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2008年9月

2008年9月29日 (月)

だじゃれカルタ:「と」

とんぼ、とぼけて、飛ぼうとせず。
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本当に生きたい生き方。

良いコーチとは、あなたがしたくないと思っていることを、あなたが本当に達成したいと思っていることを達成するために、あなたにさせる人のことを言います。

これは、Insight for Livingというキリスト教のラジオ番組(あるいはポッドキャスト)でChuck Swindollが誰かの言葉を引用していたものです。
この言葉を聞いて以来、私はボスにしたくない実験をするように言われたとき、また自分で実験の計画を立てるときに思い出しています。

研究のことであれば、”本当に達成したいこと”は比較的スラスラ出てくると思うのですが、私の人生において本当に達成したいことは何かと聞かれれば、ちょっと言いにくいです。
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今日、All Church RetreatでMission Springsというところに行って、教会の牧師のひとりが言っていた言葉が引っかかっています。

”あなたが本当に歩みたい人生を神とともに歩みなさい”

私はクリスチャンとして、人生のコーチである神にどのように私の本当の願いを伝えたらよいでしょうか?
家庭円満で、健康が守られ、家計にほどほどの余裕があり、社会的にもそこそこ成功し、できる範囲で人に親切にし、神の前に正しく(注:これは聖書的視点からは厳密には不可能)、人に愛される人生。

自分自身を省みると、そんな人生を目標にしているような生き方をしているのではないかと思ってしまうのですが、実は、深いところで求めているのは”別の何か”のような気がします。

私はクリスチャンとして、神がどれほど確かに存在しているのかということを知っています。
私の両親よりも、妻よりも、そして私自身よりも、私のことを深く愛してくださっている神の愛を日々実感して生きています。神が造られた美しい世界を見て楽しみ、偶然に出来たとは決していえないほどの生命の仕組みの精巧さを職業として味わい、旧約聖書に描かれた、ユダヤ民族の歴史の中に神に反逆する私たち人間に救いをもたらすために神が忍耐強く、多くの犠牲を払って、救いの計画を進めようとした神の物語。新約聖書でこんなにもはっきりと、描き出されたキリストの十字架と復活。

自分のことを自分よりも深く知っておられ、自分よりも自分のことを大切に思って下さる神。
いつでも私のそばにおられ、誰よりも強く、しかも何でもお出来になる神。

そんな神に、自分が造られた目的に叶った人生を歩ませてもらいたい、自分の人生を完全に明け渡す人生を歩みたいというのが、本当の私の願いなのだと思うのです。しかし、神の視点での私にとって最善の人生を歩むためには、家族の身に何かが起こることかもしれないし、病気や怪我で苦しむことであることかもしれないし、明日の食べるものにも困るような生活をしいられるかもしれないし、誰からも尊敬されることもなく、社会的にも全然成功していない立場になるかもしれないのです。

私は、そういうことにまだ恐れを持っているのかもしれないのです。
これほどに素晴らしい神であることを知っているはずなのに・・・です。
神が、家族も、健康も、キャリアも、人生の何もかも、私のいのちさえも握っておられることを知っているのに・・・です。

だから、私はそのように神に申し上げることができないか、たとえしたとしてもトーンダウンしているのかもしれないです。神はそのような私の葛藤も知っていますが、それを責められることはありません。それをゆるし、私が自責の念に駆られることなく、神とともに歩む人生を心から喜ぶことができるように「そのままでいいんだよ」と言って下さるのが聖書が教える神なのです。

そして、今日も神は私の祈りを聞いて下さり、日々守って下さるお方であることを常に常に教えて下さり、忍耐強く、『私のその時』を、私が本当の願いを神の前にお捧げするというその時を待って下さっているのだと思います。15700

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2008年9月25日 (木)

ポスドクこうもり問題

スタンフォード大学のポスドクは学生という位置づけをされています。なので、場所によっては学生割引を主張出来るようなところもあるのですが、主婦の妻が普通料金で、私みたいなおじさんが学割だったりすると、なんだか気分が悪く、あえて主張しないことも多いです。

ポスドクは他のスタッフや教員が受けているような恩恵がないかわりに、(多額の授業料を納めている)学生が受けているようなサービスが受けられるというのが表向きの姿勢ですが、それでもon campusの宿舎に入れない、学生に対するサービスの情報がなかなか回って来ないなど扱いはあまりよくありません。
私ははじめてのポスドクでの留学なので、ポスドクって結構厳しい立場だなーと思うだけですが、スタンフォードのポスドクに対する扱いの悪さはアメリカの他大学から来た人たちがとくに感じているようです。

さて、スタンフォードには、大学のスタッフにいろいろ質問できるウェブサービスがあります。
そこでは、大学での身分を入力しないといけないのですが、

Faculty (教員)
Staff (職員)
Student(学生)
Other (その他)
Almuni (卒業生)

