« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2009年9月

2009年9月29日 (火)

Jelly Belly Beansの工場見学とトマト狩り

アメリカの子ども達に人気のお菓子、Jelly Belly Beans
Img_0475
見た目は色がきつくて不健康そう、しかも美味しくなさそうなのですが、夏休みの旅行中に妻の反対を押し切って、ドライブ用のスナックに買ったところ、家族みんなすっかりハマりました。
一粒ずつ食べるのも美味しいし,ミックスしてもなかなかいけます。
Img_0478
今日は、子ども達の学校がお休みなので、私もお休みをとって、iaさんご家族(お父さんは残念ながら行けませんでしたが)と一緒に平日に稼働している工場を見学しに行きました。
Jelly Belly Factoryはパロアルト(スタンフォード近辺)から1時間20分くらいのところにあって工場見学をさせてもらえます。
Img_9042

工場の玄関は、マスコットやJelly Belly Beansを使ったモザイク画が飾られて楽しげです。
工場見学というより、アトラクションを見に来たような感じ。
Img_9055
ツアーは約40分。製造過程にあるJelly Belly Beansをくちゃくちゃしながら、モニターの説明を聞いたり、工程をみたりしました。
その後、サンプルバーに立ち寄って、いくつか味見をして、半端モノのJelly Belly Beans(Jelly Belly Flops)を一袋購入。

そのあとは、Suisun Valleyをぐるり一周。

まずは、SePay Grovesでオリーブオイル、ワインビネガーのテイスティング。
純度の高いオリーブオイルと、様々な味がついたものを比べてみました。
純度が高いと、口に中ではちょっと青臭い感じがして、喉を通る時に少し刺激があります。
ローストガーリック風味のものを購入。
Img_9090

次に農園で「トマト狩り」をしました。取って食べる分は無料。
Img_9062

完熟したトマトを枝からもぎとって食べると甘いのだということを、トマトが苦手な子ども達に本来のトマトの味を知ってもらうのが目的でもありました。
そして、期待を裏切らず、カリフォルニアの太陽を浴びたトマトは、とても甘くて美味しかったです。
Img_9067
近くに大きなイチジクの木が森のようになっていて、アメリカンな感じの案山子にまぎれて、バクバクいただいちゃいました。
Img_9071
Img_9075
Img_9076

ちょっと寂れた農園でしたが、トランポリンなども置いてあって、十分楽しめました。

ワイナリーも点在していて、この時期はブドウもたくさんの実をつけていました。
北カリフォルニアの秋を感じる、心地よいドライブでした。

Img_9081
Img_9080

| | コメント (0)

2009年9月28日 (月)

日曜礼拝シリーズ:信仰は何を変えるか?

私たちが通うPeninsula Bible Churchでは、日曜礼拝で旧約聖書のエレミヤ書というところをシリーズで学んでいます。

(予備知識)
エレミヤというのは、神の言葉を人々に伝える役目を果たす預言者の名前です。
彼が登場したのは、ユダヤ民族がバビロン捕囚に連れて行かれる少し前でした。
彼は、ユダヤ人が神への不従順によって、神が警告されていたようにバビロニア帝国によって国を滅ぼされ、捕囚とされるという預言をしなければならなかったのでした。

(日曜礼拝メッセージ要約)
”時代は変わっても、ちっとも変わらないのは人間だよ”
これは、ある映画のセリフですが、たしかに自分も、こうなりたいと思う自分になれないし、配偶者や自分の子どもたちも、いっこうに変わることがないと嘆いたりしたことはないでしょうか?

さて、今日は涙の預言者エレミヤの預言の中でも、比較的ポピュラーな記述があるところを読んでみたいと思います。

聖書箇所:エレミヤ書31章31-34節

見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ。―
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ。―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

この箇所の主題は、”新しい契約”です。
それでは旧い契約とは何でしょうか?それは、”彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約”とあるように、その契約の内容は申命記26章17-19節に書かれてある出エジプトを指揮したユダヤ人の指導者モーセを通じて与えられたことばです。

”きょう、あなたは、主(=ヤハウェ)があなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。 きょう、主(=ヤハウェ)は、こう明言された。あなたは主の宝の民であり、あなたが主の命令を守るなら、 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が作られた全ての国々の上に高くあげる。そして、約束の通り、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。”(申命記26章17-19節)

神は、ここで婚姻関係のように、”わたしはあなたの神であり、あなたは私の民である”といったユダヤの民との一対一の契約関係を結んでいます。しかし、民は神に対して、不従順になることで、この契約を破り続けたのです。800年前にすでに、この契約を破ったらどうなるかは預言されていました。
その預言が現実になったのがバビロン捕囚だったのです。

しかし、あわれみ深い神は、「契約をやぶった。すべてが終わりだ。」とは言わず、
「あなたがたは契約を破った。だから私との関係を取り入戻すための新しい契約を与えよう」とセカンドチャンスをお与え下さったのです。

