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2009年9月12日 (土)

マルコの福音書(4):その立場表明が意味するもの。

マルコの福音書(4):その立場表明が意味するもの。

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聖書箇所(マルコの福音書1章9-11節) そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

罪の悔い改めのしるしとして、人々が受けていたバプテスマ。
先に書いたように、ヨハネは、自分の罪を悔い改めず、形式だけのためにバプテスマを受けようとする人々を非難しましたが、他にも別の理由でバプテスマを授けることを拒否しようとした人物がいました。

それは、イエス・キリストです。

しかし、ヨハネはそうさせまいとして、言った。 「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」(マタイ3:14)

洗礼者ヨハネは、イエスが罪の悔い改めなど必要の無い、罪のないお方であることを知っていました。
彼は、「私には、かがんでそのお方の靴のひもを解く値打ちもありません」(マルコ1:7)とイエスがいと高きお方であると告白し、自分にはとてもそのようなことはできないと言ったのです。

そこでイエスはこのように答えたのです。

ところが、イエスは答えて言われた。 「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:15)

人間として生まれ、人間として育てられた人で罪がまったくない、悪いことなどしたことはないし、考えたことも無いと言えるような人はいないでしょう。幼子は教えられなくても、ウソをつくようになるし、他人の物を取りたがるようになるのです。人は罪を冒すから罪人なのではなく、罪人として生まれるから罪を冒すのだと思います。

キリストは、神としてのご性質を持ちながらも、同時に完全な人間でもあったので、罪がないのにも関わらず、罪人としての立場を取られたのです。それは、キリストご自身にとっては必要のないバプテスマでしたが、そうのようにすることによって、「私も彼らのうちの一人です」と神のまえに立場を表明したのです。それは、同時に、自らの身を神のさばきの下に置くことと同じでした。

それをわかりやすく(なるかどうかはわかりませんが)言えばこういうことです。

たとえば、不祥事を起こした会社の責任を、適正に仕事をしている会社の社長が代わりに謝罪して辞任することで責任をまっとうすることはできません。その不祥事を起こした会社の社長が謝罪し責任を問われることになります。

キリストが取った行為は、まじめに仕事をしてきたのにわざわざ、不正を行っている会社の責任者になったというようなことなのです。キリストは、公生涯のはじめにわたしたちの罪の責めを担う十字架をすでに背負いはじめていたのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。 人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6-8)
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」 (1ペテロ3:18)

そして、はじめの聖書箇所に戻ってみると、聖霊が下られて、天から声がしたとあります。
この場面は、三位一体の神が、その”みつにいましてひとつなる”さまを人々に現した驚くべき場面です。

それは、同時に罪のない神の御子イエスが人々の罪を背負わせて十字架の道を歩むということが、イエスの単独行為ではなく、父なる神のご計画であり、御霊なる神(=聖霊)の導きのもとに行われるということを確かに示すためでした。

イエスは、ヨハネに制止されたときに「今はそうさせてもらいたい。」と言われました。

”今は”と言われるからには、別のときには違うことをされることを意味しているはずです。

実は、この会話の直前に、洗礼者ヨハネ自身が”キリストは本来どのようなことをされるお方なのか”ということを預言しています。

「・・・その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 手に箕を持ってお られ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 (マタイ3:11~12)

本来、キリストは裁きを受ける側ではなくて、裁きを行う側であるというのです。罪のあるものを永遠に燃え盛る火の中に投げ込み、罪のないものをご自分の民とされるお方であると言われています。

実は、これはイエス・キリストが再臨されるときに行われることを示しています。聖書には、最後の審判のときには死んでいるものはみなよみがえり、キリストを信じ、罪を十字架によって滅ぼしていただいたと告白していた人だけが神の前に義と認められ、それ以外の人、すなわち、神のこれほどまでの犠牲を聞いていながら受け入れなかった人は、その罪とともに永遠に火で焼かれ続けると述べています。

しかし、神は人を愛しているので、ご自分の身を犠牲にして、そのような苦しみに会わないようにするために御子イエスをこのような苦しみのもとに置いたのです。
人間にはとても到達できない神のきよさの高みに達するために、私たちは自分の力でジャンプしてもできません。善行という小さなレンガを積んでも天には届きません。私たちは、信仰告白というチケットをもって、十字架の飛行機に乗り込まねばならないのです。
それ以外には方法はないのです。もしあるのならば、神の御子をそのような目に遭わせることなど必要なかったのですが、わたしたちが何気なし行っている罪(友達の悪口を言うとかウソをつくとか、神を無視して生きることなど)とはそのように恐ろしいものなのです。

このイエスのバプテスマ(洗礼)の出来事は、わたしやあなたにとって、とても意味のあることなのです。それは、キリストが私やあなたのために十字架を選び取って下さった瞬間だったのです。そして、キリストは遠く離れている方なのではなく、常に私やあなたの傍らにいて下さる方なのです。終わりの日に至るまで、私たちの悩み、苦しみを理解し、共有し、ともに歩んでくださるお方なのです。

キリストがヨルダン川で身を沈めたその時こそ、天地を造られた神ご自身が、キリストを通して私たちの側に立ってくださった時だったのです。そして、今は、わたしたちがそのキリストを自分の救い主として受け入れるときなのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
神様。わたしはこれまで、罪をおかして、あなたに喜ばれない心をもって歩んできました。
しかし、御子キリストが私の罪を背負って十字架について下さり、よみがえって私に永遠のいのちを与えて下さったということを知りました。そのことを感謝します。
どうか、これからの人生を私とともに歩んでください。
イエス・キリストのお名前でお祈りします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

このようなお祈りをぜひしてみて下さい。
きっと、あなたがこの世に生まれた瞬間から、神があなたとともに歩んでくださっていたこと、いつもそばにいて下さっていたということがわかる日が必ずやってきます。

(つづく)

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