« One after another | トップページ | 今日はちょっと節目なのかも »

2008年6月30日 (月)

日曜礼拝シリーズ:約束による贈りもの

聖書箇所:旧約聖書2サムエル9章

『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。』 (2サムエル9:7)

<この聖書箇所の話とあらすじ>
イスラエルのダビデ王は、王位を固めた時に、自分をかつて苦しめていたサウル王の息子である親友ヨナタン(彼は、父サウルの意に反する形でダビデ王をサウルから逃したが、後にサウル王とともに戦死)との約束を果たすためにヨナタンの息子を呼び寄せて、サウル王の元所有地をヨナタンの息子メフィボシェテにあたえ、王の食卓で食事をすることをゆるしました。

礼拝説教要約:
ダビデ王が前任の王であったサウルの息子ヨナタンの親族を探し出して、このように恵みを与えることにはリスクがつきまとっていました。その親族が彼のことを敵視している可能性がないわけではないからです。私達にとっても愛するという行為には、リスクが伴うこともあります。しかし、私達は愛すのです。それは正しいことだからです。

ダビデがここで言っている「恵み(God's kindness)」とは神の愛の現れです。神の恵みにはこれらの特徴があります。
1:あなたが自分では出来ないと思っていることを神ご自身がなして下さる。
2:あなたに対して常に誠実である。
3:その恵みを与えるべきあなたを探しておられる。

さて、ダビデ王に呼び出されたヨナタンの子は両足が不自由でした。ヨナタンのような勇姿はなく、王に殺されるのではないかと怯えて身を隠さねばならないみじめな存在だったのです。私達もそのような存在なのかもしれません。そして、私達は自分や他人のみじめな姿を見る時にそれを自分自身やその人自身に責任があるかのように考えがちです。イエスの弟子達は生まれつき、目が見えない人を見て、誰の罪によってこのようになったのかを質問しましたが、イエスは「誰の罪によるのでもなく、神のわざがこの人に現れるためである」と答えて、目が見えるようにしました。(ヨハネの福音書9章)
このときみじめな状態にあるメフィボシェテに慈悲を与えることで、ダビデは神の栄光を現したのです。メフィボシェテはダビデとヨナタンとの約束を知らなかったために、怯えていたのでした。

『サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのためにその者に恵みを施したい』(2サムエル9:1)

もしかしたらあなたは、(イエスキリストの十字架と復活によってもたらされた)神の約束を知らずに怯えて生きているかもしれません。しかし、恐れる必要はありません。神はあなたに恵みを受け取ってほしいと探し求めておられるのです。

メフィボシェテという名前には”恥さらし”という意味があるそうです。
彼は自分の姿を恥じ、自分のことを「この死んだ犬のような私」と言っています。恥は恐れをさらに増していたのです。一方でダビデはそのようなメフィボシェテの姿に関わらず、彼のすべての必要に応え、さらに良い物を分け与えました。そして、この章の最後は、このように締めくくっています。

"メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。" (2サムエル9:13)
私達も神の前にメフィボシェテのような存在です。自分の力では神の食卓につくことはできない、両足のなえたような存在です。しかし、ヨナタンのゆえに恵みに預かったメフィボシェテのように私達も御子イエスキリストのゆえに神の恵みをいただけるのです。感謝して受け取りましょう。


|

« One after another | トップページ | 今日はちょっと節目なのかも »

日曜礼拝シリーズ」カテゴリの記事

聖書・教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« One after another | トップページ | 今日はちょっと節目なのかも »