神は、何度も裏切り続ける妻を忍耐を持って待つ夫のように、なんども契約を与えるようなお方なのです。

旧い契約では、神は石板に律法を書き記しました。しかし、民の心が石のように固くなり、神に逆らい続けたのです。ここでは、それを心の板に書き記すとあります。あなたの心から罪の心を取り除き、そこに律法を書き記してくださると神は言われるのです。

”肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ8:3)”

”肉にある者は、神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストの者ではありません。(ローマ8:8-9)”

私たちは、子ども達に「ありがとう」を言わせることはできても、感謝に満ちた心を育ませるのは難しいものです。しかし、私たちの親である神は、私たちの心を変えることがお出来になるのです。

さて、当時のイスラエルは、北のユダ王国と南のイスラエル王国に分断されていました。
南北で敵対し合っていたのです。とくに南は、北が先に滅ぼされたことで、自分たちこそ神に選ばれた国だと言う優越感に浸っていたのです。しかし、神は、この南にも裁きをくだされ、そして、この破られた旧い契約のあとに、新しい契約をユダ王国にも、イスラエル王国にも新しい契約を用意され、彼らをひとつにしたのです。私たちには、和解が必要なのです。

歴史を見ても、人々が集まるところには分断が生じるには明らかです。
この世界は、分裂と敵対だらけです。しかし、神がおこされる人々は、ゆるしを土台として結びつき合うのです。ゆるしあうことは難しいのです。しかし、私たちにはゆるしが必要です。

『わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる。』

これが、神があなたに与えられる新しい契約です。
あなたは神を信じていますか?その神はあなたによくしてくださるお方ですか?
私たち人間というものは、神のことを喜んで話題にするのですが、神ご自身に対面し、話かけることを恐れ、避けいているものです。しかし、イエス・キリストは、私たちのために新しい契約を成就して下さったのです。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられ・・・(黙示録21:3)」

私たちは、神と個人的な関係を持つことによって、この契約を生きたものとできます。
信仰は私たちを変え、私たちはひとつとされ、そして、神は私たちの神に、わたしたちは神の民へと変えられるのです。Img_0463
****************************************
このメッセージの全体の内容は から聞けます。

聖書のことや、この記事の内容について、個人的にご意見やご質問がありましたらこちらまで

| | コメント (0)

2009年9月27日 (日)

Chabot Space & Science Center

Img_8950土曜日の今日は、Smithsonian magazine のMuseum dayでカリフォルニアでもいくつかの博物館が無料でした。
無料券をダウンロードして、名前や住所を記入して提出しました。

ついこの間も母の日に博物館が無料Exploratoriumに行きましたが(妻のブログ参照)。今回も子どもたちからアンコールの声があったのですが、趣向を少し変えて、Chabot Space & Science Centerに行きました。

ここは、天文台と科学博物館がくっついたような施設です。

以前行ったことのあるリック天文台は山々が連なる場所にありましたが、この天文台からはサンフランシスコベイが一望できます。
Img_8966
以前行ったことのあるリック天文台ほどではないにしろ、そこそこの大きさの望遠鏡がありました。
アポロが月に行った時も、この望遠鏡で観察を続けていたそうです。

Img_8960

私がもっとも気に入った展示はソ連の宇宙船ソユーズの帰還船でした。

Img_8978
Img_8980

これまで宇宙船アポロは、何度も見たことはありますが、
これは、はじめて見ました。内部があまりにもシンプルで原始的で驚きました。
とくにナビなんて、地球儀をはめ込んだようなものです。

3階には太陽系の展示。
Img_8957
太陽系を構成する惑星の位置関係をイメージするような展示もあり。
動画で私の下手な説明をお聞き下さい。

実は、太陽系が
地球型惑星=水星・金星・地球・火星
巨大ガス惑星=木星・土星
巨大氷惑星=天王星・海王星

に分けられていることも、地球が太陽が発するSolar windから磁場のバリアーで守られていることも、知りませんでした。(^-^;

木星や土星には宇宙船が下りられないということも、プラネタリウムで上映された子ども向けのムービーで教えてもらったのでした。

銀河系や他の銀河のことなども学べるコーナーもきれいで充実していました。
動画は銀河系の写真を使った万華鏡。結構きれいでしょ。shine

Img_8992

太陽系とそれを取り巻く宇宙のことを、体験しながら学べるいいところでした。
私も、いろいろ知らなかったことに驚きながら、銀河系ができ、太陽ができ、地球ができるという創世記1章のイベントを辿りながら、神がこの宇宙を創られたときのことに思いを馳せたりできました。
そして、またやがて太陽も地球も無くなってしまうということも、聖書の締めくくりである黙示録に書かれています。

あなたは銀河の塵で出来ているのです。

というメッセージが書かれていましたが、私には、

あなたも神の創造物のひとつなのです。

と思えてきたのでした。宇宙に思いを馳せることでもまた神様に感謝した一日でした。

Today's YouTube:  "God of Wonders"

| | コメント (0)

