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2009年9月20日 (日)

マルコの福音書(5):私たちの弱さ、悩みに寄り添う主

hide-tanと読む「マルコの福音書」(5)

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聖書箇所:マルコの福音書1章11-12節

そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

普通、こういう話の展開になると、ああ、きっとイエスは、これからの伝道旅行に備えて悟りを開くために修行に出られたのだなあと思われるかもしれません。実は、イエスは確かに聖書は読んでいたであろうけれども、父なる神と御霊を通して一体であったイエスにとっては、「悟りをひらく」という行為は不要だったのです。

またイエスが他の聖者と違う点のひとつは、どのように神に語りかけられて、それに応えたとかいう召命の出来事が記載されていません。それは、ひとつはこのお方が、神であられたからです。

そんなことを考えに入れながら、この箇所をもう一回読んでみましょう。

そして、すぐ御霊は、イエスを荒野に追いやられた。

とあります。バプテスマを受けて、神から来られた方であることを人々に示し、そして罪人の立場に身を置くということを表明した後、すぐに起きたできごとです。罪人の立場にたって、わたしやあなたの罪を背負うためには、その身代わりとなる人自身が潔白でなくてはなりません。

そこで、もし、山に隠ったりして何の誘惑になるようなインプットが無い場所で過ごして「潔白だ」といっても説得力がありません。それは、神にとっても、私たちにとってもそうですが、サタンにとってはなおさらです。ところで、サタンは、神に従う心のある人に手を下すときには、常に神に許可を求めます(ヨブ記1章6-12節、ルカ22:31)。だから、このときも、サタンは神に御子イエスを惑わすチャンスを与えるように強く求めたものと思われます。そして、神は正しい方ですから、ご自分の義を御子イエスの中に現すために、その訴えを受け入れたものと思われます。

その証拠として、イエスを荒野へと追いやったのは、他ならぬ神ご自身の霊(聖霊)である、と記述されているのです。

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

他の福音書には、40日間の断食のあとでサタンが試みにやってきたと書かれていますが、マルコのみはサタンが40日間ずっと試みを行っていたような書き方をしています。(おそらく、他の福音記事の著者たちは、最後の3つの試みについてのみ象徴的に書かれたのではないかと思います。)
サタンにとっては、イエスと一対一で向き合って、惑わすことができる滅多に無いチャンスです。
まさにサタンは全身全霊をこめて、ありとあらゆる知恵と不思議な業を使って、イエスを試みにあわせたに違いありません。

イエスは、40日間、断食をして、人の助けを得られない場所で、人が人生のあいだに受けるであろうサタンからの誘惑を数多く受けたのです。それは、敬虔なクリスチャンと言われるような人であっても、耐えきれないようなものであったと思います。

神の御前では、けっして出来ないようなことをさせるために、少しでも神から目をそらさせるために、人々はクリスチャンであってもなくても、たえずサタンは私たちの周りをうろついています(1ペテロ5:8)。サタンは美しい衣を着て、いかにも信用してもよいような身なりで私たちに近づき、美しいもの(お金、名声、権力、異性、社会奉仕といった立派な活動までも)をみせて惑わせます。そして罪を冒させます。
「美しいもの」はそれ自体が悪というわけではないのですが、それを間違った目的に使うことが罪なのです。サタンは、このように言うのです。

「あなたは本当にこの美しいものを手に取ってはいけないと神に言われたのですか?
こんなに美しいのに? 神はあなたが幸せになって繁栄することを願っておいでではないですか?」

しかも、人は(私も含めて)簡単にその手に陥りやすいのです。

こんなことを書くと、窮屈に思われる方もいるかもしれないですが、サタンの手に陥らずに神を信じて歩む生き方こそ、自由な生き方であると思います。私もそのような自由を手に入れたいと思いながら日々を過ごしています。

サタンは、クリスチャンでない人には極力クリスチャンに会わせないようにさせよう、聖書に目を触れさせないようにさせよう、教会の敷居を高くしてやろうとあの手この手で対策を練ってきます。あるときは、神に従っていない不道徳なクリスチャンや極端な考えのクリスチャンを反キリストの宣伝材料に用います。素晴らしいクリスチャンに出会ったときにも、「その愛にあふれた行為こそが素晴らしい」「(どんな神であっても)神を信じるというその心の持ち方自体が素敵だ」と思わせ、そのクリスチャンを突き動かせている神ご自身から目をそらさせようとするのです。