という具合に並んでいます。”ポスドクは学生”と聞いていたので、去年の今頃、「学生タブ」を選択して、インターネットの接続について質問をすると、”どこの学生寮?”と聞かれたりしました。
学生とは背景が違いすぎるので混乱すると思い、それ以来、「スタッフ」を名乗ったり、「その他」を名乗ったり(これが一番多く、ウチのラボの他のポスドクもこのタブを使用しているみたいです。)していましたが、学生を名乗ったときのレスに比較して、「その他」で名乗った場合に半分以上のリクエストや問い合わせが無視されてしまいます。

それで、馬鹿なのは今に始まったことではないと思い、このシステムを運営している方々はポスドクにどれを選んでほしいか聞いてみました。今回も「その他」タブを使い、返事を期待せずに...。

すると、なんと翌日電話がかかって来ました。

回答は「学生タブ」を選択しろとのこと。それで上記の話をすると、”たしかに。ポスドクは「学生」と「その他」の間と言えますね。”との返事。

『そんなら、「ポスドクタブ」を作ってよ!』angryと喉元まで出そうになりましたが、それで作ってくれるのならとっくに作ってくれるだろうと思い、リクエストしませんでした。

どの部類にも入らないスタンフォード大学ポスドクの「こうもり問題」。1400人以上ものポスドクを抱えるスタンフォード大学ですが、こうもり図鑑というものを大手出版社が作ろうとしないように、ポスドクという立場に特別な肩書きを与えようとしないのです。またポスドクにも期間の制限(5年)があります。悔しさと不自由さと期限を与えることで、次のステップへと進ませようとする「親心」ととらえる事もできます。っていうか、そう考えないとやっていけませんよね....。

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2008年9月24日 (水)

助け合いの精神

日本では、誰かが出産したとか、入院したとか、家族に不幸があったとかいうことがあるとお見舞いに行ったりすることはよくありますが、家事のお手伝いを申し出たりというような実際的な助けをすることはごく親しい人や親類に限られるのではないでしょうか?

それは、ひとつは微妙な距離を取ることによって「そっとしておいてあげる」優しさではないかと思います。しかし、私がここカリフォルニアで通う教会では、カップルズクラスやクワイアーのメンバーでそのようなことがあると、すぐに家事の手伝いや食事の準備のサインアップシートが回されます。これまで一番多かったのはやはり出産にからむヘルプで妻も何回も走り回っていました。今回はeddyが亡くなったことで、はじめてお宅に弔問を兼ねて食事を運んできました。電話をしてもメールをしても連絡を取ることができなかったので、不安になりながらも妻が作った料理を持って行きました。

何回ノックしても出ないので、諦めて置いて帰ろうとしたときにeddyの奥さんが出て来て、いくつか言葉を交わし、sympathy cardを手渡すことができました。ガレージにおいてある不要になったeddyの車いすを見て、もう大丈夫と思っていた私も少しうるっと来てしまいました・・・。

このようなこちらの風習の影響もあってか、ここスタンフォードにおける日本人コミュニティでも渡米したばかりの人を在米している日本人が助け、その日本人がまた別の人を助ける・・・みたいな雰囲気があります。こちらで出来た日本人の友人は日本国内でいるときとは違ったまた別の結束感があるように思います。

このブログの目的のひとつも新たにスタンフォードに来られる方々の助けになるような情報をアップすること、すでに来られている日本人の方々に楽しい情報をお分けするためという目的もあります。おかげさまでこのブログも毎日50人以上からのアクセスがあり、「スタンフォード 留学」でyahooやgoogleで検索すると1ページ目に現れるようになっています。
お役に立てるかどうか分かりませんが、スタンフォード留学に関してお問い合わせなどがありましたら
お気軽にこちらまでメールください。

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2008年9月23日 (火)

Men's Bible Study:幼子たちの信仰

イエスは、幼子(おさなご)たちを呼び寄せて、こう言われた。 「子ども達を私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。 まことにあなたがたに告げます。子どものように神を受け入れる者でなければ、けっしてそこに入ることはできません。」(新約聖書 ルカの福音書18章16-17節)

今日は、メンズバイブルスタディがあり、ルカの福音書18章をじっくりと学んでいきました。
とくに今回、私の心に留まったのはこの箇所でした。いろんな意見や学びがなされたのですが、私はこの箇所の感想をこのように述べました。

ここで言う幼子というのは、本当に小さい子ども達ではないでしょうか。子どもは小さい時は、自分が何者であるかのように思うことはなく、まあ言ってみれば、自分達が”何者でもない存在”と思っているのかもしれません。このような子ども達にとって、大切なことは「自分の親がどれほどすごいか」ということです。このような子ども達は、「僕のお父ちゃん、こんなことができるんやで。こんなにスゴいんやで。」ということを自慢して、親を誇りに思い、自分のことをとやかく自慢はしないでしょう?
私達も天国に行ったら、そんなものになるんじゃないですか?「私は、ギターが上手に弾ける。」とか「僕はポルシェに乗っている」とか自慢するような人は天国にはいないでしょう。そうではなく、「見てよ。僕らの父ちゃん、なんて偉大なんだろう。」という人たちばかりじゃないですか?イエスはこんなことを言われたようにも思うのですが・・・。

