の福音書に詳しいですが、マルコの福音書では、その教え方に権威があったということだけが述べられています。

イエスが、権威のある者のように教えられた
「律法学者たちのようにではなく」とあります。
律法学者のように教えるとは、人の解釈をもとに教えるもので、これは一般的なものです。それ自体は悪いことではありません。
しかし、当時の律法学者の教えについて、おそらく人々が気づきはじめていたであろう問題点は、律法学者たちが自分の立場(存在意義)を守るために、聖書に書かれている律法に勝手な解釈を加えて様々な無理な律法を作り上げ、それを神の命令(=律法)であるとして人々をがんじがらめにしていたのです。
これはいわゆる権力の乱用であったと思われます。

それに対して、イエスの教えは権威があると言われています。
権威がある、というのは自発的に同意・服従を促されるようなものであるということです。
神が私たちに求めている人の歩みは、規則に縛られて、権力に恐れをなして生きて行く生き方ではない。こうしないと神の祟りがあると言ったような恐怖で人々を縛り付けるようなものではない。神はどのようなお方なのかということを知り、私たちを愛してくださる神がきよいお方であるがゆえに、私たちもその神に従うにふさわしい者になりたいという思いを抱いて歩むことが私たちに与えられた神の命令なのです。

こういった考えに裏打ちされたイエスの言葉は、人々の心の渇いたところを潤すものであったのだと思います。

後の箇所で出てくる人々の反応、
「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。」
(マルコの福音書1章27節)

という言葉の中には、人々が、この言葉に従いたいと思わされていること、そして、このような教えを今まで聞いたことがなく、心が渇ききっていたということがわかります。そして、心を潤してくれるイエスの教えをもっと聞きたい、そして実践したいという温かい気持ちが人々の心に湧き上がったような様子が伺いしれます。

・・・とはいえ、この物語には、このように神の代弁者として権威をもって教えるイエスを心良く思わない人たちが多く登場します。マルコの福音書は16章。まだ1章ですが、ここですでにイエスの投げかけられた言葉にこれから前途多難なできごとが続いてきます。

次回からは、イエスの力が闇の力を滅ぼすほどのものであったこと、私たちの苦しみを取り除いてくれるものであったものであるということを一緒に見て行きたいと思います。

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神様。あなたの御言葉をわたしに聞かせ、この心を潤してください。
あなたがどのようなお方であるか、私のためにして下さった奇しい御業の数々を味わせてください。
私から恐れを取り去り、あなたに仕える喜びで私を立たせて下さい。
あなたの権威のもとにへりくだり、あなたへの愛ゆえに「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛せよ」という命令に従う者になることができるようにお導きください。アーメン。
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2009年11月 7日 (土)

お気軽系?Oakland Zoo

今日は、教会で日本語のバイブルスタディを終えたあとで、Oakland Zooまで行って来ました。Img_9717

Oakland Zooは、San Francisco Zooよりは規模は小さめですが、そこそこの種類と珍しい動物が入っていて、よく整備されていて、ふれあい動物園みたいなものもあるので、小さいお子さんを持つご家族に人気のようです(教会の友達からの情報)。スタンフォード大学近辺からは、どちらの動物園も同じくらいの距離です。入場料はやはりSan Francisco Zooの方が高めで、動物を見て回る時間も倍くらいと思います。

それで、Oakland Zooですが、基本的によかったです。
ちょっとした子ども遊園地もありますし、動物の展示の仕方も見やすく、動物がハッピーそうに見えました(本当はそうでもないのかもしれないでしょうけど)。

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今回は、遅めに出掛けて、遊園地でも遊んだので半分くらいまでで閉園になってしまいましたが、メンバーになったので、また時間のあるときに来たいです。
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メンバーシップは家族4人で、85㌦、駐車場も無料になるので3回来れば元をとったことになり、San Francisco Zooは半額、Happy Hollow & Zooは無料(ただし2010年3月再オープン予定)、Lindsay Wildlife Museum,(Walnut Creek)無料(ここはいつか、Mt. Diabroと合わせて行きたいところ)、などいろいろな特典があります。小さなお子さんがいるご家族で乗り物系ではGilroy Gardenの年間パスもおすすめですが、動物系ファミリーにはOakland Zooはおすすめです。Img_9690
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2009年11月 5日 (木)

予定発熱(Scheduled fever)?

