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2007年6月17日 (日)

蛍の光

夜に家族で近所の川に蛍を見に行きました。それでも暗い川沿いの草むらや川の真上を悠々と飛び交う蛍の光はとても幻想的でした。蛍はゆっくり私たちに近づいて来て、いとも簡単に捕まえられますが、気づかれない様に手の指の間をそろり、そろりと抜け出ていつのまにか手の甲に乗っていたりします。その光の美しさとともに、その穏やかで自然な動きにも癒されました。

ところで、「蛍の光」という曲は、もとはスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(old long since=昔むかし)でしたが、日本には讃美歌370番「目覚めよ我が霊」として伝わったものに日本独自の歌詞がつけられたようです。

讃美歌370番「目覚めよ我が霊」

(1)めさめよ わが霊(たま) こころはげみ
   ちからの限りに いそぎ進め
   いのちの冠は わがためにぞ
   天にゆく 馳場(はせば)に備えらるる

(2)物見の人々 雲のごとく
   むらがり囲みて われを眺む
   わきめもふらずに 走りすすめ
   栄(さかえ)を授くる 主は呼びたもう

(3)見よ、その栄えの 輝けるを
   並ぶべきものは またとあらじ
   この世の君らの 花のかざり
   黄金(こがね)の冠も ひかりぞなき

(4)みめぐみ豊けき、すくいぬしの
   み声のまにまに、走るこの身
   勝ちの日来たらば そのほまれは
   わが主の力と 歌いまつらん

この歌詞を読むと、以下の聖書箇所が思い出されます。

”競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。”(1コリント9:24~27)

”こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。"(ヘブル12:1)

" 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。"(2テモテ4:7~8)

これらは信仰の歩みを頑張れ〜!といった感じで、クリスチャンとして励まされる御言葉ですが、これからポスドクとしては蛍の光(glow of a firefly)にはお世話にならなくとも、様々な実験で色々な蛍光物質(fluorescence)にお世話になることはありそうです。蛍の光を見てそんなことを考える自分にはなんともロマンがない気がしてしまうのでした。

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