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2008年6月16日 (月)

日曜礼拝シリーズ:神の御前での悲しみ

聖書箇所:2サムエル1章

*背景の解説 この箇所は旧約聖書に出てくる有名なユダヤの王であるダビデが、その前に王であったサウル王とその息子のヨナタンが戦死したことを受けてダビデが悲しんだ様子が書かれています。 ダビデはサウルに対して忠実な部下だったのですが、神がダビデを祝福し、彼に大きな働きをさせたためにサウルは彼に嫉妬し、その命を狙ったのでした。ダビデは、その後、親友のヨナタンとも別れて荒野に逃げなければなりませんでした。そのような状態でダビデはこの知らせを聞いたのでした。

要約(イタリック体はhide-tanによる補足)
戦場で自害しようとしているサウルにトドメを刺したアマレク人の兵士がその様子を報告しに来たときに、この兵士はダビデが喜ぶであろうことを期待し、もしかしたら褒美をもらえるかもしれないと思ったことでしょう。なにしろ、ダビデの命を追っていたサウルが死んだのです。しかし、ダビデの反応は違いました。ダビデはひどく悲しみ、神に油注がれた王に剣を立てたこの兵士を処刑したのでした。

ダビデは自分の立身出世のことよりも神が立てられた王が亡くなったことを深く悲しみ、家来たちとともに悲しみを現したのでした。サウルは神への不従順のために退かなければならなかったのですが、サウルが退くことは本当は神の御心ではなく、この行為は神の悲しみを自分の悲しみとした行為でした。ときに悲しみを現すことは、人生を前進することにとってマイナスに思えるかもしれませんが、このような行為は私たちが悲しみを正しく処理し、前に進むために必要なことです。

私たちクリスチャンも愛する人を亡くすときに悲しみます。亡くなった人がクリスチャンであり、天国で会えることが分かっていても、亡くなった人が今は天国にいて幸せであることを分かっていても、この世で会えないことを悲しむことはもっともなことです。悲しみを感じるとき、それを神の前で隠す必要はありません。それを健全に現すこと無く押し殺してしまえば、しばしば「怒り」となって現れてくることがあります。私たちが神のみこころにそった悲しみを経験するときに私たちは成長させられ、私たちは人生の軌道を取り直し新たな歩みをすることができるのです。

hide-tanの感想
私も大学生のときに兄の慕っていた教会のメンバーSさんが、激しい闘病生活の果てに亡くなることを経験しました。看護士として勤務していたSさんは、「同じく医療に携わるものとして神様とともに頑張ろう。楽しみにしてるで。」と、私の医学部入学を殊更に喜んでくれた一人でした。

彼が亡くなったという知らせを聞いたとき、昇天式に出席したとき、そして記念礼拝に出席したとき、私はそれこそ声をあげて泣きました。Sさんが今は苦しみも無くイエス様とともにいることも、いつか天国で会えることも、神様がS兄弟とその家族に良い計画をもってゆるされた出来事であることもわかっていたのですが、それでも、そのようなことを信じていることで悲しみが減るというものではありませんでした。しかし、その悲しみ方には違いがあります。

Sさんは、勤務態度でも神を証ししていて、勤務先の市民病院の院長からも一目を置かれている存在であったようです。そして、昇天式で、その病院長から、「私はS君を取られた神を憎む!」という涙ながらの叫びが聞かれたのです。キリスト教式の明るい照明と華やかな花束で飾られた式場の中にスーッと闇の雰囲気が忍び寄った一言でした。

同じように泣いている人でも神様に感謝を捧げながら希望に満ちて泣く人と、神を呪いながら絶望の淵で嘆く人がいるのだと気づかされました。私たちが生きているこの世界には光の中で生きている人と暗闇に伏している人がいること、この世には光と闇が存在することがはっきり示された瞬間でした。

一見、同じように悲しんでいてもある人たちは、絶望の中に悲しみ、他の人たちは希望の中に悲しんでいたのです。

私が今、彼のことを思い出すときの顔は、骨髄移植のあとで病気が再発し、病気との最後の戦いを前に「私の病気を治すためにいろんな人にお世話になり、多額の医療費が使われています。そして、こんな美しい奥さんとかわいい娘を残して死ねやしません。」とにこやかに話す輝いた笑顔です。自分の命が消えつつあることをわかっていながらもみんなを笑わせることができた、神の御霊に満たされて輝く笑顔です。

なにかでくじけそうになったとき、自分に失望しそうになったときには、神様は時折、志半ばで天に召された彼のことを思い出させてくださいます。そして、そうやなーSさんから「hide-tanクン。よー頑張ったな。僕、こっちで応援しとったで。」と言われたいなーと言う気持ちになったとき、Sさんの人生と自分の人生はつながっているのだと感じるのです。そうです。生きていようと死んでいようと私たちはキリストにあってつながっているのです。

神様の与えてくれる出会いとはこのようなものです。実は、今も彼のことを思い出すと、ふとポロリと来そうになることはあります。それでも『神様、なぜですか!』と嘆くことはなく、Sさんとの出会いを悲しみの中で喜び、そして感謝できるのです。

book「‥‥暗闇の中にすわっていた民は偉大な光を見、 死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」 この時から、イエスは宣教を開始して言われた。 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 (新約聖書 マタイの福音書4:16-17)

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