宗教のこわさ=偽物への警戒?
「宗教は人々の不安を取り除くためにあるのに、かえって不安を煽り、カネを巻き上げている」
これは、今日、NOVAのVOICEクラスに入った瞬間、みんなが話していた内容でした。「スポーツカーを乗り回しているお坊さんがいるやろ。あーいうのは偽善者だと思う。」という人もいました。なるほど、自分はさておき、そのような「宗教家」にはこの世の富とは無縁のものであってほしいという思いがあるのですね。人の魂、心を救うのは本来ボランティアであるはず、だから良い暮らし向きなどしてはいけない・・・という理論なのです。それは宗教という得体の知れないものにたいする偏見あるいは恐怖心と自分では叶わない理想(無償で奉仕する人生)を宗教家という職業に求めたいという気持ちの表れなのでしょう。宗教にたいする批判の中に、不安を取り除いてほしいとか、偽善ではなく、本当の善を施す人に出会いたいという、人の「渇望」を見たような気がしました。
私は、その点では「潤っている」クリスチャンですが、一信徒の意見としては、牧師の生活は慎ましく・・・などとは思っていません。ただ、特に”まっとうな教会”ほど、献金を無理強いしないので、牧師先生の生活が年齢相応の家計収入に到達していないような気がします。教会の勢力の伸び方によっては、牧師の給与を検討すべきで、牧会も含めた働きが評価されれば給与をあげるべきだと思います。でも”まっとうな教会”ほど、新しく来た人にはなるべく献金させないので、教会の人数が増えても会計に反映されるのはしばらくしてからです。教会とお金・・・このテーマはブログの1頁では語れませんので、ここまでにします。
ところで、キリストに対する信仰を批判する人の多くは聖書のことを知らずに批判している場合が多いようです。つい最近まで、私は聖書の真偽を確かめることは自分の信仰を揺るがすことになる、「ダ・ヴィンチ・コード」も観てはいけないと思っていましたが、最近になって、聖書の成り立ちを批判する「ダ・ヴィンチ・コード」の内容自体がでっち上げであることを学ぶにつれ、聖書に書かれていることが本当に本当であることがわかりました。先日のキャンプで知り合ったナースも含めて、聖書の嘘を暴こうとした人が、聖書の真実を否定できなくなったという話をよく聞きます。だから、最近は神様から次の様に語られているような気がしています。
「私の書物を調べてみよ。そこに私が書いたことに嘘があるか、本当に信用に値しないかをよく調べてみよ。」
論文の著者も研究内容に自身があれば、どんなに批判的な読み方をされても動じないように、聖書を書かれた神も、私たちがどんなに聖書を批判的に読んだところで動じることがないのだと思います。
”私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自分を否むことができないからである。(新約聖書 Ⅱテモテ2:13)”
*下は私が通っている教会の初代牧師の書かれた小冊子です。
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