2009年9月26日 (土)

マルコの福音書(6):キリストによる福音宣教のはじめ

hide-tanと読むマルコの福音書(6):キリストによる福音宣教のはじめ
hide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら。

聖書箇所:マルコの福音書 (1:14-15)

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

”ヨハネが捕らえられて後”とありますが、イエス・キリストのガリラヤ地方における伝道までの間は一年間のブランクがありました。最初の約1年は、イエスは、ヨルダン川下流のユダヤ地方にむかって伝道旅行に出ていて、そこで教えを広めていたのです。

その一年間のできごとは、ヨハネによる福音書にしか記載されてません。

この間、イエスは弟子達を連れてユダヤ地方で神のことばを教え、弟子達はバプテスマ(洗礼)を授けていました。イエスの弟子となったヨハネ(ヨハネの福音書の記者)はもともとは洗礼者ヨハネの弟子であり、一時期、イエスと洗礼者ヨハネが同じ場所で教えを説いていたことから、もしかしたら弟子ヨハネだけが詳しく記述したのではないかと思います。

ヨハネの福音書以外で、この一年間のできごとが語られていないのは、ただ単に情報が不足していたというだけではなく、洗礼者ヨハネの役目が終わったところを意識して、そのあとの出来事を新しい神との契約のはじまりとして記載しようという意図があったのかもしれません。

”ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。”

さて、洗礼者ヨハネが、ヘロデ王に捕らえられ、ユダヤ地方で身の危険が迫ったイエスは、再び北上し、ガリラヤ地方に戻って福音宣教を開始しました。

イエス・キリストの生涯と聞けば、彼の行った数々の奇跡の物語に目が奪われがちです。
しかし、イエスが公生涯のうちに果たそうとした第一の使命は、人々を罪の悔い改めに導き、神の福音を信じさせることにありました。(マルコ1:38)イエスが奇跡を行ったのは、彼が神から来たものであることを人々に信じさせるためでもありました。

ところで、物語を書くにあたって、その登場人物が発する最初の言葉というのは、とても重要だと思います。この物語でも、いくつかの出来事が記載されていますが、マルコはここまでイエスを物語の中で沈黙させてきました。そして、いよいよ主人公であるイエスの注目すべき最初のセリフをこのように記載しています。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

これこそが、記者マルコが読者に伝えたいメッセージなのだと思います。


”時が満ち”というのは、この時があらかじめ決められていたときであることを示しています。キリストのおとずれは、私たちのために世の定まる前からすでに決められていたことなのです。そして、事実、預言者ダニエルによって正確に預言されたとおりにキリストは現れたのでした。(ダニエル書9:25-26)
そして、私にも時が満ちて、キリストに出会う瞬間がありました。これを読んで下さっているあなたも、今、この瞬間が”時が満ちた”そのときです。そして次のことばを一緒に考えてみましょう。


”神の国は近くなった”

これは、どういうことでしょうか?

それは、まず第一は、キリストが来たことによって、神の国に入るための道筋が用意されたという意味ではないかと思います。船で来ることしかできなかった100年前と比べて、飛行機で来ることができる今はアメリカと日本は近くなったということと似ているかもしれません。
今まで泳いでしか行けなかった神の国が、ユダヤ人に律法と預言が与えられることで船で渡れるようになり、ついには十字架の橋によって”近くなった”ということなのだと思います。

もうひとつは、神の国がキリストが人間世界に来て下さったことによって、神の国が実際のものとして認識できるようになったことも”近くなった”と表現できると言えます。

そして最後に、神の国は、最終的に世の終わりに打ち建てられるとともに、今の時代に生きているわたしたちクリスチャンの内にすでにキリストが造り上げているのではないかと思うのです。私が参加するバイブルスタディでも、キリストを信じている参加者全員が、『神の国はどこにある?』という質問に対して、

「来る世に来る神の国もそうだけど、その神の国は、キリストを信じて神の御霊が住んでくださっている自分の中にもあると思う」

と答えています。実は、わたしにもそのような確信があります。

”悔い改めて福音を信じなさい”

「悔い改める」とは、自分のして来たことを後悔して、涙ながらに「もうしません!」と決意する・・・みたいに思ってしまいますが、実は言語では「メタノイア」と記され、それは「考えを変える」という意味です。だから、そのような感情の変化を伴う必要はないのです。

ここで、イエスが言われている直接の聴衆の多くはユダヤ人なので、

「私たちはユダヤ人だから、神に選ばれているのだ。神は私たちがアブラハム、イサク、ヤコブの子孫だからこそ祝福をもたらされるのだ。」という考えを捨てて、神の前にへりくだって自分は罪のあるものであることを認め、神が用意してくださる新しい契約を受け取りなさい

