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2008年11月24日 (月)

困ったときの・・・

以前、日本人のためのバイブルスタディで、ある方から「神様のイメージと言えば、”困ったときの神だのみ”って言うように、普段は意識しないけど、何か問題があったときは助けて欲しいと思う存在。自分勝手とはわかっているけど・・・」という正直な意見をいただいたことがありました。

これは、この方に限らず、またクリスチャンであるないに関わらず(?)多くの人にとっての神様のイメージではないでしょうか?

でも、自分の力だけではどうしようもできないような困ったことが起きた時に神様を求めることは理にかなっていると思います。それで、神様の側からしても、普段は神様の存在を否定している人であっても、「神様、いるのであれば、なんとかしてください!」
と呼び求める気持ちを起こさせているのは、神様ご自身の導きがあるかもしれないと私は思っています。

でも、ここで疑問が生じます。
それは、普段は神(ここで言うのは、聖書に書かれている父、御子、御霊の三位一体の神)などいないと思っている人がいきなり、神に呼び求めたときにその叫びを聞かれるかどうか?
ということです。

答えは、イエスであり、ノーであると思います。

イエスというのは、神は文字どおり聞かれている(listen)ので、イエスです。
神はその人の「祈り」や「叫び」を知っておられるからです。
これは、考えてみれば、なんでもご存知の全知全能の神という性質上、「聞こえていない」ということはないですし、どのような人間も愛して下さる愛の神という性質上「聞く耳をもたない」という態度も不可能です。ただし、これもご自身に向かってではない他の神に対する祈りなのかどうかで、ご自身に向けられた祈りなのかどうかの区別はもちろんされるのではないかと思います。

なのに、「ノー」というのは、神は祈りに応えてくださるかどうか(respond)については、時と場合によると思います。
時には、その祈り手がどうであり、祈り方がどうであれ、祈りに応えられて、そのあとでその人が神によって祈りが聞かれたと知ることがあるかもしれません。
また、ある時には、祈り手に対して、自分自身の姿を正しく見るようにさせ、神はどのようなお方なのかということ、つまり、どのような自分がどのような神に祈ろうとしているのかということをまずお教えになることがあります。そのときには罪を告白し、その罪もふくめてすべての罪がキリストによって十字架で滅ぼされていることを感謝することから祈りはじめないといけないかもしれません。
さらに、ある時には、そのようにキリストの救いを受け入れたうえでも、祈りを聞かれないこともあります。ここで、「聞かれない」というのは、祈り手の願うような形ではお応えにならないということです。それは、神は愛の神であると同時に私達自身よりも何が私たちにとって最も良いことなのかをすべて見通しておられるからです。なので、祈り手のリクエストをそのまま実行に移されることで、神ご自身を現すこともあれば、期待とは違う結果をもたらして、一度は祈り手をがっかりさせることだってあるのです。しかし、神はクリスチャンの祈りを聞いておきながら、無視したりすることはありません。私達を愛する全知全能の神として、私達にとってベストである神の計画をなすべく働かれるのです。なので、神を信じ続けておれば、いつか神が祈りに応えられなかった意味を知ることができ、きっとそれを感謝できるようになるはずです。

ところで、最後にクリスチャンでない人が、キリストを信じる決心はできない、でも”神にもすがりたい”と思えるような状況にあるとき、どしてよいのかわからないときにどうすればいいか?
私のお薦めの方法はズバリこうです。

連絡のつくクリスチャンに「祈って欲しい」とリクエストをすることです。
”困ったときのクリスチャンだのみ”です。そんなゲンキンな・・・とお思いになるかもしれませんが、そんなことはありません。クリスチャンはこの世にあって、キリストの大使なのですから、クリスチャンでない人のリクエストをキリストの名によって神にお伝えすること、キリストの名において、実際的な助けをすることは神から与えられたタスクなのです。
私もクリスチャンですから、このことだけは確かに言えます。私がひざまずいて祈る時に、神は全神経を集中して聞かれておられるということです。それは、私がキリストによって神の子とさており、神の長子であられるキリスト・イエスの名を用いて祈ることがゆるされているからです。なので、私が誰かのために祈るときであっても、神はall ears!となって聞いて下さっているのです。

確かに祈りへの応えは、様々です。時には、思いどおりのように、また時には思い通りにはいかないかもしれないです。しかし、神がクリスチャンである私の祈りを聞かれるときには必ずその祈りにお応えになるということ、そして、それはいつも最善をなすべく神が働かれるということです。そして、私がクリスチャンとして神とコンタクトをとり続けている限り、その祈りの応え方に納得出来ずに残されるようなものは何ひとつなく、この世で生活している限りにおいてはわからなくても、天でキリストに見(まみ)えるときには、すべてが明らかにされ、神の働かれ方にますます驚嘆し、神を崇めることになるはずです。なので、祈りは祈るほどに後で祝福がもたらせるものなのです。

だから、私たちクリスチャンは祈らないといけないし、クリスチャンでない方も、クリスチャンに祈りのリクエストをすることは決して悪いことではなく、むしろ喜ばしいことなのです。

このブログを読んでくださった方がもし、人間の力ではどうしようもないような状況、つまり”困ったときの神頼み”という言葉を思い浮かべるような状況になったときには、ぜひ”困ったときのクリスチャン頼み”というオプションも思い出して下さり、相談してもらえればと思うのです。


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