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2008年7月 7日 (月)

日曜礼拝シリーズ:悪に打ち勝つ愛

聖書箇所(ローマ人への手紙12章9-21節):

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶべき者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。互いにひとつ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い人に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐は私のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

説教要約(というか理解できたところのメモから):
『愛には偽りがあってはなりません』
この箇所で最初に出て来るのは自己吟味です。私達は他の人を愛している「フリ」をしていないでしょうか?イエスは『あなた自身を愛するように』と言われました。愛とは善を求めるものです。愛は自分の人生において悪を正当化するようなことはしません。自分のことについて本当のことを述べ、他の人を励まします。
『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い・・・』
私達のように教会に集うクリスチャンは神の家族です。兄弟どうしのライバル意識で挑み合ってはなりません。
本当の愛とは不便なものです。神の愛をもって人々に仕えることは気付かれにくく、時に拒絶されることもあります。人というのは不完全なものです。”自分の示した愛にその人がどのように反応するか”を期待してはなりません。”自分がこの人を愛することによってこの人を変えよう”などとも思ってはいけません。人を変えることができるのは神だからです。私達はその人を愛し、神を待つのです。

愛は寛大です。与えることに喜びを見いだします。

『あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。』
私達はイエスキリストのゆえに、ときに不当な理由によって迫害を受けます。
しかし本当の愛は自分を迫害するような敵をも愛するものです。

『悪に悪を報いることをせず・・・』
正しいと思われることは前もって準備しておくべきです。私達はこの世にあって、反対する人々に囲まれて生きています。しかし自分で仕返ししようとなど考えてはなりません。
仕返しをするとクリスチャンは、
1)神に愛されているという自分のアイデンティティを傷つける
2)神が愛されているその魂を永遠に失ってしまうかもしれない

愛はコストのかかるものです。しかし、愛は悪に打ち勝つものなのです。

*hide-tanの感想*
これはクリスチャン向けのメッセージです。この聖書箇所は、自分に対してあまりよくない言動をとる人にも少しは我慢して、ある程度の間は親切にしなさいという、そんなちょっとした「キリスト教的道徳」を説いている箇所ではありません。

この箇所はローマで自分や自分の家族の命が危険にさらされているクリスチャンに宛てて書かれたものです。「迫害するもの」とはただ単にちょっと意地悪な隣人というレベルではなく、そのようなことをする人々をも含んでいるのです。

しかも、”堪忍の緒が切れるまでは”そのような人をもゆるし、親切にしなさいと言っているものでありません。キリストの弟子は「誰かが自分に対して罪を冒したら、7回くらいはゆるすべきでしょうかね?」と訊きましたが、キリストは「7を70倍するまでゆるしなさい」と言われました。人が自分に行った悪の回数を数えるべきではない、そしてずっとゆるし続けるべきであると言われたのです。

私達は自分の愛する人を殺されて泣き悲しむ人が犯人に死刑をのぞむ姿を見て、悲しみと怒りを覚えて共感します。「反省して、まっとうな人間になり、この十字架を一生背負って歩んでほしい」と言う遺族がいれば「立派だ」と思います。しかし聖書には「そのような人のために祈りなさい」と書いています。そのひとがその罪をキリストの十字架によって処理してもらい、天国に入る保証を得て、神と人のために残りの人生を歩む為に祈りなさいと教えているのです。

そのような愛は可能でしょうか・・・?
はっきり言って、無理です!

でも、この聖書箇所を書いたパウロは理想論を書いているのではなく本気でそのように薦めているのです。パウロは、キリストが十字架の上で自分を処刑する者のために「父よ、彼らの罪をゆるして下さい。彼らは自分が何をしているのかわからないのです。」と祈られたということを思い起こしていたのかもしれません。そして、パウロ自身がクリスチャンへの迫害者として悪名高い存在であり、ステファノのリンチ殺人にも加担していたのです。彼は衝撃的なキリストとの出会いのあと、アナニヤというクリスチャンに祈ってもらい、キリストの弟子達から受け入れてもらいました。彼はキリストの十字架による罪のゆるし、限り無ない神の愛を知っていたから、自分が迫害者として、また迫害を受ける者としてもそれらを体験していたからそのように薦めているのです。そしてそれを実践しているクリスチャンがいるのは事実なのです。

もういちど、言いますが、ただ単に人間の思いや、人格の立派さではそのような無制限、無条件の愛を実践するのは無理です。

でも聖書には「神には不可能なことはありません」と書いているように、神が私達クリスチャンを通して働かれるなら、クリスチャンが神がそのようにお働きになることをゆるすのであれば、神の愛によって、そのような愛も可能になるのだと思うのです。

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