ここまで話すと、笑いながら聞いていたjackが、"That's beautiful!"と感想を言ってくれました。

自分が何者かのように誇り、自分の善行を神の前に誇って、「私は、これだけのことをやったんだから天国に入れるはず。少なくともあなたが天国に入れた○◯よりはずっと良い行いをしてきましたよ。」
という申し開きを、神は受け入れられません。神に受け入れられる申し開きは、たったひとつ。このことだけです。

「私は罪深い人間です。あなたから目をそらし、あなたから離れて人生を歩んだ私の罪は重く、どんな善行もあなたの前にはなんの意味もなしません。いいえ。それを口にすることさえ汚らわしいことです。しかし、イエス・キリストの十字架のゆえに感謝します。神の御子であるキリストが、罪のない生涯を送ったにも関わらず、私の罪の為に十字架に身代わりとして架かって下さいました。私はそれを信じ、感謝します。」

自分を何者でもないものとし、素直に神様が用意して下さった救いを受け取る。
このことこそが、聖書の中心メッセージなのです。

今日は、聖書の中の微笑ましいストーリーとして、いつもさらりと流している箇所から、新たな視点をいただいたバイブルスタディでした。

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2008年9月21日 (日)

イチロー1安打!城島4打点!!

今日は、Costcoで買ったディスカウントチケット($96→$40/4名)でメジャーリーグ(MLB)を観に行きました。P9201202


Oakland Athletics がSeattle Marinersをホームで迎え撃つ試合ですが、もちろん私達は、イチロー城島の応援が目的でした。

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この日、イチローは内野安打を1本と、最終回の敬遠による出塁のみでした。

でも、この日の城島はまずは、タイムリーで2打点。

ついでツーランと大暴れでした!


(帰って来た城島選手と、彼を迎えるイチロー選手のツーショットもたまたま動画に収めることができました。)

試合はせっかく城島の活躍でリードしていたマリナーズのリリーフ陣が崩れ、逆転負けして、マリナーズの10連敗となりました。でもアスレチックスのファンで埋め尽くされた球場のみんなは大喜びでした。

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著者:繁昌 良司,西松 宏

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だじゃれカルタ:「み」

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ミツバチ、蜂蜜三つ買ったら見つかった。

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Bible Study 101:求めよ、さらば与えられん。

今日は日本語で聖書を学ぶ会教会で行いました。

求めよ、さらば与えられん。
これは、クリスチャンでなくても聞いたことがある言葉ではないでしょうか?
今日は、なじみのあるこの言葉の意味を聖書のメッセージから読み取りたいと思います。

聖書箇所:求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいというときに、誰が石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、誰が蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。(マタイの福音書7:7-11)

あなたが求めているもの、捜しているもの、叩いている扉はなんでしょうか?
たとえば、「新しい職」であるとしましょう。では、なんのためにそれを求めているのでしょうか?
自己実現のためかもしれないし、今の職場における様々な苦痛から逃れたいということかもしれないし、経済的な理由かもしれませんよね。
だからただ単に「新しい職が見つかるように」と祈っても、本当の願いは人によってまちまちです。
でも私達が祈る時に、神様はそういった私達の本当の願いをご存知なのです。

キリストは「得ます。見つけます。開くことができます。」ではなく、「与えられます。見つかります。開かれます。」と言っています。なぜでしょうか?
それは、私達が自分の力で求めているものを得たりすることを語っていないからです。父なる神が、私達の心にある本当の願いを聞いてくださるということを言っているのです。キリストは、子なる神として、父の心を紹介しています。気性の荒い人が自分の子どもにはニコニコしているのを見かけて驚いた経験はありませんでしょうか?神は私達よりもはるかに優れた、はるかに大きな愛で私達を見守ってくださる親です。

親は子どもにリクエストをして欲しいでしょうか?
答えはイエス!ですよね。それでは、
親は子どものリクエストを全部聞き入れるでしょうか?
答えはノー!ですね。では、
親が子どものリクエストに「ノー!」というのは、どのような時でしょうか?
子どもが嫌いで意地悪したいからでしょうか?違いますね。
普通、親が子どものリクエストを聞き入れないときは、そうすることが、子どもにとって良いことであると思う時ではないでしょうか?

親は子どもの願いを聞きたいと思い、リクエストの中に本当の心の願いを知ろうとし、それに答える形で良いものを与えようとします。それが子どものリクエストと同じものである場合もあるし、違う場合もある、もしかしたら何も与えないこともある。
でも、親としていつも思うのは、子どもに良いものを与えたい、見つけさせてあげたい、道を開かせてあげたいというのが常ではないでしょうか?

キリストは父なる神があなたの父であると言っています。
しかも別の箇所で、キリストご自身が父なる神に至る道であると言っています。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14:6)」

もし、あなたがキリストの十字架の出来事が自分のためであったこと、キリストが御子なる神であり、彼を信じることで救われて永遠のいのちをいただけるのだと信じるのであれば、あなたは神の子です。

神の子であるクリスチャンの祈りを神様はいつも聞きたいと願っています。
しかし、クリスチャンであればすぐに気がつくことですが、神は愛する子どもに何かを与えようとする時に子どもたちを待たせることがあります。それはどんな時でしょう?
1:さらに良いものを用意しておられるとき
2:子どもがその求めにふさわしくなるまで成長するのを待っているとき
3:与えるタイミングがベストでないとき
などではないでしょうか?そのような理由で神はしばしば祈りが聞かれるまで待たせるときがありますが、待たされるときのあなたの反応はどうでしょうか?
「もうええわ!!たのまへん!!」と言って背を向けてしまいますか?
それとも「聞いてくれているやろか?なんか間違ったリクエストをしてしまって怒っているんやろうか?」と思いますか?

