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2008年3月10日 (月)

日曜礼拝シリーズ:休んで負うくびき

今日からサマータイム(Day light saving time)が始まりました。

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いつも午前7時半に集合して礼拝前のウォーミングアップをするクワイアーですが、今朝はサマータイムの初日なので、6時半に集合みたいなもので、みんなちょっと辛そうでした。

ウォーミングアップが終わって、はじめて教会に来てくれた同僚を迎え、空き空きの会堂で礼拝が始まりました。『なんでやろ?いつもはもっと多いのに・・・。』という私に彼女は「そりゃそうでしょ。時間がずれたから。私もつらかったもん。」と即答。なるほど・・・15分くらい経過してだんだん会堂が埋まって来ました。

礼拝説教の要旨:

Be still and know that I am God;
I will be exalted among the nations.
I will be exalted in the earth. (Psalm 46:10)

安息日は、ただ単に何もしないということではない。
自分の生活を支えていると思っている日常のことがらを止めて、自分の生活を支えているのは自分自身ではなく、天地を創られた神であることを思い出すためである。
「自分で何でもできる」とか、「自分は必要なものを何でも持っている」という考えを止めて、国々や創造物の上に立たれる神のもとで静まることをしましょう。

hide-tanより:

教会の説教を聞くと、「自分から何もしてはいけない。神様により頼みなさい。」ということが繰り返し語られ、今日来てくれた同僚のようなノンクリスチャンが聞くと、

”クリスチャンはなんと向上心の無い人たちなんだろう。『天は自らを助くる者を助く』というじゃないか。”

と言われることがあります。
実は『天は自らを助くる者を助く』という自助論は実は聖書に書かれていることではないのです。

では、クリスチャンは働かなくてもよいのでしょうか?

そんなことはありません。むしろ逆です。
キリストは私達ひとりひとりを招いて次のように声をかけて下さっています。

bookすべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしのくびきは軽いからです。(マタイの福音書11:28-30)

”休ませてあげる”と言っているのに、”わたしのくびきを負いなさい”ってどういうこと??
と思いますよね。うまく説明するのが難しいですが、わたしは以下のように解釈しています。

私達はみんなそれぞれの重荷を負って生きていると思います。若い人は不安や受験勉強を取り巻く重圧感、若い社会人はいきなり与えられる社会的責任と人間関係。子育て、近所付き合い・・・。将来に対する不安を払いのけるために人は一所懸命に何かに励み、自分の居場所や自己実現を求めて努力を重ねます。「生きることって、つらい。でもそれが人生。」と思ったことは一度ならずともあるのではないのでしょうか?

キリストを心に受け入れることで、自分の居場所が確保できます。それは親子関係よりも強く、夫婦関係よりも確かで、兄弟関係よりも親しい、永遠に続く関係の中で確保していただけるのです。心優しいキリストは、どこまでも優しく、へりくだり、私達の足を洗って下さる神なのです。(ヨハネの福音書13:1-16)・・・ちなみに、この行為はお互いに仕え合うことの模範としてキリストが弟子たちにされた行為ですが、「足を洗う」と聞くと、新しい人生の出発のようにも思いますよね。(これは余談)
神に愛され、受け入れられていること、神が自分を目的をもって創られたお方であることを知った人は、少なからず、「神様のために何かをしたい」と思うようになります。しかし、この時に「神様の素晴らしさを世の中で輝かせるような働きをしたい」という純粋な思いから「自分はクリスチャンとしてコレコレをして後世に名を残したい」などという気持ちが入ってしまうと、そのくびきは重くなってしまいます。

神はわたしの人生の神であって、すべて神の目的に適ったことだけが成就するようにのぞみ、人生がどのように進んで行くかも神の御心どおりになってほしいと思えるところまで休んでいなければならないのだと思うのです。神が本当に神ならば、その神が自分のために十字架にかかるほどに自分を愛してくれているということが本当ならば、自分が理想とする人生よりも神がわたしに望んでおられる人生を歩むことこそが自分にとっても最も良い人生なはずであると気付くはずです。

なので、キリストは”わたしのくびきを負いなさい”と言われたのだと思います。

なので、キリストはまず自分のところに来て、神の子とされた確かな証拠をもって安らぐことをまず求めておられ、そのような確証をもらっているクリスチャンは自分自身のための人生の重荷をおいて、キリストのくびきを背負うことを求めておられるのです。

そのくびきは、その人によって違う「神のくびき」なのです。その人にあったくびきであるために負いやすいのです。なぜなら人はそのくびきを背負うためにデザインされ、その人の人生はそのために備えられてきたからです。自分を創られた神が用意してくれた人生の目的にそって生きる時に、そのくびきは神ご自身(聖霊)によって背負われるので、重さはさほど感じられず、自分では説明のつかないような働きが出来たり、目的通りに生きる喜びに満たされるのです。

現実に戻ると、職場ではおそらく"Do your work!"と急かされることと思いますが、同じことをするのにも、心の中で、"Yes. I am doing His work."と言い直すことで、仕事に対する意識や姿勢が違ってくるのでは・・・とも思うのです。そう思えるようになれば、神とともに歩む一歩を踏み出したことになるのです。
(今日の写真はPalo Alto市の海岸にある公園、Baylands Nature Preserve)
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