というメッセージを伝えようとされたのです。

しかし、マルコはこの福音書をローマ市民に宛てて書いています。
ユダヤ人ではなく、キリストを見たことがない人たちにです。私たちと同じような読者です。
その読者にあてて、あえてキリストに語らせた最初の重要な言葉がこの言葉だったのですから、私たちもこの言葉を自分たちに向けられたととらえるべきです。神がマルコを通して、これを私たちひとりひとりに向けて語られようとした言葉として受け取ることを意図されていることは明らかです。

”悔い改めて福音を信じなさい”

私たちには次の3つの点についての考えを変えることを求められています。

① 自分は正しい→自分には罪があって神の義には到達していない ② イエスは普通の人間だ→イエスは神の子、キリストだ ③ イエスの十字架と復活は自分とは関係がない→それら私の罪の代償として支払われたものだ

もしかしたら、①は同意するけれども②や③は、信じられないとお思いになるかもしれません。
そのような方の考えはもっともだと思います。でも、ここまで拙い文章を読んで下さったことに感謝しつつ、ここまで読ませてくださったのは神様が働いてくださっているからだと思います。
や知り合いのクリスチャン、キリスト教会とコンタクトをとって、少しずつでも聖書について学んでいただければ、神様ご自身が理解と確信を与えて下さると信じています。

もしかしたら、②や③も信じたいけれども、自分のようなものが神を信じて生きていくなんて、自信がないと思われるかもしれません。そのような方こそ、神に喜ばれていると思います。
「自分こそが、神の子としてふさわしい!そうか、クリスチャンとして立派な人生を過ごそう!」
と自信満々でいては、神に従うことはできません。
でも、もしこれを読んで下さっているあなたが、自分なんて・・・と思いながらも、こんな自分でも受け入れて下さる神がおられるなら信じてみたいとお思いになられたら次のように祈ってみて下さい。
そして、やはり、や知り合いのクリスチャン、キリスト教会とコンタクトをとってその思いを伝えていただければ幸いです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

神様。今日、私はキリストの「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉を聞きました。わたしは、自分に罪があること、神の御子キリストが私の罪の身代わりとなって死んでよみがえられたことを信じます。どうか私の心にもあなたの神の国をもたらしてください。
アーメン。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(つづく)


| | コメント (0)

2009年9月24日 (木)

何がアレルゲン?

実験中に大きなクシャミを連発するポスドクjury。

cat「わたし。きっとこの研究室にアレルギーがあるんやわ。もう来んとこ。」
dog”なに言うてんねん。Youtube見てる時はクシャミしとらんやんか。”
cat「そしたら、実験アレルギーね。」

かといって、彼女は研究を生業としてやってきて、それ以外には興味がないようす。
実験をするのは避けられません。
この場合、減感作療法しかないです。smile

| | コメント (0)

2009年9月21日 (月)

The Power of the Cross

(動画は音楽はきれいですが、映像はちょっとショッキングですのでご注意ください。)

今日は、クワイアー(聖歌隊)でこの歌"The Power of the Cross"を礼拝で歌いました。
この動画は美しいソロですが、4部合唱で歌うとさらに荘厳な感じで、歌いながら感動していました。

クワイアーの奉仕で壇上に上がると、広い会堂内に座ったり立ったりして神様を讃美している面々と向き合います。なんとなく礼拝に出席している人々を神様の目線から見えるような気がするのです。(神様が壇上にいるというわけではないのですがcoldsweats01)そして、自分の内におられる聖霊が、その面々を見て、とても喜んでいるのを感じ、同時にとても愛おしく思っているのを感じます。そのようなときに、みんなの顔が輝いて見えるので、自分も幸せな気持ちになります。

さて、いつもクワイアーの奉仕がある日は、朝7時半に集合してウォームアップ&最終確認をし、そして司会者、説教者、讃美リーダー、奏楽者、そしてクワイアーでお祈りをして8時半からの1回目の礼拝に備えます。

みんなでお祈りするときには、神様に導かれていると思った人が思い思いの祈りをして、最後にその祈りを仕切っている人が閉めて、みんなでひとつの祈りをするようにします。

そこで祈りはじめたときに、ふと、自分の心の中にたった一行の祈りが湧いてきました。

でも、英語で、40人も集まっているところで祈りを声に出すのはちょっと勇気がいります。
しかも、今日はなかなかお祈りを閉めようとせず、最後にはしばらく沈黙が流れました。

"Lord, thank you for...the power of the cross enabled us to kneel down before the holy and mighty God.."
(主よ。十字架の力によって、私たちが聖く偉大な神の前にひざまづくことができることを感謝します。)

思い切って、そのように祈りました。
すると、何人かの人からため息とアーメン(そのとおりです)という反応があり、祈りが閉じられました。

この十字架があったからこそ、私のような罪深い人間が、これほどまでも聖なる偉大なる神のまえに恐れずに出ることができるのだと確認。

そして、礼拝の終わりの曲として讃美リーダーが選んでいた曲は、
" Holy, Holy, Holy! Lord God Almighty"でした。

なんだか、自分が祈らされたお祈りと呼応しているようで、ひとりの御霊がいろいろな人を通して働き、この礼拝を導いているのだなあと驚かされました。


| | コメント (0)