冒頭でキリストが「求めなさい」と言った時に、原語では「求め続けなさい」という意味だそうです。
神は私達に祈り続けることを勧めています。私達は、神が祈りを聞かれないと思った時に祈ることをやめてしまいます。しかし、私達は神に信頼して祈り続けることを求められています。それは、まさに親を信じて止まない幼子のような信仰です。
「神様、状況は変わりませんが、私はあなたが祈りを聞いて下さっていることを信じます。あなたが私が求めているものをご存知で、そのために働かれているお方であることも知っています。感謝します。私があなたに求め続けているこの件に関して、あなたが良しと思われる形で答えてくださることを信じて待ち続けています。」と祈りましょう。

またキリストは別の箇所で(ヨハネの福音書14:13-14/15:7)”イエスの名によって祈る”ということを教えています。これはどういう意味でしょうか?
イエスの名によって祈ることは、先程のヨハネの福音書のとおりで、『私はキリストにあって神の子です。』と宣言しているということです。イエスの名によって祈るんだから、神様のみこころに叶った祈りをしないといけないとか威厳を持って祈らないといけないとか思う必要はありません。
そんなことを考えて祈ることをなにか特別な儀式としたりして遠ざかってしまうより、神様に向かって自分が子どもとしての信頼をよせて祈ることが大切なのです。

神はキリストにあって、あなたを神の子として下さいます。
私達の祈りは大きく分けて、自分のことと他の人のことに分けられると思いますが、「お父ちゃん、ありがとう。お父ちゃん大好きやで。」っぽい祈りも必要です。

<<まとめ>>
イエスの名によって私達は愛情深い神に恐れることなく、大胆に信頼して心の願いを申し上げることができます。神は日々私達の祈りを待っておられ、私達の祈りを飽きることなく聞き続けてくださるお方です。「神は聞いて下さる!」という信仰に基づいた祈りは、応えられなければ応えられない程に重みを増し、信頼を無くしては祈れなくなり、それでも祈り続けられた祈りにはますます力が加わり、神の全能の力はこのような祈りによって、私達の間で働き、私達が考えもつかないような不思議な方法で、応えられることになるでしょう。

だからクリスチャンのみなさん。

「聞かれない祈り」こそ大切に、祈り続けましょう!


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だじゃれカルタ:「が」

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ガレージの蛾(が)零時(れいじ)に飛んだ。

今回は、文句は好きだけど、絵と文字がちょっとイマイチ。

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2008年9月20日 (土)

ハリウッドのような実験

昨日、実験の手法をビデオに撮るためにプロのビデオグラファーがやってきました。

動物を扱う実験なので、動物実験施設の担当者が来て、動物の麻酔、消毒、手術、回復に至るまでの手技をチェックされましたが、もともと打ち合わせしていたことや事前連絡をちゃんとしていたこともあり、好意的でした。ほっ。coldsweats01

実験のひとつひとつの手技をカチンコで”アクション!”とか言われながらの撮影で、ものすごく時間がかかり、手技もいつもどおりのようにスムーズに運ぶというほどではないにしろ、まあまあの出来だったと思います。精神的にも体力的にも、ちょっと疲れましたが、結構新鮮で俳優気分で楽しかったのです。

でも、ポスドクが主人公のドラマってありそうでないですね。happy01

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2008年9月19日 (金)

だじゃれカルタ:「さ」

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朽ちない宝(in memory of eddy)

30年以上、私たちの教会で様々な奉仕をしたり、地域での活動をされていたeddy。このまえの日曜日に急病で天に召され、short noticeのメモリアルサービスにも関わらず、平日の夕方に500人ほどの参列者が集まりました。

アメリカの教会でのはじめてのメモリアルサービスですが、式の流れはこんな感じでした。

牧師のあいさつとお祈り
クワイアーと一緒に会衆賛美
みんなで思い出話の分かち合い
牧師からのメッセージ
クワイアーの賛美と会衆賛美
牧師による祝祷

レセプション

思い出話の時は、涙も見られましたが、「ユーモアのセンスが悪かった」などと笑ってみたり、「今頃は天国で踊ってるで」と言ったり、比較的明るい会でした。

eddyは誰にでもフレンドリーで、誰に対しても親切というのが、一致した意見でした。
そして、キリストに従う信仰の持ち主であったということも。

このひたつの彼の特徴は切っても切り離せないものだったのだと思います。
キリストからの愛ゆえに人々に対して優しくなり、キリストへの愛ゆえに人々を愛したのだと思います。