新型インフルエンザワクチンのみならず、季節性インフルエンザのワクチンも不足している中で、スタンフォード大学では今年もポスドクは無料でワクチン接種ができるようです。こちら(アメリカ)のワクチンには完全に不活化されていない”ハズレ”があるのか、ワクチンのあとに具合の悪くなる人もいるようです。
私も1回目はセーフでしたが、2回目は3日間発熱して、しんどい思いをしました。

hide-tan  「来週のワクチン、受けるべきか受けざるべきか。去年は熱が出たんだよね。」
chie (実験助手)”受けても罹るかもしれないし、止めておいたら?”
hide-tan 「でもね、年末に一時帰国するから、このまえの学会みたいに旅行をキャンセルとかになったら嫌だから、来週受けて少しでも予防しておいた方がいいんじゃないかと思うんだ。」
chie ”なるほど”
hide-tan 「だから、来週ワクチンを受けて、熱を出すから、来週の実験動物のオーダーキャンセルしといてくれる?もう無理か。」
chie ”そうね(笑)。今からじゃ無理ねえ。”
hide-tan 「それと、ボスにも”来週早々にワクチンを打って3日間熱を出しますから、来週いっぱいはお休みします”って言っておかないと。」
chie "wwwww (大笑い)”
hide-tan ”それと、うちの奥さんにも”僕、来週、倒れてもいい?”って聞いておかないと、彼女もいろいろ忙しいし...。」
chie "wwwww(ますます大笑いのあげく)・・・なんか冗談を真面目な顔をして言うところが面白いわ。”

半分冗談、半分は真剣なんだけど。
まじで迷っているhide-tanです。

To have a scheduled fever or not to have a scheduled fever, that is a question.

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2009年11月 4日 (水)

読書感想文:「イエスはなぜわがままなのか」

著者はフェリス女学院学院長であり、哲学者であり、クリスチャン歴50年という方です。
新約聖書に描かれているイエス・キリストの物語を読んで疑問に思うことについて、できるかぎりの真面目さと誠意をもって答えようとしています。

そこから、

「信じるとはどういうことか」
「信じたらなにが良いことがあるのか」
「神とはどのようなお方なのか」

と、キリスト信仰の本質に迫る話を展開します。平易で説得力のある文章で、少なくともクリスチャンは聖書に書かれている理不尽と思われる記述をどのように理解しているのかということが書かれてあります。

ちょっと違うのではないか、と思わされる記述や、もう少し突っ込んでほしいと思う点も少しあるのですが、これは神学テキストではなく、あくまで一人の信徒の聖書理解を記した本ですから問題はないと思います。

本の帯から。

新約聖書に描かれた

理不尽なイエス、
暴力的なイエス。

イエスの理不尽な言動例
・空腹のあまり、イチジクの木を呪って枯らす
・ブタを集団自殺させる
・弟子に向かって
「おまえなんか生まれてこなければよかった」

どうしてこんなわがままな人を
20億人超のクリスチャンは信じられるの?

面白そうなタイトル、帯コメントですが、このようにとらえてしまう聖書記事が実はそうではないのだと言うことが読んでいくとわかって来ると思います。

とても良い書物でキリスト教に興味を持つ人にはおすすめだと思いますが、ひとつだけ著者の考えと相容れないところがあります。

著者の考えの中で、この本の本流を占めるものとして、
聖書には真実が書かれているが、事実とは限らないという記述に、私は半分賛成、半分反対なのです。
著者は、夕焼けが赤いことを空にレンゲが咲いたようだと書いても、事実ではないが、そのように感じる程に空が赤かったということは真実だと書いています。これは同感です。

たとえば、今でも私たちは、
「太陽が東からのぼってきた」
「月が西に沈んだ」
という言い方をしますが、わざわざ「地球の自転の関係で太陽が東の方に徐々に見えて来た」とは言いません。太陽がのぼるということは正確な事実の記述にならなくても真実を伝えています。

聖書はわかりやすく書くということをひとつの目標にしていたと思うので、事実を正確に伝えることより真実をわかりやすく伝えることを心がけていると思います。

著者は、天地創造に関する記述を暗に事実ではないという書き方をしている一方で、キリスト信仰の根幹をなすキリストの十字架と復活については、歴史的事実として固く信じているようです。

同じ書物に書かれている様々なことがらを、しかも、それが神という単一の著者によって(記述者は複数だとしても)書かれたと信じている書物をとって、「この記述は、事実。でもここは違う」という線引きはどのようにしたらできるのでしょうか?

