« アメリカに密航する野郎ども | トップページ | 妻のブログ »

2007年6月 2日 (土)

保護者と親の違い

家族をもつ大学院生として、生活費と留学準備金を捻出するためにバイトをしながらの院生生活はそれなりの辛さがありました。バイトさえなければ実験がもう少し進んだのにという日も確かにあり、研究の進行に支障を来したのではないかという思いも時にはありました。しかし、一方で、子育てに励む妻の姿や娘たちの寝顔や笑顔は何にも代え難く、彼女たちの期待と応援があったからこそ、大学院生としての目標を達成できたと思っています。

小学6年生〜中学生のころ、タバコがばれて2回ほど私のために親が学校へと呼び出されたことがありました。そのときに父に言われ、そのあともことあるごとに言われ続けたことが、「誰にメシを食わしてもらっていると思とる!」「親の顔に泥を塗りくさって!」の二つでした。今の私にとっては親としては禁句の言葉ですが、私はこれらの言葉から『この二人(特に父)は、両親というよりは単なる保護者やな。保護してもらっている間は言うこと聞いておいて、さっさと自立せねば』と思うようになりました。社会に出て、結婚してからは心を入れ替えて二人を親に「格上げ」し、”両親”から「やさしくなった」と言われるまでになっていました。その”両親”と先日、あることで大げんかしました。私が激怒したのはあることで私を騙そうとしたことですが、そのような言動の基盤にやはり私を息子と思っていないということが明るみに出たからでした。
・・・・でも、保護者と父(母)を分けるものはなんでしょう?  ただ単に血のつながりや形式上のものでは無いと思います。今日になって私が出した結論は以下のとおりです。

父(母)が、我が子のために生きて、そして死ぬのであり、子が父(母)のために生きるのではない。人が自分の子を自分のために”育て”はじめた瞬間、その人は親ではなくなり、単なる保護者になってしまう。”親”として我が子にどうあってほしいかということより、我が子のために自分はどうありたいかを常に問い続けることで、人は本当の親へと成長させられていくのであろう。

聖書には、神が人となって罪ある私のためにこの世に生まれ、生き、そして死んで下さった、だからそれを受けれた私は天地を創られた神を「父」と呼ぶことができる(ガラテヤ書3:26、4:6)、と言うことが書かれてあります。自分は子として何かをしたから神が父になったのでなく、神が私にこのようなことをして下さったから私が神を「父」と呼べるのだということを思わされました。


だから、娘たちのあどけない寝顔と、純粋な(ときどき疑問?)まなざしから、私は父として、人間としてどうあるべきかを常に問いつづけられている気がするのかもしれないです。そして、そう思うとますます、子どもたちは、自分の所有物ではなく、神様からの預かった大切な魂なのだと実感したりするわけです。

『私たちが神の子どもと呼ばれるために、ー事実、いま私たちは神の子どもですー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(新改訳 新約聖書 Ⅰ ヨハネ 3:1)』
『神はそのひとりごを世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(新改訳  新約聖書 Ⅰ ヨハネ 4:9~10)』

|

« アメリカに密航する野郎ども | トップページ | 妻のブログ »

家族」カテゴリの記事

聖書・教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/409355/6633024

この記事へのトラックバック一覧です: 保護者と親の違い:

« アメリカに密航する野郎ども | トップページ | 妻のブログ »