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2009年4月11日 (土)

その日、何が起きたのか(2009年の受難週に)

2009年、アメリカで迎える二度目のイースター。

巷には、Easter BunnyやEaster Eggで溢れかえり、3月からもう街はEaster一色です。
今日も、ポスドクのjaneは”Happy Easter!"と言いながら、友達とリゾート地で集まって食べてや飲んでのイースターパーティに出かけて行きました。

ここアメリカではキリスト不在のクリスマスに続き、イースターまでもキリスト不在のイベントと化しています。

しかし、クリスチャンの私にとっては、クリスマスと同様、あるいはそれ以上に意味深い行事なのです。イースターを迎えるこの数日は、神の意に反したことをしつづける私のために、神の御子キリストが、なんの罪もないにも関わらずに刑罰を引き受けて下さったことを思い起こす時でもあります。

キリストの受難は、旧約聖書のイザヤ書53章詩篇22篇に預言されていたとおりに起きたのですが、それは、ゲッセマネの園で始まります。
これから待ち受ける苦難の中で、もっともキリストが恐れていたのは、罪あるものとされ、父なる神から捨てられるという経験をしなければならないことでした。非常なストレスの中で皮膚の毛細血管の透過性が上がり、文字通り、血と汗を滲ませながらの祈りになるそうです。

もっとも一緒にいてほしいつらい祈りをしている傍らで、弟子たちは眠りこけてしまいます。
そして、口づけの挨拶をもってユダに裏切られ、キリストは売りわたされ、弟子たちは走り去ってしまいます。”あなたのためなら命を捨てる”とキリストに言っていた一番弟子のペテロも、三度も彼を知らないと拒みます。

ローマ総督ピラトに引き渡されたキリストは、骨や石がついたムチで全身の皮をえぐられ、荊の冠で頭から血を流し、棒で頭をボコボコにされ、唾をかけられ、からかわれ精神的なリンチも経験されました。この時点で、死亡してしまうこともあり、あまりのひどさに総督ピラトが止めに入ったほどでした。

重い十字架を無理矢理に背負わされ、カルバリとよばれる丘へと進みます。
もちろん、半殺しにされた状態なので、最後までは負いきれませんでした。

手と足を釘打たれ、それで全体重を支えるので、関節ははずれ、呼吸のために体を持ち上げるごとに手足とむち打たれた背中に激痛が走ります。そのような中で、キリストが口にした言葉はこうです。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)

窒息、心タンポナーデ、肺血腫、出血多量・・・。死因は様々考えられます。非常な身体的、肉体的苦痛のためにだけでも死んでしまってもおかしくないくらいだったと専門家は言います。
しかし、神である御子は、自分の意志で霊を父なる神の御手にゆだねたのです。

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 (ルカ23:46)

キリストは、この世を創られた神だったのでした。その神が、私たちの罪の刑罰をかわりに受けて、永遠の命を与えるためにされたこと、それが十字架でした。それは、世が始まったころからの神の愛のご計画でした。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

クリスチャンであるというと、もしかしたら「科学が発展したこの時代に本当にそんな子どもじみたことを信じているのか?」とか「クリスチャンは他の神の存在を認めない視野の狭い存在だ」とか言う偏見にあうのではないかという”恐れ”をいだくクリスチャンの方もこれを読んでいるかもしれません。

私もそうです。人の目を恐れてしまうことがあります。でも、このように神が払ってくれた犠牲を思うときにそのような自分が恥ずかしく、申し訳なくなってしまいます。

たった一言、「私は聖書に書かれている神を信じ、神の愛と救いを知っています。永遠の命にあずかって、とても平安で幸せな生活を送っています。聖書に基づく私の持つ希望について、お話を聞いていただけませんか?」そのようなことさえ、簡単に言うことができない私ですが、私が生涯をかけて人々に伝えたいと思っているメッセージは次のようなものです。

Ⅱコリント5章 18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イースターのこの時期、この記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
あなたも神からのゆるしを得て、私と同じく神の家族になるために次のようなお祈りを心の中で唱えて下さると幸いです。

神様。私はこれまで、あなたを知らず、あなたの前に罪を冒してきました。
しかし、神の御子であるイエスキリストが私の罪を肩代わりするために十字架につき、復活されたことを知りました。私はこのことを信じ、感謝してこの事実を受け入れます。
あなたのことを信じて歩むことができるように助けて下さい。

聖書のことについて、個人的にご質問がある方はこちらまでご連絡ください。

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