私には、それができません。というのは、科学や様々な高等な学問を持ってしても聖書の記述が事実であるのかないのかを証明できないからです。著者自身も、確認できないから信じるのだ、見えないものを信じるから信仰なのだと何度も訴えています。

だから、私には、今の科学や様々な学問をもって理屈にあわない、理解できないことであっても「とりあえず」そのまま信じています。天地創造も、ノアの箱船も。もちろん、イエスの処女降誕や様々な奇跡、そして十字架のあとの復活も。

”真実=事実”ではない

という考えには賛成ですが、聖書には事実でないことが書かれていると言い切ることは、私にはできません。
ひとつはそれを証明できないからです。
次に、神がいるのであれば、私たちの理解の及ばないことがらが起きても不思議ではないこと。
そして最後に、聖書は事実に基づいた真実が書かれていると信じているからです。

だから、わたしは、
「聖書に書かれていることがすべて事実かどうかはわからない。しかし、神が記された聖書は、事実に基づいた真実が書かれており、書かれているとおりにすべてが事実であるととらえてもかまわないように書かれている」
と思っています。

それは、『太陽が東からのぼってくる』と思っていても、普通の日常生活には支障がないし、『地球が自転をしているから、太陽が東から見えてくる』とわざわざ考えを変える必要はないのと同じような感覚です。理屈を言えば、地球をぱっとつかんで静止させて考えると、地球が全宇宙の中心であり、全宇宙が地球の周りを猛スピードで回ったり動いたりしていると論じても間違いではないのですが、いちいちそのように論じなくとも、

「太陽が東からのぼって来た。今日も無事に朝を迎えられて感謝だなあ」

と言っていれば、それでよい話ではないかと思うのです。
だから、私は聖書を安心して読むし、毎日安心して神様に感謝を捧げて生きて行くことができるのです。


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2009年11月 3日 (火)

マルコの福音書(8):ガリラヤ湖のほとり(その2)

hide-tanと読むマルコの福音書(8):ガリラヤ湖のほとり

*これまでのhide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら

聖書箇所:マルコの福音書1章16〜20節

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

今回も前回と同じところから学びたいと思います。
ここは、イエスがまず4人の弟子たちを招く場面です。前回はどのようなお方に声をかけられているのかということに注目し、それではクリスチャンはどのようであるべきかということについて、ちょっとだけ考えてみました。

今回は、声をかけられた弟子たちに注目してみたいと思います。

<無学な普通の人>

聖書の記述からわかることは、彼らは「無学な普通の人」(使徒4:13)であったということです。

のちにイエスの復活を目の当たりにして、すっかり変えられた二人が人間をとる漁師として活動しているときに、民の指導者、長老、学者、大祭司の面々の前でキリストへの信仰を弁明します。
そのときの記述がこのように書かれています。

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。(使徒の働き4章13節)

なぜイエスは、聖書に精通しているような学問に心得のある人を招かなかったのでしょうか?
それには、3つ理由があります。

① 神の御前で誰も誇らせないため(1コリント1:29)
神の教えが人間の知恵によるものではないこと、そして、「私は神より知恵がある」とか言わないようにさせるためです。神の知恵を無学な人にあたえ、それを知恵があると思っている人に聞かせることで、そのような高ぶった思いのある人にまで福音を知らせようという神の知恵でもあります。

これを読んで下さっているかたの中には、キリストの教えなんて難しい、それより自分が正しいと思う生き方をすればいい。そして、天国に入るかどうかは神に判断させればよいと思っている人がいるかもしれません。でも、福音は高等教育を受けていなくても理解できるものですし、キリスト教は道徳的な生き方をすることによって救いを達成させるような宗教ではありません。神に罪がゆるされていることを感謝し、それに応じた生き方をしていくことを教えるものです。

また、これを読んで下さっているほとんどの人は
「自分は神より賢いなどとは思っていない」と言われるのではないかと思います。
でもこんな風に思ってはいないでしょうか?

