« Good Friday 2008 | トップページ | 日曜礼拝シリーズ:その「感じ」が安息 »

2008年3月23日 (日)

愛ゆえの愚かさ

話の流れで、自分がクリスチャンであることを告げるとよく受ける質問がいくつかあります。
一見、これは聖書の真実性やキリストによる救いを揺るがすのではないかという質問に答えることで、自分の中での聖書理解が深まることがよくあります。
今日もポトラックバーベキューパーティに参加した席で、次のような質問を受けました。

「神というものは、なぜ神に逆らうという選択肢を選ぶことができる人間を作ったのか?」

こういった問いに関する大抵のキリスト教書籍におけるこたえはこんな感じではないでしょうか?

”神は自由意志をもって、人間に神を愛して欲しかったのです。神は自分の思い通りになるようなロボットのようなものを作るよりも、人間との人格的な交わりを求めておられるからです。”

・・・後半部分は納得ですが、前半部分はちょっと違うかもしれません。この答えだと、やはり神の自己中心みたいに聞こえる人もいるでしょう。
8371

創世記にはアダムが神の言いつけに逆らって食べてはならない木の実を食べた直後に、キリストによってサタンが滅ぼされるということを神が述べたということが書かれています。(創世記3:15)
ということは、何でもご存知の神のこと、人間が神を裏切るであろうこと、そのため、人間の罪を解決する為にキリストの十字架が必要であったことを予見していたようなのです。

それでは、上の質問は”なぜ神は裏切る可能性が高い人間に選択肢を与えたのか?”と、さらに厳しく追及できるのではないでしょうか?

私なりの答えはこうです。

神は、真実の愛で人を愛しているので、自由意志を与えた。 そして、愛しているがゆえに人を信じようとされた。

たとえば、結婚相手が「浮気しないように毎日1時間毎に行動を報告するように。」と相手が言ってきて、それを守らないからと言って大騒ぎするような人だと、その人は自分を本当に愛していると思いますか?思わないですよね。自由を与えておいた上で、信じるということこそが愛するということではないでしょうか?

しかも、神は人間の裏切りが、罪をまったく受け入れることができない絶対的な正しさと聖さをもつ自分との交わりが絶たれる結果を引き起こすこと、それが人間に肉体と霊の死をもたらすことを知っていたのでした。

そして、同時に、愛そのものである神ご自身がそれでも人間を愛さずにいられないことも・・・。

そして、神の意に反して罪をもつことになるであろう人間を愛し続けるために、自分の命を犠牲にして、人間にかわって十字架でひどい苦しみを受けなければならなかったことも・・・。

神が自由意志をもった人間を作って、しばし人の視界から離れた時にどのような気持ちだったのか?
裏切られたことを知りながらアダムに「あなたは、どこにいるのか?」と呼びかけたときにどれくらい胸が張り裂けるような思いをしていたのかを想像すると、神の愛の大きさを感じざるを得ません・・・。

さかのぼって考えると、神はそんな人間のために美しい世界を作り、人間に支配させようと与えられたのでした。裏切られる可能性が高い人間のために、しかも、その人間への愛のゆえに自分が極限の苦しみと死を経験するであろうに、なぜ、そのようなことをしたのでしょう?

新約聖書にはこのような言葉があります。

book「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(1コリント1:25)

それでも、こういう人はいるかもしれません。
「なぜ、こんな愚かなことを?なぜ、罪を冒すような自分をここに存在させ、罪があるから地獄にいかないといけないなんて甚だ迷惑だ。」

自由意志をもたせたのは神の愛の責任です。
裏切るような選択肢を選んだのは、人を惑わしたサタンと、それに従った人の責任です。
神は自分の愛をさらに貫く為にキリストの十字架という苦しみを選択しました。
そして、それに答えて神のもとに立ち返るのは私たちの自由意志の問題です。
あなたに自由意志をもたせた神は、あなたの選択を祈るような気持ちで待っておられるのです。

あなたと私を今、ここに存在させたかった神は、永遠をともに親しく過したいと思って存在させてくれているのです。そして、ご自分が用意された救いの道を選んで欲しいと、あなたの息の最後の最後が吐き出される瞬間まで懇願し続けているのです。1600年の年月をかけて書かれ、1700年以上の間、歴史の中で書き換えられること無く、世界に影響を与えて来た聖書に書かれている神はそのような神なのです。

bookちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちはキリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 神は、罪を知らない方を、わたしたちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:20-21)

|

« Good Friday 2008 | トップページ | 日曜礼拝シリーズ:その「感じ」が安息 »

聖書・教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« Good Friday 2008 | トップページ | 日曜礼拝シリーズ:その「感じ」が安息 »