2009年9月20日 (日)

マルコの福音書(5):私たちの弱さ、悩みに寄り添う主

hide-tanと読む「マルコの福音書」(5)

hide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら。

聖書箇所:マルコの福音書1章11-12節

そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

普通、こういう話の展開になると、ああ、きっとイエスは、これからの伝道旅行に備えて悟りを開くために修行に出られたのだなあと思われるかもしれません。実は、イエスは確かに聖書は読んでいたであろうけれども、父なる神と御霊を通して一体であったイエスにとっては、「悟りをひらく」という行為は不要だったのです。

またイエスが他の聖者と違う点のひとつは、どのように神に語りかけられて、それに応えたとかいう召命の出来事が記載されていません。それは、ひとつはこのお方が、神であられたからです。

そんなことを考えに入れながら、この箇所をもう一回読んでみましょう。

そして、すぐ御霊は、イエスを荒野に追いやられた。

とあります。バプテスマを受けて、神から来られた方であることを人々に示し、そして罪人の立場に身を置くということを表明した後、すぐに起きたできごとです。罪人の立場にたって、わたしやあなたの罪を背負うためには、その身代わりとなる人自身が潔白でなくてはなりません。

そこで、もし、山に隠ったりして何の誘惑になるようなインプットが無い場所で過ごして「潔白だ」といっても説得力がありません。それは、神にとっても、私たちにとってもそうですが、サタンにとってはなおさらです。ところで、サタンは、神に従う心のある人に手を下すときには、常に神に許可を求めます(ヨブ記1章6-12節、ルカ22:31)。だから、このときも、サタンは神に御子イエスを惑わすチャンスを与えるように強く求めたものと思われます。そして、神は正しい方ですから、ご自分の義を御子イエスの中に現すために、その訴えを受け入れたものと思われます。

その証拠として、イエスを荒野へと追いやったのは、他ならぬ神ご自身の霊(聖霊)である、と記述されているのです。

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

他の福音書には、40日間の断食のあとでサタンが試みにやってきたと書かれていますが、マルコのみはサタンが40日間ずっと試みを行っていたような書き方をしています。(おそらく、他の福音記事の著者たちは、最後の3つの試みについてのみ象徴的に書かれたのではないかと思います。)
サタンにとっては、イエスと一対一で向き合って、惑わすことができる滅多に無いチャンスです。
まさにサタンは全身全霊をこめて、ありとあらゆる知恵と不思議な業を使って、イエスを試みにあわせたに違いありません。

イエスは、40日間、断食をして、人の助けを得られない場所で、人が人生のあいだに受けるであろうサタンからの誘惑を数多く受けたのです。それは、敬虔なクリスチャンと言われるような人であっても、耐えきれないようなものであったと思います。

神の御前では、けっして出来ないようなことをさせるために、少しでも神から目をそらさせるために、人々はクリスチャンであってもなくても、たえずサタンは私たちの周りをうろついています(1ペテロ5:8)。サタンは美しい衣を着て、いかにも信用してもよいような身なりで私たちに近づき、美しいもの(お金、名声、権力、異性、社会奉仕といった立派な活動までも)をみせて惑わせます。そして罪を冒させます。
「美しいもの」はそれ自体が悪というわけではないのですが、それを間違った目的に使うことが罪なのです。サタンは、このように言うのです。

「あなたは本当にこの美しいものを手に取ってはいけないと神に言われたのですか?
こんなに美しいのに? 神はあなたが幸せになって繁栄することを願っておいでではないですか?」

しかも、人は(私も含めて)簡単にその手に陥りやすいのです。

こんなことを書くと、窮屈に思われる方もいるかもしれないですが、サタンの手に陥らずに神を信じて歩む生き方こそ、自由な生き方であると思います。私もそのような自由を手に入れたいと思いながら日々を過ごしています。

サタンは、クリスチャンでない人には極力クリスチャンに会わせないようにさせよう、聖書に目を触れさせないようにさせよう、教会の敷居を高くしてやろうとあの手この手で対策を練ってきます。あるときは、神に従っていない不道徳なクリスチャンや極端な考えのクリスチャンを反キリストの宣伝材料に用います。素晴らしいクリスチャンに出会ったときにも、「その愛にあふれた行為こそが素晴らしい」「(どんな神であっても)神を信じるというその心の持ち方自体が素敵だ」と思わせ、そのクリスチャンを突き動かせている神ご自身から目をそらさせようとするのです。

すべては、人が神に立ち返って永遠を神とともに過ごすという特権を得させないようにするため、神に目を向けて、その素晴らしさを味わい、永遠の神の愛の中で心を満たされて生きるというクリスチャンを減らすためなのです。

キリストが荒野で受けた試みの多くは、このようなサタンの甘いささやき、一見すばらしいと思えるけれども神のみこころには適っていない行動をとらせるようなものであったのではないかと思います。

「私に従いさえすれば、あなたがローマの圧政から人々を救い出すようにしむけてあげましょう。
 人々の心をコントロールし、あなたは民から絶対的な支持を得る王として君臨することでしょう。
それが、神からあなたに託された使命ではないのですか。
このような目にあっているユダヤ人を救い出すことが。」

こんな話も持ちかけたのではないでしょうか?