『聖書を少し読んでみたけど、十字架の身代わりなんて、ちょっと子どもじみているし、そもそもキリストだけが救いの道だとかいうのは、間違っている。私の描く神のイメージはもっと大きい。そういう点で聖書には少し訂正が必要だな。』

聖書に書かれているメッセージを否定することは、自分は神より賢いと思っているということではないでしょうか?

聖書のコリント人への手紙第一1章には、
1:自分の知恵によって神を知ることができないのは、神の知恵による
2:神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い

とあります。そして、”十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1章18節)”と訴えています。

”聖書の教えは馬鹿げている”と思ってしまう、そのようなあなたにも神の福音が届くようにと神は願っておられるのです。

② 土の器でも、中身は宝。(2コリント4:7)

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(コリント人への手紙第二4章7節)

自分がクリスチャンになるなんてまだまだ早い、とか、自分はクリスチャンだけど、とても他の人にイエス様を紹介するような器ではないとかお思いではないでしょうか?
私をよく知る人なら、私を昔から知っている人ならなおさら、あのhide-tanってクリスチャンなの?キリスト様のお話なんて、できた面(ツラ)か?と思う人もいることでしょう。
でも、わたしはこの聖書箇所に励まされます。そして、イエスが弟子として選んだ人が、普通の職業につく普通の人であったということも。

神が本当に神であるのなら、この世界でとるに足らないものと思われるような人を用いて、大きなこと、すばらしい業をなして下さるはずです。でも、そのためにはひとつだけ条件があります。

それは、自分の人生を神にゆだねるということです。
宝を入れる器は立派である必要はありませんが、中に他のものがあってはいけないのです。
自分の中に宝を入れてもらう為には、自分が大事に思っているものでさえ、神に明け渡さないといけないのです。「ゆだねる」という言葉は消極的な感じですが、クリスチャンの歩みは、「積極的に」神に自分を明け渡していく歩みなのです。

そして、宝とは神の福音のことです。

だから、もっとも大事なことは、福音に混ぜ物をしないということです。

神の御子であるイエス・キリストが、自分の罪の為に十字架にかかり復活して下さった。私の罪はゆるされ、私はキリストにあって神の子としていただいた。
ということに、酒やタバコはやめないといけない、とか、献金をしないといけない、とか、教会の会員になれなければいけないとかいう「混ぜ物」をしてしまってはいけません。

③ 完全なものとしてくださる。どんなことでもできる。(ヘブ13:20-21,ピリ4:13)

欠点だらけの私たちがキリストの招きに応じて従う時に約束されていることは、神はそのような欠けを補い完全なものと変えて下さるということです。
もともと非の打ちどころがないという人であれば、クリスチャンになる前後ではあまり分からないと思います。しかし、変えないといけないところがいっぱいある人が、どんどん変えられていくと、まわりの人々は、神が生きて働いているのだということを思わされます。神はあなたがコンプレックスを抱いているところや短所と思われるようなところを取り扱って下さり、神が私たちを愛しておられるというメッセージを世に伝える為に私たちを用いて下さいます。

だから、もし自分は欠点だらけで教会になんて行けないとか、キリストを信じるには、まず行いを正してから、とか思う必要はないのです。

網を繕っていたその手を止めて岸辺から、船から立ち上がることです。

あなたが今置かれている状況はひどい状況かもしれません。誰かによってひどくされたのかもしれないし、自分の悪い行いによって、悪い結果が生じてそのために苦しんでいるのかもしれません。自分には何の長所も無いと思っているかもしれません。でも、そういったことが少し改善されてからキリストに従うのではなく、この弟子達のようにすぐに立ち上がり、自分を人間を取る漁師に変えて下さるというお方のもとに向かうことです。
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彼らは、これまで漁師として生きて来ました。
キリストが「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたときに、これまでの彼らの漁師としての経験を生かすことも視野に入れていたものと思います。事実、イエスの一行はよく船で移動したのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)
キリストに従ったからといって、神に人生をゆだねたからといって、これまでの歩みが無駄になるようなことはありません。かえって、今までの歩みーそれが成功に満ちたものであれ、失敗だらけでもあれ、悲しみにあふれたものであれーを用いて下さいます。これまでの人生、あなたは神を捨てて歩んで来たかもしれないですが、神はあなたを捨てはしませんでした。神はあなたが生まれてから今まで、寄り添って歩んで下さっていたのです。もし、今日、あなたが神に向いて生きて行こうと決心するならば、これまでの人生で得たもの、失ったものを用いて神はわたしたちを神の目的にかなったものへと変えて下さいます。