この世に財産を残しても、使えば無くなってしまいます。
業績を残しても、多くの場合は忘れ去られてしまいます。
でも人にした親切というものは残るものなんだなあと実感しました。

キリストは「天に宝につみなさい」と言いましたが、eddyはこの世に残された人々の人生の中にも朽ちることのない宝物を残していってくれたようです。

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2008年9月18日 (木)

だじゃれカルタ:「か」

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No More Night

先週のクワイアー(聖歌隊)の練習には来ていた(はず:私がお休みしたのでcoldsweats01)のeddyが急病で、天国に行ってしまわれました。

明日は、彼の生涯を記念してのメモリアル礼拝が行われます。
これは告別式というよりは、彼の歩んだ生涯をみんなでお祝いし、彼のゆえに神様を賛美する集会です。
陽気なeddyに敬意を表して、明日は彼の好きな「赤」sign01を来て来るようにとのことです。
クワイアーメンバーも赤で服装を統一し、”No More Night”を歌います。

もはや、夜もなく、痛みもない 涙もなく、二度と泣くこともない 「私はある」という偉大なる方に賛美を捧げよう そして、よみがえられた小羊の光も中で永久(とこしえ)に生き続けよう


『もはや、のわれるものは何もない。神と小羊(=キリスト)との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。
彼らは永遠に王である。(新約聖書:黙示録22章3-5節)』

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2008年9月17日 (水)

だじゃれカルタ:「む」

小学生のころから落書きが好きだった私。
ブログにこんなお絵描き機能が加わりました。

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我が家の公認教科書「どうぶつ はやくち あいうえお (かたやま けん,きしだ えりこ)」風に描いてみました。

どうぶつ はやくち あいうえおBookどうぶつ はやくち あいうえお

著者:かたやま けん,きしだ えりこ
販売元:のら書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2008年9月16日 (火)

「ボス渉」担当ポスドク

自分で自分のことを礼儀正しいと思っていて、礼儀正しい人を尊敬してしまう私ですが、ほどよく無礼を働くのも美徳とする私です。それはユーモアの一貫としてする場合もあるし、職を失うかもしれない覚悟で無礼千万なことを言ってしまうこともあります。

そんな私の性格を知っているのか、ラボのみんなからボスに頼みごとがあるときになぜか私のところにみんなが相談に来ます。
「こんなこと・・・頼んでも大丈夫やろか?」
”ええんちゃう。言ってみたら?”
「でも、機嫌損なわないやろか?」
”そんなん、ちゃんとした理由があるから言ったらええやん。”
「hide-tan、やっぱり頼んでくれへん?」

という会話が多いのです。

先日は、ラボミーティングの「ローテーションが早すぎるから、1回にプレゼンする人数を減らして欲しい」という内容でした。
それで、今日は、共同研究のpatriciaが結婚するので、プレゼントを買いたいけれどボスにちょっと多めにカンパをもらいたいという内容でした。
「そんなん、ボスに敬意を表して半分は持ってもらうべきや」
という私にみんなそろって反対。でも少し多く負担してほしい・・・って微妙な要望。

それで私が書いたメールが以下のとおり。

mailHi Kason,

We are wondering if it's good idea to cerebrate Patricia's wedding with gifts of gift card, flowers and a message card.
We are collecting some donation and found that If you could pay $15, that will make the gift nicer.
If that's OK with you, Chie is going to get some gifts and make the message card done by Wednesday lab meeting.

Thanks
hide-tan

Cocolog_oekaki_2008_09_16_00_27
(上の絵はMt. Shastaのつもり)

それで快諾の返事をもらったのですが、これを読んだChie (ラボのテクニシャン)、

「やっぱり、私、kason(ボス)に多く出してくれて有り難うって言って来るわ。」

せっかく間接的に少し多く負担してもらうようなことを臭わす文章をしたためた意味ないじゃん・・・。shock

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2008年9月15日 (月)

The man on a wheelchair

教会のクワイアーメンバーのeddyの車椅子が要らなくなりました。

昨夜遅く、クワイアーのリーダーresleyからメールが入り、彼が心筋梗塞で倒れ、意識不明の重体であることと医学的に回復の見込みはないことを教えられました。妻とともにお祈りし、今朝、教会に行きました。礼拝の冒頭で、状態は依然として変わらないことが牧師によりアナウンスされました。数百人のメンバーで心を尽くして祈りをし、礼拝のあともクワイアーのメンバーでみんな涙ながらに、ともに祈りました。

しかし、病状は回復せず、今日の夕方、この世の人ではなくなりました。

2000人ほどのメンバーがいる教会で、「車椅子のヒゲのおっちゃん」といえばeddy。
いつもにこやかに図書販売の奉仕をしてくれていたeddy。
クワイアーの中でもベースという難しいパートを、みんなが歌う壇上からは少し離れたところで、シブい声を轟かせてくれていたeddy。

実は今朝、起きる前に夢で、教会に来ているeddyに会いました。私に気付いてにこやかに握手を求めて来たeddyに"I am glad you're back."と声をかけると、意味深な顔で頷いて、黙って進んで行きました。ヒゲはそられ、顔は若返り、その優しげな目以外は別人のようでした。

彼は最後まで神に仕え、人に仕えたクリスチャンでした。
今は、様々な悩みから解放され、闘っていた病気からも解放され、車椅子生活からも解放され、愛するイエス・キリストとともに永遠に続く幸せな人生のスタートを切っています。

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長女が来週から大学生になるという、めでたい日に、家族から離れたところで倒れ、地上での挨拶をすることなく亡くなってしまうという最期なだけにご家族の心痛は計り知れません。

神様が最期までeddyとともに地上の生活を歩んで下さったように、ご家族とも共にいて慰めて下さることを祈りたいと思います。

私が知っているクワイアーのメンバーで最初に神のもとに帰ったeddy。
さようなら、ありがとう、そして天国で会いましょう!