キリストは、人として生まれたので、罪を選び取ることのできる自由意志というものも持ち合わせていました。そのうえで罪を冒さず、神を愛し続けるという歩みが求められたのです。だから身代わりは天使とかではなく、人でなければならなかったのです。それは私たちには出来なかったことですが、キリストはわたしたちのためにしてくださったのです。

それは、キリストがサタンと行動をともにして栄光を勝ち取るというものではなく、神の道を十字架を背負って歩むことを示し、上のような「おいしい話」にもきっぱりと”NO"を突きつけたのです。
それは、悪の側にではなく、神の側に立つという第2番目の立場表明であったわけです。(第1番目については過去の記事参照)

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。(2コリント5:14)

そして、それは”御使いたちがイエスに仕えていた”とあるように、父なる神とのアクセスがある状態で耐え忍ばれたのでした。試みの中、イエスでさえも、御父の助けを必要としたのです。

それでは、イエスがこのような試練を耐え忍ばれたことにはどのような意味があるのでしょう。
それは、キリストが私たちの弱さを知り、同情されるお方であることを示しているというのです。

聖書の示す神はただ単に聖なる義なる神であるだけでなく、とてつもない愛をもたれていいるお方です。それは、どんな罪人にたいしても、減らすこと無く注がれる完全な愛です。

神は、私たちがどれほど弱いものか、どんな悩みを持っているのかを知って下さるだけではなく、自分が冒してしまった罪の結果、苦しんでいることがらについてもともに悩み、ともに苦しんで下さるお方なのです。

たとえば、ある人が飲酒運転をして交通事故を起こし、帰宅途中のサラリーマンをひき殺してしまったという悲惨な事件が起きたとします。キリストはもちろん、被害者家族の悲しみを共有してくださるお方です。一方で、

「お酒を飲むのをあれだけやめようと思っていたのに。仕事で嫌なことがあったことを忘れたいと思って同僚と飲んだやけ酒がこのような結果をもたらしてしまった。会社には戻れないだろう。子ども達を守るために妻にも離婚されるかもしれない。被害者家族の憎しみから逃れられないだろう。そして、なにより自分自身を受け止めることはできないだろう。」

と失意のどん底にある加害者のことも理解し、ともに悩んで下さるお方なのです。

「こんな自分は生きていてもいいのか?生きていけるのか?」

と涙する加害者に、

”生きていていいんだよ。私が十字架にかかったのは、そのようなあなたでも生きていくことができるためなんだよ。自分では一生かかっても背負いきれない十字架を私がかわりに担いでいるんだよ。私とともに歩めばいいんだよ・・・。”

と言って涙を拭って立ち上がらせてくださるお方なのです。「自業自得」とか「バチがあたった」とか言う言葉はキリストから発せられることはないのです。

次回、お話する聖書の箇所でイエスが語られる言葉は、このような神の愛が裏打ちされているのです。

私たちの大祭司(=キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

(ヘブル4:15-16)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

神様。あなたは私の弱さを理解して下さるお方であることを感謝します。
わたしは、あなたに従わず、自分の目に良いと思われることをしてきました。
しかし、イエス・キリストがしてくださった十字架のわざにより、私の罪はゆるされ、あなたのもとに近づことをゆるされ、我が子と呼んで下さることを感謝します。
どうかこれから先、あなたの喜ばれるような人生を歩んで行けるように手助けください。アーメン

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(つづく)

| | コメント (0)

2009年9月19日 (土)

きちゃないけど旨いバーガー屋さん

Img_8821
今日は、夕方ちょっと仕事をぬけて(夕方には仕事が終わらない実験をしているので)家族で外食に出ました。手早く安くて気軽にということになるとアメリカだとバーガー屋さんですが、たとえ美味しくても毎回In'n Outバーガーにばかり行ってられません。

そこで、友達に教えてもらった隣町Menlo ParkのDutch Gooseに行きました。店内は、落書きだらけで、ピーナッツの皮が散乱していました。
Img_8823
大画面のテレビや、ビリヤードもあって、若者やおっさんたちが集まるバーみたいな感じです。
(でも、メニューにはキッズメニューもあります。)

バーガーは、いろいろトッピングもできて、パテの方もなかなか美味しかったです。
妻と子ども達にはシーザーサラダが以外にも人気でした。Img_8826

| | コメント (2)

ポスドクごくろうさんデイ?

