クリスチャンである私と家族が、他の世界中のクリスチャンとともに急に消え去ったりしたら、この世界はあと7年あまりで終わります。それは、今日かも明日かも、10年後かも、私が普通に死んだ後に起こるかもしれません。でも私たちクリスチャンが生きたままいきなり消え去ったら、そのあとどのようなことが起きるか、この世はどのように終わりに達するか、聖書には詳しく書かれています。
聖書によると、世の終わりはどのようにしてやってくるのか?
それらをまとめて、ドラマ化した本が”レフトビハインド”という本です。これは、全部で12巻になっていて(私は最初の3巻までしか内容は知りませんが)、日本でもはまっている人が多いです。
それで、この映画シリーズがYouTubeにアップされているのを最近見つけたので、隣のポスドクjuryに教えると、昼休みから仕事が手に着かなくなり、(データ解析をしているフリをしながら)2時間近くある第一巻を見終えてしまいました。(おいおい・・・)
”なんで、善良な人たちだけいなくなったの?”
「いなくなったのは、善良な人たちじゃなくてクリスチャンだよ。だけど、このニコライというこの人気のある指導者が、”残ったあなたがたこそ、選ばれし人たちだ。”と元気づけて、マインドコントロールを始めるんだよ。悪魔の力を使って。」
彼女は、”私は他の悪い人たちとは違う。悪い人までもゆるして信じるだけで天国に受け入れるような神様はこちらからお断り。” という立場の持ち主。
この映画でも同じようなことを主張する人物と聖書を信じるようになった人の会話が出て来ます。(ちょっと改変)
「でも人を何人殺せば殺人者になる?」
”一人”
「だよね。うそを何回ついたら嘘つきになる?」
”一回”
「盗みをしたことはないか?」
”それはない。”
「小さなものでも?」
”・・・ある。”
「キリストは、情欲を抱いて女性をみたものは、心の中で姦淫を犯したのと同じと言っているけど、そんなことはまったくない?」
”ある”
「キリストは、だれかに”バカ”と言って憎む者は、心の中で殺人を犯していると言ったけど、誰かをそのように憎んだことは?」
”ある”
「それじゃあ、神の目にはあなたは、殺人者で、嘘つきで、泥棒で、姦淫者だよ。それを善良な人と呼べるかい?」
そうなんです。実はクリスチャンの間では、good peopleという言葉には意味が無いのです。
クリスチャンたちは、自分たちのことを”ゆるされた罪人”と呼びます。
・・・そんな自己卑下をしなくても、自分たちのよいところに目をむければいいじゃん!
と思う方も多いと思いますが、私は決して自己卑下はしていないのです。
私の罪を肩代わりするために、神の御子であるキリストが、十字架というむごい刑を受けて血を流して下さった。その血潮によって自分は、神に逆らうというサタンと同じ立場であったところから買い戻されたからです。
だから、私という人間には、非常な価値があります 。
それは、私がなにかをしたからとか、何者だからとかいうからでなく、神の御子の血潮という全宇宙を買い取っても余りあるような代価で買い取られたものだからです。
だから、私の心をいつも支配しているのは、”喜びと感謝”です。
聖書には、この世の終わりが来る前に、クリスチャンは天に避難させられるとあります。
なので、レフト・ビハインドに書かれているような出来事は、私は経験しないことになっています。
聖書の最後尾が”ヨハネの黙示録”であることには、時間的な並べ方の意味もあると思うのですが、もっと別の意図があると思います。
黙示録のはじめには”これらのことを教会に書き送れ”と書かれています。
それは聖書を読むときに、キリストの十字架による罪のゆるしを知って、受け入れたうえで、”もしこのキリストを拒んだ人々にどのような苦しみが待っているのか”を示したいと神が願われているのだと思うのです。
神が私たちを愛して罪から救い出して下さったことを知らさねばならないというメッセージをクリスチャンに送っている書物なのだと思います。
キリストを受け入れないままに黙示録に達してしまうと警告というより脅しになってしまうかもしれません。たしかに恐ろしいことが世の終わりには起きると聖書は言っていますが、聖書はそれよりももっと強い口調で、あなたをそんな目にあわせたくないというメッセージにあふれているのです。
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