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2008年9月14日 (日)

Fruit Picking

隣町にあるMenlo Park Presbyterian Churchという教会のインターナショナルの集まりのイベントに参加してきました。(今回で3回目)

今日は、WEBB RANCH FARMというところにイチゴ狩りに行って来ました。ちょっと前の日照りや虫や鳥のせいで小振りのものが多かったのですが、赤がまぶしいほど美しく、とても甘かったです。ついつい食べ過ぎてしまいました。smile
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今日は同じラボのjuryも来てくれたり、日本に滞在経験のあるアメリカ人の方々や、こちらに永住されておられる日本人の方々ともお会い出来てよかったです。


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2008年9月13日 (土)

常勤ポスドク?非常勤ポスドク?

幸いなことに、この7月からフェローシップ(私の場合はある学会からの助成金)から給料が出るようになったポスドクの私ですが、ひとつ困ったことがあります。それは、年俸は同じでも、毎月の給料が400ドル以上も減ってしまったからです。これは支払う税金の額を自分で設定出来なくなったからで、払いすぎるはずである分は年度末の調整で返金されるのですが、毎月赤字経済の我が家としては、毎月の赤字がさらに膨れ上がると、さらにヒヤヒヤしながらの生活になるのです。

それで、秘書さんに給料の支払いをStipendではなく、Salaryに出来るかを聞いていますが、これは、たぶん無理のようです。

会社とかで、常勤は身分が安定しているけど、非常勤より給料が低いという事例もあると思いますが、私の場合は”2年間の期限付き常勤”で、非常勤に限りなく近いのに経済は締め付けられ、さらにフェローシップを継続させるために非常勉に働かざるを得ないという特殊な状況に置かれてしまったようです。
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フェローシップを獲得することは、とりあえずのポジションの確保、ラボ内での立場の向上(?)、業績になる(研究者として生きて行くのであれば)などメリットもあるのですが、予想外の状況を受け入れ納得するために親父ギャグすれすれの言葉遊びをしてしまいました。


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2008年9月11日 (木)

ほっと一息・・・は、つけない模様。

このところ、普段の実験に加わり、動物実験のビデオ撮影のための打ち合わせと準備、他のラボでプレゼンを依頼されているための準備、論文投稿のために急がないといけないデータなどが重なり、一日にはなぜ24時間しか無いのか?と思わされる生活を強いられています。

そのために一昨日のMen's Prayer Meetingにも行けませんでした。(これは同じ教会で、同じような年代の近くに住む男性たちが10人弱ほどのメンバーでもっている集まりです。実際の参加者はいつも数名です。)
それで、祈りのリクエストがメールで飛び交っていたのですが、信仰生活のこと、仕事のこと、家族のことに加えて、金銭的な問題まで祈りのリクエストに上がっています。(といってもここはお金持ちのシリコンバレー。私のように赤字経済から抜け出せるように!とかではなく、「新しく始めた投資がうまく行くように」とかそのような内容。)

私も”このところ殺人的に忙しく、効率的に働けるように、自分をプッシュしすぎないように祈ってください”というリクエストをメールであげました。

すると、今日、なんとひとつ、プレゼンテーションの予定が延期されました!助かったー。
・・・と思っていたら、新たにボスからスタンフォードの内部の研究会でポスターを出すように言いつけられました。
出すのも恥ずかしいような、データなので断り続けていたのですが、データの半分以上を出しているjinに押し付けようとしていますが、彼もかなり頑固に拒んでおり、このプレゼンは気の弱い私に回ってくるような様相・・・。

この状況は、みんなで祈ってくれた私の祈りが聞かれたのかどうか?・・・判断に迷うところですが、それより何より、共に祈り、祈ってくれる仲間がいることは大きな祝福です。


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2008年9月 8日 (月)

日曜礼拝シリーズ:価値あるあなたの幸いな生き方

聖書箇所:ガラテヤ書 1: 1-10

”私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、他の福音に移って行くのに驚いています。(ガラテヤ書 1: 6)”

