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2007年11月18日 (日)

日曜礼拝シリーズ:洞窟潜水する信仰

礼拝のメッセージは私の通っている教会のホームページから音声を聞くことができます。先週のメッセージはBecoming All thingsでしたが、今週の内容は一見反対とも思えるBecoming Nothingというタイトルでした。
聖書箇所
ピリピ人への手紙2章5~8節
”キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、実に十字架の死にまで従われました。(6〜8節)”
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Cave Diving(洞窟潜水)というものがあります。これは洞窟探検とスキューバダイビングという二つの危険なスポーツをあわせた高度に危険なスポーツです。これには、”ガイドライン”という命綱が必要です。先週私たちは、”すべての人のためにすべての人になる”ということを学びました。しかし、どこまで行くべきでしょうか? 麻薬販売人の人に近づくために私たちも麻薬を売るべきでしょうか?そんなことはありませんね。
How can I sacrifice myself without losing who I am?
(自分のアイデンティティを失うことなく、自分を他の人の為に捧げるとはどういうことでしょうか?注:音声メッセージではHow can I love others without sacrificing who I am?と言っていますが、私が出席したときはこのように言っていたと思います。)このこたえはイエスキリストの生涯から学び取ることができます。
今日私たちは、Anchoring(帰着点をもつこと)とExploring(探し求めること)の二つについて学びましょう。

Anchoring: アイデンティティをもつことで自由になれる
キリストは世に来られる前は、神に等しい栄光をお持ちになっていました。創造者としての神と同じように輝いていたのです。キリストは自分が何者であるのかを知っていて、それがキリストのanchorになっていたのです。
私たちは自分が何者なのか知っているでしょうか? キリストはご自分に自由をもたらすアイデンティティを持っており、それがAnchorになっていたのです。探し求める(Exploring)ためにはそのようなanchorが必要なのです。
私たちは自分自身とは別のものになるようにと教えられることがあります。私たちはしばしば本当の自分でないものになって、自分が誰かに好かれるために誰かを「愛して」いることがあります。それは偽善です。チェスが好きな人を愛するためにチェスが好きなフリをするのでなく、チェスが好きな人のことに興味を持つからチェスに興味を持つようになるのです。一方で、自分のアイデンティティに注目しすぎるとexploreすることを忘れるかもしれず、バランスが大切です。Anchorをしっかりしていれば、適度に長いガイドラインをもってexploreできるでしょう。イエスキリストにはしっかりしたanchorがあったので、ご自分を無にすることができたのです。

Exploring:自分を見失わずに自分を無にする
How can we become nothing without becoming nobody?
”理解出来ない!”と言って誰かのことを突き放したり、あきらめたりしていませんでしょうか?
親や兄弟など自分に親しい人にさえ、そのような態度をとったりしていないでしょうか?自分の主張を抑えて、「理解できない」と思える人にじっくり耳を傾けることで、もしかしたら、自分自身のことが理解できるかもしれないです。「私は薬物に依存していないから、薬物依存の人の苦しみはわからない」と言いますか?私もこの人と変わらない、私も悪いとわかっているとわかっていながらも依存し続けている習慣や考えがあるのではないだろうか・・・と考えることができるのではないでしょうか?
私たちはある特定の人を特別に愛するために地域に遣わされるのです。それは、イエスキリストがされたことです。キリストはあなたを愛するために王の王なる地位から私たちの奴隷のようになり、最後にはもっとも惨い刑である十字架の死にまで従われたのです。”どこまで行くべきか?”という答えに対して、キリストの生涯から学ぶのであれば、”最後の最後まで”と言わざるを言えません。
キリストはすべてを失い、実に、命を失うまでに私たちを愛しましたが、ご自分のアイデンティティを最後まで失うことはありませんでした。
確かに、ある人々との間には立場のギャップや違いはあるでしょう。それでも私たちは探し求める(Exploring)ことはできます。そして、私たちは愛すべき人を見いだすために探し求めるのです。(Exploring for discovery)
黙想:
1:神がどのように自分を作り、どのように救い出して下さったのかを知り、自分が何者であるのかを神の視点から考えましょう。そして、自分のanchorをしっかり持ちましょう。
2:自分を誰のために、どのように注ぐべきなのかを神に尋ね求めましょう。

hide-tanから:
自分がキリストに出会ったときは、まさに暗闇で誰にも知られたくないような精神状態であったときでした。当時、私はある友人を心底憎み、本当にどのような方法で消し去ろうかと思案していたのです。そんなときにひょんなことから教会主催の泊まりがけの高校生のキャンプに誘われ、気晴らしに女の子と友達になろうと思いで参加したのでした。そのときにはじめの集会で牧師が壇上から言った言葉が、「あなたをここに連れてきたのは天地を創られた神です。あなたは今、最も憎いと思っている人のことを赦し、その人のために祈りなさい。」というものでした。私は誰にも知られていない自分の奥深い部分まで見通している神の存在を確信し、信じたのでした。
キャンプから帰って、翌日の新聞を拡げてみるとある高校卒業生が私が考えていたのとまったく同じ方法で親友を殺害して逮捕されたという記事を目にしました。「これは私だったのかもしれない」と思いながら聖書を読み始めたのを思い出します。
キリストはこのように私と出会うために神である栄光を捨てて、このような暗闇を歩む私のところに来てくれたのでした。それならば、私はどのように歩むべきなのか・・・。そのようなメッセージをいただいた礼拝でした。

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