去年、ブログで密かに提案していたPostdoc Dayですが、今年からNational Postdoctoral Associationが中心となって、9月24日をNational Postdoc Appreciation Dayと制定したそうです。(図はポスドクデイのイベントがある場所。National Postdoc Appreciation Dayサイトから。)
Ussept192
スタンフォードでもBBQが振る舞われるそうです。(チラシのダウンロードはこちら。)
我がラボの貧乏ポスドクの3人も、ちょっとした催しに喜んでいます。

さて、このPostdoc Dayの趣旨は、次のようなもの。

”合衆国の科学事業に対して多くの貢献していることをお祝いし、そのうえで、ポスドクのこのような貢献を社会に広める”

高学歴ワーキングプアなポスドクたちらしい・・・控えめなものです。

去年のブログに書いたような、ポスドクがPostdoc dayにしてもよいことなどは明記していませんでした。私もそんなことを言う勇気はありませんので、とりあえず今度の金曜日にはお肉を少しだけいただいて満足したいと思います。

科学者としてのキャリア途上にあるポスドクは、科学者としての競争を勝ち抜いていけるかどうか(次のポジションを得られるかどうか)という関心とは別に、科学を通してこの世界をよりよいものにしたいという使命感を持って、頑張っている人たちでもあります。最先端の研究成果も、大学院生やポスドクが日々行っている目立たないラボワークから生み出された結果なのです。

だから日本で、アメリカで、世界の国々で頑張っておられるポスドクのみなさま。
年に一回くらいは、こんなふうに言ってもらいたいですよね。

ごうろうさま!

| | コメント (0)

2009年9月12日 (土)

マルコの福音書(4):その立場表明が意味するもの。

マルコの福音書(4):その立場表明が意味するもの。

hide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら。

聖書箇所(マルコの福音書1章9-11節) そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

罪の悔い改めのしるしとして、人々が受けていたバプテスマ。
先に書いたように、ヨハネは、自分の罪を悔い改めず、形式だけのためにバプテスマを受けようとする人々を非難しましたが、他にも別の理由でバプテスマを授けることを拒否しようとした人物がいました。

それは、イエス・キリストです。

しかし、ヨハネはそうさせまいとして、言った。 「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」(マタイ3:14)

洗礼者ヨハネは、イエスが罪の悔い改めなど必要の無い、罪のないお方であることを知っていました。
彼は、「私には、かがんでそのお方の靴のひもを解く値打ちもありません」(マルコ1:7)とイエスがいと高きお方であると告白し、自分にはとてもそのようなことはできないと言ったのです。

そこでイエスはこのように答えたのです。

ところが、イエスは答えて言われた。 「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:15)

人間として生まれ、人間として育てられた人で罪がまったくない、悪いことなどしたことはないし、考えたことも無いと言えるような人はいないでしょう。幼子は教えられなくても、ウソをつくようになるし、他人の物を取りたがるようになるのです。人は罪を冒すから罪人なのではなく、罪人として生まれるから罪を冒すのだと思います。

キリストは、神としてのご性質を持ちながらも、同時に完全な人間でもあったので、罪がないのにも関わらず、罪人としての立場を取られたのです。それは、キリストご自身にとっては必要のないバプテスマでしたが、そうのようにすることによって、「私も彼らのうちの一人です」と神のまえに立場を表明したのです。それは、同時に、自らの身を神のさばきの下に置くことと同じでした。

それをわかりやすく(なるかどうかはわかりませんが)言えばこういうことです。

たとえば、不祥事を起こした会社の責任を、適正に仕事をしている会社の社長が代わりに謝罪して辞任することで責任をまっとうすることはできません。その不祥事を起こした会社の社長が謝罪し責任を問われることになります。

キリストが取った行為は、まじめに仕事をしてきたのにわざわざ、不正を行っている会社の責任者になったというようなことなのです。キリストは、公生涯のはじめにわたしたちの罪の責めを担う十字架をすでに背負いはじめていたのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。 人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6-8)
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」 (1ペテロ3:18)

そして、はじめの聖書箇所に戻ってみると、聖霊が下られて、天から声がしたとあります。
この場面は、三位一体の神が、その”みつにいましてひとつなる”さまを人々に現した驚くべき場面です。

それは、同時に罪のない神の御子イエスが人々の罪を背負わせて十字架の道を歩むということが、イエスの単独行為ではなく、父なる神のご計画であり、御霊なる神(=聖霊)の導きのもとに行われるということを確かに示すためでした。

イエスは、ヨハネに制止されたときに「今はそうさせてもらいたい。」と言われました。

”今は”と言われるからには、別のときには違うことをされることを意味しているはずです。

実は、この会話の直前に、洗礼者ヨハネ自身が”キリストは本来どのようなことをされるお方なのか”ということを預言しています。

「・・・その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 手に箕を持ってお られ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 (マタイ3:11~12)

本来、キリストは裁きを受ける側ではなくて、裁きを行う側であるというのです。罪のあるものを永遠に燃え盛る火の中に投げ込み、罪のないものをご自分の民とされるお方であると言われています。