説教要旨(hide-tanによる補足説明を含む)
ガラテヤ書はキリストの十字架による救いを受け入れたガラテヤ人たちが、一部の惑わす人たちの言いなりになり、割礼というユダヤ教のしきたりをそれが救いに必須であるように思うようになりました。
福音を受け入れて、ユダヤ民族を通して示された神を礼拝したときに、彼らはおそらくユダヤ人の仲間になりたい(なるべき)と思ったようです。ユダヤ人もまた、キリストによる救いでは不十分で自分たちと同じ神を拝むのであれば、自分たちと同じようにしなさい(でないと救いはない)と薦めたのです。自分たちは律法によって救われたわけではないのに、ユダヤ人が律法に従っていることを良しとしているという理由で、それを守ることで救いを達成しようとするようになったのです。
私たちクリスチャンも、同じように思っていないでしょうか?教会の中で、ユダヤ人のように”クリスチャンたるものこうであらねばならない”と声だかに主張したり、また逆に、”自分は信仰も弱いし、聖書にも通じていないし、奉仕もしていないし、それほど献金もしていない”ということで、仲間に入れてもらっていない気がしていたり、教会に属したいという一心で、クリスチャンとしての自分を磨かねばならないと思い、それに押しつぶされそうになっていないでしょうか?

"Are you My Mother?"という本があります。赤ちゃんの小鳥が生まれたときにお母さんがおらず、自分のお母さんを探して、鶏や子猫や、牛や犬に聞いて回ります。あきらめて、巣にもどってきたときにお母さんがもどってきて、やっと自分の居場所がわかり、自分が何者かということがわかる本です。

私たちも自分の本来いる場所ではないところに行き、他の何者になろうとしたりせずに、私たちをつくり、愛し、キリストの十字架によって救いをなして下さった父なる神のもとに立ち返りましょう。
"Are you my father?"というあなたの問いかけに"Yes, I am."と答えて下さることでしょう。

<hide-tanの感想>
最近そのように言われることのない私ですが、私は「それなり(それほどでもない)」に”自分に厳しい”と思っています。でも、それを美徳とするのは間違っているかもしれないと思いました。

『自分に厳しい』という評価を受けるというと聞こえは良いのですが、一方で、自分に厳しい人とは、自分が何者かであることを信じ、自己実現のために努力を重ねつづける人であると言い換えることはできないでしょうか?その考えの中に宿るちょっとしたプライドで自分自身や他の人を傷つけてしまう可能性以外に、自分のことを客観的にとらえられず、”自分ではない何者か”になろうとしてしまうのではないでしょうか?

だからと言って、私は自分に価値がないとは思っていません。それは、私が何者であるから価値があるというものでなく、私が神によってこの世に存在させられた価値ある被造物であること、またこの私を神の子として天国を引き継ぐものとするために、神の御子が十字架にかかるまで愛してくださったことからそのように言えるのです。

そして、これを読んで下さっているあなたもそのように価値のある存在です。


(hide-tanの祈り)

天と地とその中にあるすべてのものを造られた父なる神様。『あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(旧約聖書イザヤ書43:4)』と言い続けていて下さって有り難うございます。
もしかしたら、私が描く自分の理想像と、私を作られたあなたの目的にかなった私のあり方は、ちょっと違うかもしれません。そのままで人生を歩むことを、もしかしたらあなたはお許しにならないかもしれません。

もしそうであれば、私をいつでも立ち止まらせて下さいますように!
あなたのみ声を聞き分ける耳と、立ち止まる信仰を与えてくださいますように!

あなたが私たちを造られた、その目的にかなった生き方をすることが私の幸せです。たとえ険しくても、見栄えがしなくても、私に”幸いな道”を歩ませて下さい。

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著者:P. D. Eastman
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2008年9月 7日 (日)

"MD"と"PhD"

私は、「一応」神経科学者も自称しています。

今日は、ベイエリア近辺にあるUCSF UC Berkeleyそして、スタンフォードの3大学に所属している日本人神経科学者の有志の会がありました。

今回は参加者9名と少しこじんまりした会でしたが、3名の方々の発表とディスカッションがあり、そのあとで日本食レストランで飲み会をしました。(私は飲めない人なので、ドライバーをかって出て、アルコールは自粛。)

皆さん、大変な苦労をされて学位を所得し、立派な業績があるのにわざわざ慣れない地までやってきて、身分は不安定で自分の明日の立場が見えないような中で、世界の明日のために最先端のサイエンスを追い続けている方ばかりです。

そして、成功している人の話は聞けても、頑張っても研究者として生き残れなかったらどうなるのかわからない、という言葉が印象的でした。一方で、医師と研究者の二足のわらじを履いていると、研究で挫折してもそれは「臨床に戻った」ということになるだけで、「研究者としての失敗」という風にはとらえられません。

医師の資格をもつ医学博士である私の肩書きは"MD, Ph.D"です。自分で言うのもなんですが、立派な肩書きです。しかし、今の自分にはMD, PhDの前に付いているMDが”なんちゃって”と読めてしまうことがあります。

同じ肩書きをもつ先輩方の多数は事実上は"MD, Ph.D"です。PhDとしては活躍していなくても、MDとして尊敬できる先輩方は多いです。
また、ほんの少数、"MD, Ph.D"となられる方がいられ、その多くは成功者といえるかもしれません。まだ臨床の匂いを残している私からは少し遠い存在である印象があります。
そして、本来の意味で"MD, Ph.D"でありつづける方はもっと少数かもしれません。

