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2008年3月24日 (月)

日曜礼拝シリーズ:その「感じ」が安息

今日はイースター礼拝で教会はお祭りのように活気づいていました。
ミニオーケストラ付きのクワイアー賛美もあったので、私たちがお誘いした大人10人と子ども8人のお友達がはじめて日曜礼拝に来てくれました。来て下さった皆様、ありがとうございました。happy01

説教要旨(若干の編集あり):

bookすべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11:28)

私たちの痛みを知っておられ、重荷を担うことができる神であるキリストのもとに来ることによってのみ、私たちは本当の安息を得ることができます。
キリストは十字架上で、「完了した」と言われました。(ヨハネ19:30)
そして、「神よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って息を引き取られたのです。
キリストは私たちのための救いの業を完成し、父なる神に霊をゆだねたのです。
聖書は、Jesus rose from the dead.とは書かずにJesus has been risen from the dead.と書かれています。イエスは自分で甦ったのではなく、父なる神に甦させられたのでした。逆に、キリストもその復活の業を完全に父なる神により頼んでいたのでした。

あなたは自分の人生の中に自分の王国を持ち、その王座から離れたくないと思っていませんか?
自分の人生は自分でコントロールしたい。そんな気持ちがあるので、人生を神にお委ねするということをためらっているのではないでしょうか?
しかし、人生は自分でコントロールできないことだらけです。
私たちを愛し、すべてをコントロールされるできる神に人生の主導権をお任せすることで、あなたに安息がもたらされることでしょう。

キリストの復活は、キリストご自身が言っていたように神の子であり、私たちの罪が完全にゆるされ、神と和解し、永遠のいのちを得ることができるようになったということを証明するできごとです。

だから、私たちはキリストの十字架と復活を仰ぎみることで、魂に安らぎが得られ、本当の安息を得ることができるのです。今日、あなたの心にキリストをお迎えし、永遠の安息への招待を受け取りましょう。

(写真:今日は教会のメンバーからイースターランチに招待されました。他の写真はこちら。)
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hide-tanの感想:
mobaqキリストでないと本当の安息を得ることができないのはなぜか?
今回の説教は主にクリスチャンを対象にしていたのか、このような疑問を持つ方も多いと思います。
いつもは理論的に説明したい私ですが、今回は自分の経験で答えたいと思います。

この質問には、本当の安息とは、何か?ということがわからないといけないのですが、実は、私もクリスチャンになるまで、わかりませんでした。本当の安息とは、”神が下さる安心”と理解しています。
キリストの十字架の死によって、神との和解が得られたことを、その復活によって知り、それを受け入れることで、その人にはキリストの霊である聖霊が住まわれます。そして、その聖霊がキリストが神であることをさらに確信させてくれ、神が自分に対して怒っていないだけでなく、自分が今まで経験したことのないような大きな愛の眼差しで自分を見てくれていることがわかるのです。そして神が遠くにいるのではなく、まさに自分の内にいるような、後ろから教えてくれるような、なんかそのような感じです。それだけでなく、その感じは他の人に対して、神がどれほどその人を愛しているのかを感じることもあります。その「感じ」というのは大きくなることも小さくなることもあるのですが、大抵は聖書を読んだり、祈ったりすることが多いとき、悪いことをしたと思っても素直に神の前に「ごめんなさい」と言えるような状態のときに強いものがあります。信仰は「感じ」にたよってはならないのですが、そのような「感じ」があることは確かです。自分の中で、その「感じ」というのが神が下さる安心であり、それが天国の前味のひとつ(もうひとつはクリスチャンが集まっている場所や時間)であると思っています。

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