キリスト教は排他的か?
■「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に
(読売新聞 - 11月10日 23:33)
私はクリスチャンですので、”イエス・キリストの十字架と復活が救いの道である”と信じています。これを言ったところで、いじめられることは、今の日本ではまずありません。逆にクリスチャンでない人からも”信じることのできるものがあるというのはよいですね”とあたたかい言葉をいただきます。
問題が生じるのは、新約聖書のヨハネの福音書14章6節にあるイエスの言葉です。
”わたし(=キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(=父なる神)のみもとに来ることはありません”
これを受けて、イエスだけが救いに至る唯一の道であり、聖書にある三位一体の神が唯一の神であると言ってしまうと物議をかもしだすのです。
そのようなときに聞かれる主張は、
--->神様というのは、そのような宗教の枠にはめ込むことのできない大きな存在のことを言うのではないか。
--->どの宗教の神様も正しい、それでもよいのではないか。
--->そのような排他的な教義をもつキリスト教は嫌いだ(排除すべきだ)。
ということになり、迫害が起きて来るのです。
しかし、裏を返せば、クリスチャンのように神は唯一だと言ってはいけない!という主張は排他的であるとは言えないでしょうか?
排他的なのはいけないというのであれば、教義として他の神々を礼拝することを禁じるクリスチャニティを受け入れることができるはずなのに、なぜかその考えは排除され、嫌悪感をいだかれることもあります。
でも、それは仕方ないことです。
私も神様の導きでキリストと出会い、聖書を読むようになったのでクリスチャンになったのですが、もしそういうことがなく、イエスが十字架につかれる程に私を愛して下さっているということを知らされなければ、愛である神に出会わなければ同じことを言い、「排他的な」クリスチャンを罵っていたかもしれません。
しかし、私は神のあわれみによってキリストを信じることができるようになったわけですから、「キリスト教は排他的である」という意見に対して、私なりの弁明をすることが先にキリストに出会ったものとしての役目だと思います。
はじめに、必ず申し上げたいのは、聖書の神は他の神々を否定しているのであって、あなたを排除しているわけではないということです。あなたがもし、キリスト教が嫌いだとか、諸悪の源は世界最大の宗教であるキリスト教だと思っていたとしても、イエスが十字架につかれたのは、あなたと神の関係を損なっている罪を肩代わりするためであったのです。
そして、それはそのような神の子とされているクリスチャンに求められている姿勢です。悲しいことにすべてのクリスチャンがそうとは言えないですが、多くのクリスチャンは他の宗教を信じている人や信仰を持たない人に対して排除するような気持ちはありません。どの人も神によって造られ、神がご自分のいのちをも捨てるほどに愛しておられるということを信じているのです。
だから、排他的になるということはできないはずです。
今の日本で最も影響力のある政治家が「キリスト教は排他的で嫌いだ」と言ったとしても、クリスチャンはその発言に対して弁明をすることおそあれ、「神のために」彼を憎むということは教義上ありえないことです。
クリスチャンは教義上は他の神を受け入れないという点で排他的であっても、他の神を信じたり、聖書の神を否定する人を排除したりするという排他性はありません。事実、クリスチャンの慈善団体の多くは、他の宗教が国教であるような国々で、布教を禁じられているような状況の中で、あるいはキリスト教に改宗したら殺されるという社会の中で、様々な支援を行っています。それは、神がすべての人を愛しておられ、これらひとりひとりのためにイエスは十字架につかれたのだと信じているからです。
教義的に排他的なのは、なぜかと言われれば、「それが真実だから」としか言えません。なぜ私がそう思うかということは長くなるので書きませんが、神がなぜそのように言われるかというと「それが真実だから」です。神は偽ることができないし、”他の神様でもいいよ。それも神様だよ。”と偽ることで人々が罪の問題を解決しないままになり、神の国で永遠を過ごすことなく、神の裁きのもとに置かれることを避けたいからです。なぜ避けたいかと言えばやはり、神はわたしたち一人一人をこよなく愛しておられるからです。
また、キリスト教は教義上、排他的であるがゆえに独善的だという主張もあります。
「独善的」というのは辞書では、自分だけが正しいと考えること。ひとりよがり。とありますが、このようなコンテキストで語られると
”自分たちだけが真理を知っていると思って、他を見下している”というくらいまで意味しているのではないかと思います。ここは正直に言いますが、クリスチャン歴にかかわらず、このように思いたい誘惑が常にあるのではないかと思います。私もクリスチャンになったばかりの高校生のころには、つい舞い上がってしまって、「君たちは知らないだろうけど、聖書の神こそが本当の神なんだよ」というような雰囲気を醸し出していたかもしれません。クリスチャンはたまたま、というか神の一方的な恵みによって、他の人たちより先にキリストを主と仰ぐようになった人のことを言うのであって、
「あの人はクリスチャンだから、立派だ」とか言うことはまったくありません。
でも、このように高慢な態度を含むという意味で独善的であると思われることは、クリスチャンにとっては避けなければいけないことで、もし私がまわりの人にそのような印象を持たせていたのであれば、ひたすらに謝るほかありません。
キリスト教は排他的だと言われれば、他の神々を認めるかという教義的な面ではたしかにそうであると言えます。しかし、そのことイコール、人に対して排他的なのではないと言いたいです。
「排他的」という言葉を、”自分の仲間以外の者すべてをしりぞけて受け入れないこと”
としてしまうと、キリスト教は排他的か?という質問への答えはNOです。
他の神々に対して排他的な面があることも、人に対しては排他的ではないということも神の真実と愛がそのようにしているのです。




















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