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2009年1月31日 (土)

”思いやり”を科学する?

ダライ・ラマ14世がスタンフォードに$150,000の基金を寄付して、 Center for Compassion and Altruism Research and Educationというものを設立させたそうです。思いやりの心を科学的に解明して、最終ゴールとして、思いやりのある心を育てることに役立てようということらしいです。

これまで、心というものを科学的に解明するという試みはなされてきたと思いますし、キレやすい子どもの心の中に何が起きているか、心の病を予防するにはどうすればよいかなどの研究は意義深いと思うのですが、それにしても、思いやりの心を持つために必要なものを解明して、科学的知見に基づいて心を教育しようということを大々的に公表するとは・・・。思いやりの心を研究すること自体はいいのですが、私がひっかかるのは、”思いやり研究教育センター設立”という点です。

私は、なぜか何か、そのセンターの設立の意図自体になんとなくですが、冷たさを感じます。
それと、なにか人間の高ぶりというかおごりのようなものを感じます。
そして、”Compassion(思いやり)”とか”Altruism(利他主義)”というものをどのように(科学的に?)定義しているのかが疑問に思います。

このようなセンター設立に際しては誰かが、『この社会には、そういった他人を思いやるという心の欠けた人たちがいる。そのような人が増えないように、子どものうちから思いやりの心を育てたり、そういった人格を持ち合わせていない大人の再教育に役立つように研究をしよう。』と号令をかけないといけないと思うのです。そして、そう号令をかけるためには、その人自身が、思いやりの固まり、自分を犠牲にして他人のためにどこまでもどこまでも自分を捧げきれる人である必要があると思うのです。

”思いやり”って一言で言えば簡単ですが、はたして自分には思いやりの心があるのか?と自問すると、希望を込めて”イエス!”と言いたいところですが、多くの場合、”ノー”であるような行動をしていると思うのです。

誰かが困っていたら、自分の生活に支障のない程度に助けることはあるかもしれない。
毎月の家計が傷まない程度の寄付をするかもしれない。
声をかけられたら、奉仕のようなこともするかもしれない。
そういったことで、”思いやりテスト、合格!”となるのでしょうか?
たとえ、そのようにしても、人間関係が潤滑に行くようにとか、社会に受け入れられるようにとか、自分自身に合格点をあげたいとか、そういった気持ちに動かされていることも無きにしもあらずです。

誰かへの”思いやり”を行動に示すときに私は、そのときの自分の忙しさ、経済状況、気分が乗るか乗らないか、助ける相手が自分とどれくらい関わりのある人なのか・・・などを瞬時に判断して、行動に示したり、「今回はパス」したりしているのではないかと思うのです。
また、インターネットなどで楽しいイベントやお買い得な情報を探したりしても、「誰かが困っていて、自分に何かできることはないか?」と検索をかけることは、まずありません。

そのような私に「思いやりの心がある!」とは、とても言えません。
そして、そのような私が思いやりのある子どもを育てることはとてもできないのです。
でも、時間がたてば子どもは育っていくし、しかもそのように思いやりに欠けた親を子どもは見ているのです。

科学が思いやりの心を解明し、私をこのような状況から救ってくれるのを待つべきでしょうか?

でも、私には、もう少し良い方法があります。
思いやりに欠けた私が子どもたちのためにできることは、私のために命まで投げ出して下さった神の御子キリスト・イエスの前にひざまずいてこのように祈ることです。

”私の神、主よ。あなたがこれまでに私を愛して下さったのに、それに応えて、他の人たちに示すべき思いやりの心が自分の中に見当たりません。しかし、あなたには余りあるほど愛があります。どうか、あなたご自身がこの私を通して、私の周りの方々を愛し、そして、あなたが私を通して働きかけたいと思っておられる方々のところにお導きください。そうすることで、あなたがその人のことを気にかけておられること、命を惜しまぬほどに愛しておられることを知ることができますように。アーメン。”

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。(1ヨハネ3:16-20)


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