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2008年9月21日 (日)

Bible Study 101:求めよ、さらば与えられん。

今日は日本語で聖書を学ぶ会教会で行いました。

求めよ、さらば与えられん。
これは、クリスチャンでなくても聞いたことがある言葉ではないでしょうか?
今日は、なじみのあるこの言葉の意味を聖書のメッセージから読み取りたいと思います。

聖書箇所:求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいというときに、誰が石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、誰が蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。(マタイの福音書7:7-11)

あなたが求めているもの、捜しているもの、叩いている扉はなんでしょうか?
たとえば、「新しい職」であるとしましょう。では、なんのためにそれを求めているのでしょうか?
自己実現のためかもしれないし、今の職場における様々な苦痛から逃れたいということかもしれないし、経済的な理由かもしれませんよね。
だからただ単に「新しい職が見つかるように」と祈っても、本当の願いは人によってまちまちです。
でも私達が祈る時に、神様はそういった私達の本当の願いをご存知なのです。

キリストは「得ます。見つけます。開くことができます。」ではなく、「与えられます。見つかります。開かれます。」と言っています。なぜでしょうか?
それは、私達が自分の力で求めているものを得たりすることを語っていないからです。父なる神が、私達の心にある本当の願いを聞いてくださるということを言っているのです。キリストは、子なる神として、父の心を紹介しています。気性の荒い人が自分の子どもにはニコニコしているのを見かけて驚いた経験はありませんでしょうか?神は私達よりもはるかに優れた、はるかに大きな愛で私達を見守ってくださる親です。

親は子どもにリクエストをして欲しいでしょうか?
答えはイエス!ですよね。それでは、
親は子どものリクエストを全部聞き入れるでしょうか?
答えはノー!ですね。では、
親が子どものリクエストに「ノー!」というのは、どのような時でしょうか?
子どもが嫌いで意地悪したいからでしょうか?違いますね。
普通、親が子どものリクエストを聞き入れないときは、そうすることが、子どもにとって良いことであると思う時ではないでしょうか?

親は子どもの願いを聞きたいと思い、リクエストの中に本当の心の願いを知ろうとし、それに答える形で良いものを与えようとします。それが子どものリクエストと同じものである場合もあるし、違う場合もある、もしかしたら何も与えないこともある。
でも、親としていつも思うのは、子どもに良いものを与えたい、見つけさせてあげたい、道を開かせてあげたいというのが常ではないでしょうか?

キリストは父なる神があなたの父であると言っています。
しかも別の箇所で、キリストご自身が父なる神に至る道であると言っています。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14:6)」

もし、あなたがキリストの十字架の出来事が自分のためであったこと、キリストが御子なる神であり、彼を信じることで救われて永遠のいのちをいただけるのだと信じるのであれば、あなたは神の子です。

神の子であるクリスチャンの祈りを神様はいつも聞きたいと願っています。
しかし、クリスチャンであればすぐに気がつくことですが、神は愛する子どもに何かを与えようとする時に子どもたちを待たせることがあります。それはどんな時でしょう?
1:さらに良いものを用意しておられるとき
2:子どもがその求めにふさわしくなるまで成長するのを待っているとき
3:与えるタイミングがベストでないとき
などではないでしょうか?そのような理由で神はしばしば祈りが聞かれるまで待たせるときがありますが、待たされるときのあなたの反応はどうでしょうか?
「もうええわ!!たのまへん!!」と言って背を向けてしまいますか?
それとも「聞いてくれているやろか?なんか間違ったリクエストをしてしまって怒っているんやろうか?」と思いますか?

冒頭でキリストが「求めなさい」と言った時に、原語では「求め続けなさい」という意味だそうです。
神は私達に祈り続けることを勧めています。私達は、神が祈りを聞かれないと思った時に祈ることをやめてしまいます。しかし、私達は神に信頼して祈り続けることを求められています。それは、まさに親を信じて止まない幼子のような信仰です。
「神様、状況は変わりませんが、私はあなたが祈りを聞いて下さっていることを信じます。あなたが私が求めているものをご存知で、そのために働かれているお方であることも知っています。感謝します。私があなたに求め続けているこの件に関して、あなたが良しと思われる形で答えてくださることを信じて待ち続けています。」と祈りましょう。

またキリストは別の箇所で(ヨハネの福音書14:13-14/15:7)”イエスの名によって祈る”ということを教えています。これはどういう意味でしょうか?
イエスの名によって祈ることは、先程のヨハネの福音書のとおりで、『私はキリストにあって神の子です。』と宣言しているということです。イエスの名によって祈るんだから、神様のみこころに叶った祈りをしないといけないとか威厳を持って祈らないといけないとか思う必要はありません。
そんなことを考えて祈ることをなにか特別な儀式としたりして遠ざかってしまうより、神様に向かって自分が子どもとしての信頼をよせて祈ることが大切なのです。

神はキリストにあって、あなたを神の子として下さいます。
私達の祈りは大きく分けて、自分のことと他の人のことに分けられると思いますが、「お父ちゃん、ありがとう。お父ちゃん大好きやで。」っぽい祈りも必要です。

<<まとめ>>
イエスの名によって私達は愛情深い神に恐れることなく、大胆に信頼して心の願いを申し上げることができます。神は日々私達の祈りを待っておられ、私達の祈りを飽きることなく聞き続けてくださるお方です。「神は聞いて下さる!」という信仰に基づいた祈りは、応えられなければ応えられない程に重みを増し、信頼を無くしては祈れなくなり、それでも祈り続けられた祈りにはますます力が加わり、神の全能の力はこのような祈りによって、私達の間で働き、私達が考えもつかないような不思議な方法で、応えられることになるでしょう。

だからクリスチャンのみなさん。

「聞かれない祈り」こそ大切に、祈り続けましょう!


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