私の中で「成功する」ということは、上のうちのどれになるということではなく、神に召されたように人に仕え続けて人生を走り終えることです。しかし、どれになるにせよ、不本意でそうなるのではなく、最後まで求め続けたあり方が肩書きに反映するようになるように努力したいと思ったりしました。Img_1708

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2008年9月 4日 (木)

クワイアーも夏休み明け

さて、長い夏休みを終えて、教会のクワイアーの活動が再開しました。

去年はクリスマスからの参加でしたので、楽譜を入れるファイルも新調され、しかも今回はクリスマスあけまでに礼拝で歌う楽譜と、各パートの練習CDを配付してくれたので、家でしっかり練習できそうです。
我が家にはキーボードなどが無く、楽譜を見ても絶対音感の弱い私としては、音楽ファイルだけが頼りでした。でも時々そのようなものが提供されないときにはかなり苦労しました。

クワイアーは、それなりのプレッシャーと緊張感を持ちながらのリハーサルと家での練習(いつも帰りが遅いので実は、あまりやっていない)が微妙に心地よいのですが、クワイアーの好きなところは、曲の最後のクライマックスのところで他のパートと綺麗にハモッたりすること、それに加えて、讃美歌ならではですが、歌詞を味わいながら歌うことで、神様の素晴らしさがさらにわかったり、神様の愛に感動したりできるところです。礼拝で歌っていると、礼拝出席者の方々が歌を聴きながら涙を拭っている姿をよく見かけますが、感動的に心をこめて歌う一方で、感情でいっぱいいっぱいにならないよう、冷静さを保つようにも心がけないと最後まで歌えません。

私にとってクワイアーでの讃美歌を練習する目的として、上手に歌えるようになること(というか周りに迷惑をかけないこと)以外にその曲になるべく慣れて、感情的にならないようにすること・・・というものも含まれています。

そういった意味で、今回も手強い曲が目白押しです。

たとえばこんな感じ。(9月21日に礼拝で歌う予定)


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2008年9月 2日 (火)

Lake Tahoe 3日目:Squaw Valley-リゾート化したオリンピック会場

Lake Tahoeの最終日になってようやく、South Lake Tahoeから離れました。

今回は時間の関係上、湖岸道路の一周はあきらめて西側まわりで北に抜けて変えることにしました。

まずは昨日のクルーズで一周したエメラルドベイを上からのぞき込みました。とてもきれいでした。


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子どもたちも美しい眺めにご機嫌でした。

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昼食は、Tahoe CityにあるEver Green Cafeでバターレタスサラダ、ポテトスープ、ポークサンドウィッチ、ローストナッツを食べました。妻nori-tanは黄金に輝くフレンチフライ(フライドポテト)がエラい気に入っていました。全体に美味しく、外食でこれほどのヒットは久々でした。パティオに出て景色を眺めながらの食事というのもよかったかも。

小さな街の小さなショッピングモール。この1階の水色の屋根のついたところが訪れたカフェ。

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本当はSand Harborまで行きたかったのですが、諦めて、趣向を変えてSquaw Valley USAに行くことにしました。なんで、地名にわざわざ"USA"が付いているのか、とお思いになるかもしれません。それは題名にもあるようにここは1960年の冬季オリンピック会場だったからです(だと思います)。

麓のロッジはとてもおしゃれでショッピングセンターもあります。完全にリゾート化しています。
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ここでもまたロープウェイに乗って、遠くにLake Tahoeを眺め、オリンピックミュージアムを見て回りました。難易度が高そうですが、ここはスキーに来る人には最高の場所だと思います。

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こっちでは珍しいのですが、帰りは渋滞に巻き込まれ、ちょっと日本のゴールデンウィークを思い出しました。おかげで私は夜10時からラボに行って細胞ちゃんたちのお世話をしなければなりませんでした。

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2008年9月 1日 (月)

Lake Tahoe 2日目:「非」効率的な楽しみ方

旅行日程に日曜日が入ったときのひとつの楽しみは、その土地の教会に行けることです。
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いろいろ検討した結果、訪れたのはLake Tahoe Christian Fellowshipです。ここは、ロックコンサートさながらの賛美で、子どもも大人も旗を振り、静かな曲になると、ドレスを着た女性たちが白い布を揺らして踊ったりして、楽しい礼拝でした。

午後からは、Tahoe Queenという船でクルーズでLake Tahoeを楽しむことにしました。(これはホテルで予約し、割引が効きました。)

出発したばかりの浅いところは、エメラルドグリーン。
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それで、だんだん青くなって・・・
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やっぱり、青い。
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エメラルドベイに進入。
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このベイの真ん中に趣のある島が浮いていました。
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そのあと、ドライブを楽しむ予定でしたが、クルーズの出発が30分以上遅れ、さらにそこから3時間近くのクルーズだったので、Labor Dayの花火に備えて断念しました。ホテルのレストランで夕食を済ませて、ビーチに行きましたが、花火は結局中止になった模様。ちょっと残念でしたが、まあこんなアンラッキーも旅の思い出です。

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