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2007年12月16日 (日)

日曜礼拝シリーズ:恐れからの解放

聖書箇所:ヘブル書2章10-18節
”・・・それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、・・・そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。・・・主はご自身が苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。”
(写真:妻が焼いたクリスマスリースのパン)
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礼拝説教の要旨:
イエス・キリストは私達のことを『兄弟』と呼んで下さると書いています。キリストがあなたのことを”兄弟”と呼ぶ時に彼は私達のことを恥とは思わず、「この○○こそ、私の兄弟です。」と言ってくださるのです。天地を創造し、すべてを引き継ぐ相続権をもたれる神の御子が、私達のことを「兄弟」と呼んで下さる、そのような特権に私達は与っているのです。

私達の長兄であられる御子イエスは、十字架で私達の罪をあがなって下さったことにより、私達をとりまく死に対する恐怖から解放して下さいました。私達人間は、神から離れた生き方をしている限りは「死んだらどうなるか?」と不安を抱きつつ生きるか、「自分は死なない」と無意識に死を意識しないようにして生きているか、あるいは「私は、死など恐れはしない、そこそこ良い行いもしてきたから審判があったとしても大丈夫」と思って生きていくより他ありません。
しかし、神を信じていようといまいと、すべての人に突きつけられているどうしようもできない事実があります。
それは、死というものは私達がコントロールできるようなものではないということです。私達は死を間逃れることはできないし、自分の齢を引き延ばすこともできません。
そのような私達のためにキリストは手をとって、死から解放して下さったのです。

またキリストは私達の大祭司として、神にとりなしをするためにご自身を犠牲にされました。キリストを信じる私達は神からの承認を得て天の御国を引き継ぐものとなるのです。
神に認められた私たちクリスチャンは、なぜ他人からの評価におびえる必要があるのでしょう?
死という恐怖の大魔王を討ち滅ぼしてくださった神がともにいて下さるのになぜ、他のものに怯える必要があるでしょう?

最後に、キリストは私達人間と同じように血と肉をもち、人としての弱さをもち、同じように試みに会われました。しかし、罪は冒さなかったのです。私達がキリストに習おうとして、人生を歩む時に様々な戦いに会うと思います。しかし、同じ人間として苦しみを味わられたキリストだからこそ、私達を励ますことがお出来になります。

あなたは今日、何を恐れているでしょうか?
あなたの兄であり、解放者であり、大祭司である神の御子キリストに助けて頂きましょう。

hide-tanのホンネ:
そしたら、クリスチャンになれば、なんの恐れもなく勇敢に歩むことができるのでしょうか?
そんなことはありません。断言できます!
私は小さなことに恐れつつ歩んでいます。
「次のプレゼンテーションまでにデータが揃うだろうか?」「来月の家賃は払えるだろうか?」「病気になって働けなくなったら家族はどうなるのだろうか?」などいつも気にかけています。
また人からの評価もまったく気にしないということもありません。
ボスや同僚からの評価、自分の子どもたちからの評価、同じクリスチャンからの評価など、時折気にしています。

しかし、クリスチャンになる前となった後での違いはあります。それは、すべてを支配しておられる神がともにいるので、恐れや周りの評価にとらわれることはないということです。

上に挙げたような”恐れ”はそれが生じた時に、神に祈って、自分がなすべきことをした結果を神にゆだねることで解決します。そうすることで、恐れは「やれるだけの仕事をして、その結果をあとで反省すればよい」「精一杯働いて節約しよう」「身体に無理がかからぬように調整しよう」という気持ちに切り替わります。

また人からの評価も自分の評判はどうでも良くなる分、二つの意味で自分に対する評価が気になります。
一つは神の目から見た評価です。
神の子どもとされる特権は、「イエスを誰だと思うか?」という質問に対して、”キリストは神の御子であり、私の救い主です。”と応えた時点で適用されるのですが、「与えられた人生で、イエスに対して何を行ったか?」という別の評価が下されます。またたとえ、そのような評価が下されなくても、自分を愛し、命まで捨てて下さった方、あるいは自分がお世話になった方が自分の人生を見て、喜ばれるかどうかを気にすることは祖先や人生の先輩を大切に思う日本人にとっても理解されるのではないでしょうか?
なので、クリスチャンは神の目を気にします

「自分というクリスチャンを通して見られる神がどのように人に映るか」ということを気にするようになります。「hide-tanってこんないい加減な人間なのか・・・」と思われるより、「クリスチャンってこんな人間なのか・・・」と思われることの方が気になります。本当は”こんな人間でもクリスチャンです。神に愛され、キリストとともに天国を引き継ぎます”と言いたいところですが、誰しもそのような受け止め方をするとは限りません。
私という人間やその行いを見て、「あいつみたいになるのならクリスチャンにはなるまい」と誰かが思っても、その人が神の前に立たされた時に「あなた(神)が、私の近くに置いたクリスチャンがあまりにイヤな奴だったから、キリストによる救いが本当だとは信じられませんでした」と言っても、なんの申し開きにもならないからです。
なので、クリスチャンは”自分がクリスチャンとして、クリスチャンでない人にどう映るか”を気にします。

クリスチャンであるということは、たまたま自分がなんらかのきっかけで他の人より早く救いを手にしただけであって、クリスチャンであるから立派だとか、そんなことは全くありません。また何も恐れず常に勇敢に人生を歩んでいるものでもありません。逆に私は、聖書が語る神が真実であり、キリストによる救いが本当であると知っているので、神を畏れ、神の目を喜ばせるような歩みをしたいですし、自分のあり方がクリスチャン人口が少ない日本人の中にあって、誰かをキリストから遠ざけるようなことをしていないかということに怯えています。
一見逆のことを書いているように思える以下の神の命令は、そうした姿勢によって守られるのではないかと思っています。

『強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア記1:9)』
(写真:今日私がアレンジしたクリスマスリース)
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