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2008年1月21日 (月)

日曜礼拝シリーズ:海辺からの呼ばわる声

聖書箇所:
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。(マルコ1:16〜18)

これまで私たちはマルコの福音書から、荒野で叫ぶ洗礼者ヨハネの声天から届く父なる神の声を聞いてきました。今日は、海辺から呼ばわるイエスの声を聞きたいと思います。

ここで、イエスはシモンとアンデレという二人の兄弟に声をかけ、「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びかけています。イエスは彼らに「私についてきなさい」というメッセージとともにこのような微妙な(比喩的な)ニュアンスの言葉で声をかけています。渡り鳥のような移動を常とする生き物の中にはちょっとした気候の変化をにわかに感じ取り、行動をおこすものもあります。私たちへの神からの呼びかけもそのようなものかもしれません。静かにあなたに語りかけるイエスの声は。あなたの人生を大きく帰るよびかけかもしれないのです。

このような呼びかけを受けたときに私たちは安心して従えば良いのです。イエスは私たちは呼びかけるだけでなく、私たちを教え導き、私たちをよりよい形に作りかえてくださいます。あなたは自分自身で自分を作り替えようとか自分で何か変化を起こそうとか思う必要はありません。あなたがイエスに従う決心をしさえすれば、あなたを作られた神ご自身があなたを変え、あなたを用いて神の良い業を行って下さるのです。そして、彼は私たちが考えるよりさらに大きな変化を、あなたを通して世界に起こしたいと思っておられます。

もう一度言いますが、あなたは自分で何かをしようとする必要はありません。しかし、神は「ついて来なさい」と言って、あなた自身を必要としてられるのです。

そして、イエスは私たちがどのような人生を歩んで来たかということを知っておられるので、”人間をとる漁師にしてあげよう”というように、私たちの背景を反映させた語りかけをしたり、私たちの得意分野を用いようとしてくださることがあります。しかし、この聖書箇所には”網を捨て”とあるようにイエスの弟子になるためには、これまでの人生で大切と思って来た「何か」をあきらめる必要があるかもしれません。しかし、神は私たちが捨てなければならない何かをはるかに凌ぐよりよい恵みを与えて下さいます。

ドイツの有名な神学者Dietrich Bonhoefferは、学者としてのキャリアを捨てて、ナチスに対抗すべく教会の活動に加わりました。当時の教授陣は、”教会の混乱のための犠牲となった”ことを嘆き、彼自身はついには第二次世界大戦が終わる直前に絞首刑にされたのでした。彼はキャリアを捨てて、神の計画に従いました。彼はいのちを捨てなければなりませんでしたが、彼自身、その著書”The Cost of Discipleship"で神からいただく恵みには二種類あり、その一つが「犠牲を伴う恵み」であると記しています。彼は最後までキリストにつき従い、本当のいのちを得たのでした。

今、私たちは海辺から呼ばわるイエスの声を聞いているのではないでしょうか?
「私について来なさい。」という声を。

hide-tanの注:
これは、神様からの救いを得るためには職業を捨てたり、いのちを捨てたりする必要があると言っているのではなく、クリスチャンとして、神からいただく報酬の素晴らしさを知っている人に対して向けられたメッセージです。キリストの救いを受け、永遠のいのちを得るためにはキリストが十字架で私たちの罪の身代わりになって死んで下さったことを信じればよいのです。キリストの弟子となり、時には犠牲を払ってまでも神の御心にかなった生き方をすることで、さらに豊かな報酬を受けることができるということをすすめているメッセージです。

子どもがある人の子どもであるためには、ただ生まれてくるだけでその親の子どもですよね。
この親から生まれて来たという事実は変わりません。”信じて救われる”ということは、このように新たに生まれることを意味します。一方で、その子がその親の子らしく育つためにはその親に習わないといけません。もしかしたら、これを読んであられる方の中には、自分の親へのイメージが悪い方もおられるかもしれません。また自分が親として子どもに対して関われていないことに気づいたり、多くを背負わせすぎているようなことを反省している方もおられるかもしれません。

しかし、天の父なるまことの神様は、完全な方です。私たちを形づくった方なので、私たちのすべてを知っておられます。そして、まったく欠けの無い愛で私たちを愛してくれています。キリストを信じたときには人は間違いなく神の子として生まれます。しかし、神は私たちすべてが、ただ生まれるだけでなく、神の子として、”神の目から見た”豊かな人生を生きることをのぞんでおられるのです。それは神の、子を愛する親としての性質の現れです。

なので、イエスからの「私について来なさい」という声は、「我が子よ。私はあなたを子として愛し、育てたい。あなたの人生が良いもので満たされるように、私に習いなさい。」と言って下さっているのだと思います。だから、海辺から呼びかける声は、私たちの心に重くのしかかるものではなく、とても嬉しく光栄な呼びかけとして高らかに私たちの胸に響くのです。

The Cost of Discipleship


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