すべては、人が神に立ち返って永遠を神とともに過ごすという特権を得させないようにするため、神に目を向けて、その素晴らしさを味わい、永遠の神の愛の中で心を満たされて生きるというクリスチャンを減らすためなのです。

キリストが荒野で受けた試みの多くは、このようなサタンの甘いささやき、一見すばらしいと思えるけれども神のみこころには適っていない行動をとらせるようなものであったのではないかと思います。

「私に従いさえすれば、あなたがローマの圧政から人々を救い出すようにしむけてあげましょう。
 人々の心をコントロールし、あなたは民から絶対的な支持を得る王として君臨することでしょう。
それが、神からあなたに託された使命ではないのですか。
このような目にあっているユダヤ人を救い出すことが。」

こんな話も持ちかけたのではないでしょうか?

キリストは、人として生まれたので、罪を選び取ることのできる自由意志というものも持ち合わせていました。そのうえで罪を冒さず、神を愛し続けるという歩みが求められたのです。だから身代わりは天使とかではなく、人でなければならなかったのです。それは私たちには出来なかったことですが、キリストはわたしたちのためにしてくださったのです。

それは、キリストがサタンと行動をともにして栄光を勝ち取るというものではなく、神の道を十字架を背負って歩むことを示し、上のような「おいしい話」にもきっぱりと”NO"を突きつけたのです。
それは、悪の側にではなく、神の側に立つという第2番目の立場表明であったわけです。(第1番目については過去の記事参照)

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。(2コリント5:14)

そして、それは”御使いたちがイエスに仕えていた”とあるように、父なる神とのアクセスがある状態で耐え忍ばれたのでした。試みの中、イエスでさえも、御父の助けを必要としたのです。

それでは、イエスがこのような試練を耐え忍ばれたことにはどのような意味があるのでしょう。
それは、キリストが私たちの弱さを知り、同情されるお方であることを示しているというのです。

聖書の示す神はただ単に聖なる義なる神であるだけでなく、とてつもない愛をもたれていいるお方です。それは、どんな罪人にたいしても、減らすこと無く注がれる完全な愛です。

神は、私たちがどれほど弱いものか、どんな悩みを持っているのかを知って下さるだけではなく、自分が冒してしまった罪の結果、苦しんでいることがらについてもともに悩み、ともに苦しんで下さるお方なのです。

たとえば、ある人が飲酒運転をして交通事故を起こし、帰宅途中のサラリーマンをひき殺してしまったという悲惨な事件が起きたとします。キリストはもちろん、被害者家族の悲しみを共有してくださるお方です。一方で、

「お酒を飲むのをあれだけやめようと思っていたのに。仕事で嫌なことがあったことを忘れたいと思って同僚と飲んだやけ酒がこのような結果をもたらしてしまった。会社には戻れないだろう。子ども達を守るために妻にも離婚されるかもしれない。被害者家族の憎しみから逃れられないだろう。そして、なにより自分自身を受け止めることはできないだろう。」

と失意のどん底にある加害者のことも理解し、ともに悩んで下さるお方なのです。

「こんな自分は生きていてもいいのか?生きていけるのか?」

と涙する加害者に、

”生きていていいんだよ。私が十字架にかかったのは、そのようなあなたでも生きていくことができるためなんだよ。自分では一生かかっても背負いきれない十字架を私がかわりに担いでいるんだよ。私とともに歩めばいいんだよ・・・。”

と言って涙を拭って立ち上がらせてくださるお方なのです。「自業自得」とか「バチがあたった」とか言う言葉はキリストから発せられることはないのです。

次回、お話する聖書の箇所でイエスが語られる言葉は、このような神の愛が裏打ちされているのです。

私たちの大祭司(=キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

(ヘブル4:15-16)

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神様。あなたは私の弱さを理解して下さるお方であることを感謝します。
わたしは、あなたに従わず、自分の目に良いと思われることをしてきました。
しかし、イエス・キリストがしてくださった十字架のわざにより、私の罪はゆるされ、あなたのもとに近づことをゆるされ、我が子と呼んで下さることを感謝します。
どうかこれから先、あなたの喜ばれるような人生を歩んで行けるように手助けください。アーメン

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(つづく)

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