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2008年2月25日 (月)

日曜礼拝シリーズ:(後半)あなたの心を開くもの

マルコの福音書3:1-6 book イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

説教要旨(後半):
正しいことを行うキリストは、”正しいこと”を教えているはずのパリサイ人にとって脅威になっていました。すべての日が安息日となることは、神の国の到来の目的です。キリストは手のなえた人を癒すことで、安息日の意味、目的を回復させたのでした。
しかし、これを見たパリサイ人はイエスを殺す計画を安息日に立てたのです。それを知っていて、イエスは「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われたのです。

私達は自分の行為を正当化することを真理を探究することであるというふうに置き換えていないでしょうか?

かたくなな心は自分の周りに壁を作り、他人のあやまちをゆるさない心です。
他の人の心を大切にしない心です。

キリストはそのような彼らの心を見て、「怒り」「嘆かれた」と書かれています。
それはそのようなかたくなな心をも癒したい、という気持ちの表れに違いありません。

もしかしたらあなたは他人との関わりに対する恐れから、神に対しても一定の距離を保ちたいと思っているかもしれませんね。しかし、神の霊があなたに働かれることをゆるしてください。そうすれば神はキリストの本当の心を見えるようにしてくださいます。
それは、以下のフォークソングの歌詞にあるようにあなたのかたい心をも受け止めたいという思いです。そして、今日のクワイアー賛美の歌詞にもあったように(〜Gaze of love melt my pride〜)あなたのかたくなな心を柔らかくしてくださる彼の眼差しを見ることでしょう。

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Hard Partnote
(David Wilcox and John Whalen)

I see the look that's in your eyes
That says 'I must keep most of me inside
'Cause you'd never love me if I didn't hide
the secrets of my heart”

Well I'm not here for the surface stuff
I just get bored with all that fluff
So show me the edges even if it's rough
And let the real love start

You think your shame and deep disgrace
Are more than I can bear
But you can go to your darkest place
I will meet you there

And I'm strong enough to take it
And I know what you've been through
You've got a whole heart
Give me the hard part
I can love that too

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hide-tan感想:
ここで牧師はたしか、recreationという言葉を使っておられました。休養を意味するrecreationは、よくみると、re+creation:再創造=新しい天地を創りなおすことを意味するんですね!これはクワイアーの中でも話題になりました。キリストの行為は、来るべき本当の安息日の到来を知らせるものでもあったのだと思います。

黙想では、

他人より勝ろうとすることが他人を愛そうとすることより重要なものになっていないでしょうか?

ということが語られていました。

私の黙想は以下の感じでした。
「そのような他人よりも勝っているものとしてみられたいという思いが自分の心の中にもあるんじゃないか、他人を裁く思いから完全に逃れることはできないし、世間体を保つ為にしきたりに捕われて本来すべき愛に基づいた行為ができなかったりもする・・・。キリストはそんな時、どうされていたのだろうか?・・・キリストは、自分を批難しようとする悪意の只中にあって、手の萎えた人の心を大切にしたのだ。”今日は安息日だから、また明日来なさい”とは言われなかった。安息日という決まりごとよりも、あなたの傷ついた心、あなたを悩ます萎えた手を癒すことが大切なのです、と言われたのでした。キリストは、この手の萎えた人を愛する為に律法の決まりごとを破られたのだ。
キリストは愛するために負けて下さったのだ。

キリストの十字架は、罪で歪んだあなたと私を助けるために負けてくださった出来事であり、キリストの復活は彼の正しさゆえにあなたと私のために勝ち取られた勝利なのです。

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