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2008年3月17日 (月)

日曜礼拝シリーズ:これは「きょう」の話。

「ダビデの子にホサナ。
 祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
 ホサナ。いと高きところに。」(マタイの福音書21:9)

<hide-tanの前置き>
今日は”しゅろの聖日(Palm Sunday)”と言って、イエスキリストがイスラエルの王としてエルサレムに入ったことを記念する日です。イエスを熱狂的にホサナ!ホサナ!と言って迎え入れた日です(マタイの福音書21:1-11)。しかし、この5日後にキリストは十字架にかけられます。
礼拝の聖書箇所はヘブル人への手紙3:7 - 4:16でした。詩篇95篇についての説明が書かれているところです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民をもといたカナンの約束の地へと戻らせるようにモーセという指導者を立てて、海を分けるまでして出エジプトを達成してくれた神を体験しながら、イスラエルの民はこの約束の地に住む、パレスチナ人を恐れて、入って行かなかったのでした。その結果、イスラエル民族は40年間も放浪しないといけなくなりました。時を経て、ホサナ!と言ってイエスを迎え入れるように思えたイスラエル民族も、結局は神の子を退け、その結果、救いのメッセージはイスラエル以外の民族の教会を通して広く伝えられるようになったのです。
この箇所のメッセージは、私たちの本当の安息は天国に入ること、そのためにはキリストの救いを受け入れることが必要であるということが主題です。
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礼拝説教要約:
シュロの日曜日は、イエスが歓迎されて、エルサレムに入られた日です。彼らはイエスを、宗教的、社会的、政治的な解放者として迎え入れたのでした。あなたの人生で待ち望んでいることはなんでしょうか?
神は、あなたに安息を用意してくださっています。私たちは、今、神の用意してくださる安息を待ち望んでいるのです。聖書は「それを得る為に努力しなさい」と書かれています。それは、信仰を持ち続けなさいということです。
そして、その信仰とは、キリストイエスにある救いです。

信仰とは何でしょうか?

それは、過去に神様がしてくださったことを見ることで、未来にしてくださることがらを知るということです。

モーセが導き入れられなかった地にヨシュアが導き入れたこと、イエスがイスラエルの王として、来られたことなどは、将来私たちが天の御国に入ることができること、イエスが王であることの予見です。

クリスチャンとされた私たちが神の前に安らぐ経験をすることは、将来、神が用意して下さっている安息の「前味」なのです。私たちはそうした前味を味わいながら、来るべき本当の安息に入るための備えをしたいものです。

hide-tanの感想:

「きょう、もし御声を聞くならば、
 あなたがたの心をかたくなにしてはならない」
(ヘブル4:7)

『キリストの救いを受け入れると、その人には永遠の安息が約束されます。』
このようなメッセージは、本当に本当で、クリスチャンがキリストをまだ信じていない人に語りたいのですが、一方で、次のような反応が返って来ると、どう答えてよいのかわからなくなります。

”安息に入れなければ、死んだらそれで終わり。天国みたいなところには行かなくてもいい。”
”あるかないかわからないようなところに望みをおいて生活するより、今の現実をしっかり生き、楽しまなくては。”

しかし、聖書には、心をかたくなにして神の言葉を拒絶した場合には、その人は”決して安息には入れない”という書き方がされています。そして、キリストは罪をもったままだと入らないと行けない地獄について何度も警告を発せられました。

神が用意される安息に入らない場合にはどうなるのか?

それは、永遠に火で焼かれ続けられるという苦しみであると書かれています。

以前に起きたことを参照にして、未来に起きることを知ることが大切であると説教者は語っていましたが、聖書が世界の歴史に最も大きな影響を与え続けているという事実、1600年もかけて、40名もの様々な職種の人によって書かれたのに一定のテーマが貫かれているという不思議な書かれ方をしている事実、ユダヤ民族に対する聖書の預言が次々に実現してきたという事実、旧約聖書で350ほどもあるキリストの預言がイエスにおいて成就したという事実、多くの人が預言どうりに十字架と復活を目撃した事実が聖書に書かれています。これらから聖書は「無視出来ない書物」であることは明らかです。

その聖書に、キリストへの信仰によってもたらされる大きな祝福とそれを拒んだ場合の恐ろしい結末が書かれているのです。

だから上の聖書箇所で「きょう」と書かれているのは、
「今日を逃したら、”信じたら救われる”キャンペーン期間は終了です。あとで欲しくなったらお金を積むか、人助けを頑張るかしてください。」
と言っているのではなくて、
「今日を逃したら、明日の保障はありません。機会を逃したら、あとで安息に入りたいと思っても、何をしても永遠にチャンスはありません。」
と警告しているのです。

神の子であるキリストが十字架にまでついてくださったのは、神様の私たちへの愛であることは確かですが、神ご自身であるキリストが、あのような惨い刑に処せられない限りは私たちを逃せさせることができないほど、罪の報酬が恐ろしいのだという一面もあるのです。

また、そもそも地獄というものは人間が行くために作られたものではなく、神に逆らったサタンを永遠に滅ぼすためのものなです。しかし、サタンは神に似せて作られた人間を惑わし、罪の性質を持たせることで、デフォルトでは神の基準の聖さ、正しさに達しなくなり、サタンとともに地獄に下らないといけない存在になってしまったのです。神は公平で正しいかたなので、サタンでさえも逆らえない正しさで裁きを行わないとサタンを裁けないのです。
そして、サタンの”道連れ”から買い戻しの代価が払われたのが、十字架で流された神の子の血だったのです。それによって、十字架を感謝し、キリストに心を向けるという「悔い改め」という変換を行うことで、私たちは再び神の子として受け入れられるのです。

だから、私は自分の経験からもこう断言します。
もし、「きょう」、キリストの十字架の救いに"Yes!"と言って次のように祈るなら、今日という日は、その人の生涯にとって最高の日になるのです。

天の神様。
私はあなたのまえでは罪人です。
今日、わたしは神様が御子キリストの十字架を通して私の罪を取り去られたことを聞きました。
わたしは自分が神の子とされたことを信じて感謝します。
アーメン。


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