だから、今その場所で、そのままの自分で、「はい、主よ。」と言いさえすればそれでよいのです。

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神様。今、わたしも自分の人生におけるガリラヤ湖のほとりで、あなたのお声を聞きました。
私はこれまであなたのことを知らず、あなたを悲しませるような歩みをしてきました。しかし、あなたはキリストの十字架のゆえにこのような私をも受け入れ、あなたの御用に役立つ器へと作り替えてくださることを感謝します。わたしは今、このままの状態で、後ろのものを置いて、あなたと新しい人生を踏み出したいのです。どうぞお助け下さい。アーメン。
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2009年11月 2日 (月)

はじめての眼科検診

今日は、子ども達をはじめての眼科検診に連れて行きました。
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アメリカの小学校では、集団で眼科検診とかしないので、個別に自分たちで眼科に連れて行かないといけません。
本当は長女minoriはもっと早く連れて行かないと行けなかったのですが、今回は私が緑内障疑いのフォローアップのため、二回目の検診を受けるにあたって、一緒に検診に連れて行きました。

私の方は、眼圧や視神経の所見はボーダーラインのまま悪化していなくて一安心。
子ども達も、はじめてでしたが、検眼士(Optometrist)のインストラクションにちゃんと従って、いろいろ検査を受けていました。

「次女はあやしいかも・・・」

という私の指摘通り、ayumiは、視力検査がいまいちで、メガネを付けると2段階ほどよく見えるようになっていました。日常の生活には支障はないが、眼を凝らさないといけない場面が多いのならメガネをつけてもよいかもしれないし、来年からでもよい、とのでしたが、私の予想がayumiの目つきが気になっていたこと、本人が「メガネをかけてみたい!」と言ったことから、メガネッコになってもらうことにしました。
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子ども用のメガネもたくさんかわいい種類のものがあって(プリンセス系がほとんど)、かわいく見えること、メガネをかけるとよく見えるということで、本人はメガネをかけないといけないというショックはなく、なんだか逆にハッピーな様子です。

夕食のときも、「やったあ、わたし、パパと同じメガネチーム!」happy01と本物のメガネをかけられることを喜んでいました。
なんとも前向き・・・。smile実は、私もメガネでもいいやんって感じなので、ayumiのメガネの仕上がりがちょっとだけ楽しみだったりします。

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2009年11月 1日 (日)

大きなビジョンと小さな一歩。

わたしは臨床医としても、研究者としても「子ども達の健康と幸せのために」役に立つような臨床や研究をしたいと思っています。赤ちゃんが生まれてくる前後に起きる脳へのダメージを防ぐような手だてを考えて予防や治療につながるストラテジーを開発したいという思いがあります。

それは、世界中の子ども達を救うといういわば大きなビジョンです。

しかし、いつもの自分は、いついつまでに論文を!とか、
次の学会発表までに少しでも良いデータを!とか、
次のラボミーティングまでにちょっと格好いい結果を!とか、
来週のボスとのミーティングまでに少しでもポジティブなデータを!
とか、そのような小さな目標にいっぱいいっぱいになっているのです。

そんな小さなビジョンに気を取られて、実験で不注意な間違いをしてしまったりして何日もの仕事をパーにしたりもしてしまいます。

今日、教会のカップルズクラスで学んだことは、「自分の十字架を取って神に従うとはどういうことか?」ということでした。そのグループディスカッションの中で、

1:偉大な神が自分たちクリスチャンを通してなそうとしている壮大なビジョンに立って生きることが大切である

2:そのために必要なことは、大きなことをなすということではなく、小さな行為を始める(近所の人たちと仲良くするとか、教会でちょっとしたお手伝いをするとか)ということを軽んじてはならない

ということを学びました。
そう、自分はいつも小さなビジョンにとらわれ、小さなステップを軽んじてしまっている小さな人間かもしれない。大きなビジョンをつねに描きながらも、小さなことをおろそかにしない、家庭でも、地域社会でも、仕事の面でも、そういう生き方をしたいと思わされました。

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2009年10月31日 (土)

Harvest Fest 2009 (&ハロウィン)

今日は、私の通うPeninsula Bible Churchで、ハロウィン恒例のHarvest Festがありました。
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1時から開始ということで、12時からの飾り付けに行ったのですが、すでにほとんど終わっていました。教会学校の一部のスタッフや、学生のボランティアがかなり頑張ってくださっていたようです。
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ダンクタンク(ボールを投げて、的に当たると水槽に人が落ちるゲーム)には、PBCに新しく来られたキッズパスター(教会学校の牧師)が座って、子ども達から容赦なくボールを投げられ、水槽にドボン!・・・手荒い「洗礼」を受けていました。
   風邪を引かないかどうか、ちょっと心配。
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いろいろなカーニバルゲームでは、ゲームに成功するとチケットがもらえて、それを景品交換所でお菓子と交換。ジャンピングハウスなどで子ども達は忙しく遊び回り、綿菓子やポップコーンを頬張り、ともろこしの皮で人形を作ったり、ハロウィン用の紙袋をデコレーションしたり、face paintingをしてもらったりしていました。最初から参加した我が家の子どもたちも、たっぷり3時間楽しみました。
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去年に引き続き、今年もたくさん(私たちを入れて9家族)日本人のお友達が来て下さりました。
ありがとうございました!同時に、去年にも増すイベントの充実ぶりに、もっと(しつこく?)お誘いすればよかったとちょっともったいなかった気がしました。(教会のメンバーから招待された人は、プレゼントあり&入場無料だったのです。)残念ながら今年参加できなかった方や、これからスタンフォードに来られる方は来年を楽しみにしていてください。
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さて、夜はこれまでのハロウィンと同様、スタンフォードショッピングセンターとアパート内をひとまわり。サンフランシスコに留学中の元同僚のご夫婦も0歳の赤ちゃんを連れてTrick or Treatに参加。
はじめてのハロウィンをご一緒出来て光栄でした。
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2009年10月30日 (金)

ポスドクのメーリス、再び炎上。

今朝、2時間に渡るボスとのミーティングを終えると、同じ件名のメールが山ほど来ていました。

以前にも紹介したスタンフォード大学のポスドクのメーリングリストで、ある提案が物議を醸し出していたのです。大体の流れはこんな感じ。

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私たち、実験のラボじゃないから試薬とか検体とかを譲ってくれとか言うリクエストが来るメーリスから外してほしいんだけど。gawk
    ↓
そうそう、私もそうしてほしいgawk
    ↓
私は、実験は関係ないけど、医学部の人間と関わりがあるから一緒にしないでほしいgawk
(外さないでほしい)
    ↓
Yes/Noをメールで言い合わずに、投票のサイトを作ったから、ここで決めよう。bleah
    ↓
なにこれ?馬鹿げた投票サイトねthink
    ↓
このことは以前にも話題になったけど、結局、メーリスはこのままの状態で行こうと決めたんだよ。
投票は勝手にしてもらっていいけど。happy01
    ↓
っていうか、もうこんなメール次から次へと送って来ないでくれる?angry
    ↓
この一週間の統計をみると、このメーリスで試薬や検体のやりとりに関するメールは43%でした。confident
    ↓
このへんで、象を貸してくれるところは?catface
(以前、インド風の結婚式のために象を探しているというウソのメールで、メーリスが炎上したことがあったのです。詳しくはこちら。)
    ↓
まあ、ハロウィンだし、みんな楽しくやろうよ!smile
僕、女性のハロウィンのセクシーコスチューム大好きなんだけど、男もセクシーにすべきかな?
    ↓
この変なメールを送って来た変な名前のBって誰?gawk
    ↓
まあ、ハロウィンだし、こんなやりとりも許してよね。smile

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今日は完全に、2ちゃんねる化した、ポスドクのメーリス。
60件以上にもわたるこのようなやりとりは、午後5時を過ぎてピタッと止みました。
日中に暇を持て余し、仮装とメールを楽しんでいたポスドク(うちのラボでは大学院生がデーモン小暮みたいになっていました。)がハロウィンウェークエンドの夜の町に繰り出したからでしょう。

一方で、ハロウィン前日にも関わらず、多くのスタンフォードの生命科学系の日本人研究者はまじめにLSJセミナーに集まっていたのでした。日本のスナックを食べながらの、アカデミックなのに雑談っぽい、いい感じのディスカッションでした。

炎上したメーリスよりも、こっちの方が楽しめました。

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