実は、これはイエス・キリストが再臨されるときに行われることを示しています。聖書には、最後の審判のときには死んでいるものはみなよみがえり、キリストを信じ、罪を十字架によって滅ぼしていただいたと告白していた人だけが神の前に義と認められ、それ以外の人、すなわち、神のこれほどまでの犠牲を聞いていながら受け入れなかった人は、その罪とともに永遠に火で焼かれ続けると述べています。

しかし、神は人を愛しているので、ご自分の身を犠牲にして、そのような苦しみに会わないようにするために御子イエスをこのような苦しみのもとに置いたのです。
人間にはとても到達できない神のきよさの高みに達するために、私たちは自分の力でジャンプしてもできません。善行という小さなレンガを積んでも天には届きません。私たちは、信仰告白というチケットをもって、十字架の飛行機に乗り込まねばならないのです。
それ以外には方法はないのです。もしあるのならば、神の御子をそのような目に遭わせることなど必要なかったのですが、わたしたちが何気なし行っている罪(友達の悪口を言うとかウソをつくとか、神を無視して生きることなど)とはそのように恐ろしいものなのです。

このイエスのバプテスマ(洗礼)の出来事は、わたしやあなたにとって、とても意味のあることなのです。それは、キリストが私やあなたのために十字架を選び取って下さった瞬間だったのです。そして、キリストは遠く離れている方なのではなく、常に私やあなたの傍らにいて下さる方なのです。終わりの日に至るまで、私たちの悩み、苦しみを理解し、共有し、ともに歩んでくださるお方なのです。

キリストがヨルダン川で身を沈めたその時こそ、天地を造られた神ご自身が、キリストを通して私たちの側に立ってくださった時だったのです。そして、今は、わたしたちがそのキリストを自分の救い主として受け入れるときなのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
神様。わたしはこれまで、罪をおかして、あなたに喜ばれない心をもって歩んできました。
しかし、御子キリストが私の罪を背負って十字架について下さり、よみがえって私に永遠のいのちを与えて下さったということを知りました。そのことを感謝します。
どうか、これからの人生を私とともに歩んでください。
イエス・キリストのお名前でお祈りします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

このようなお祈りをぜひしてみて下さい。
きっと、あなたがこの世に生まれた瞬間から、神があなたとともに歩んでくださっていたこと、いつもそばにいて下さっていたということがわかる日が必ずやってきます。

(つづく)

ブログアクセス8万突破記念!ここまで読んでくださった読者の皆様へのプレゼントです。present いままで聖書を読んだことのない人で、新約聖書を読んでみたいという方、先着20名様(アメリカ在住の方を優先させていただきますが、日本からの応募も歓迎します。)に新約聖書(日本語またはバイリンガル)をプレゼントします!(日本からの空輸中に少々折れ曲がっていますが、ご容赦ください)「新約聖書プレゼント希望」という件名にて、(できればブログへのご意見、ご感想ともに)こちらまでメールをください。お待ちしております!

| | コメント (0)

2009年9月11日 (金)

マルコの福音書(3):洗礼者ヨハネについて

マルコの福音書(3):洗礼者ヨハネについて

hide-tanと読む「マルコの福音書」イントロ
hide-tanと読む「マルコの福音書」(1)
hide-tanと読む「マルコの福音書」(2)

洗礼者ヨハネについて (マルコの福音書1章2節-8節)
洗礼者ヨハネは、4つある福音書のどれもに登場する重要人物です。
そして彼は、イエス・キリストの公生涯のはじまりに大きく関わった人物なのです。
この洗礼者ヨハネとはいったいどのような人物だったのでしょうか?

聖書箇所: 預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼は宣べ伝えて言った。

「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
(マルコ1:2-8)

洗礼者ヨハネは、イエスキリストの公生涯のまえに遣わされた預言者です。

(1) それは400年ぶりに現れた預言者でした。
そのまえは、神に逆らい続けていたユダヤ人の指導者達は神からメッセージをいただいた預言者を次々と殺していたのでした。神はついに400年間も沈黙を守りますが、いよいよ時が熟して遣わされた預言者、それが洗礼者ヨハネだったのです。

(2) イエスのいとこでした(ルカ1章36節)

(3) イザヤ40:3 マラキ3:1で預言されていた『エリヤ』でした。(マラキ4:6)
旧約聖書に出てくる代表的な預言者がエリヤです。彼は、死を経験すること無く火の車で天にあげられたと書かれています(第2列王記2:11)。神は王となられるキリストが来られるまえにエリヤを遣わすと言っておられたのですが、そのエリヤが洗礼者ヨハネだというのです。
本人にはその自覚はなく否定しているのですが、そのエリヤの再来である、とキリストは言っています(マタイ17:12-13)。ちなみに、面白いことに洗礼者ヨハネの格好は、旧約聖書に書かれているエリヤそっくりなのです。

「毛衣を着て、腰に革帯をしめた人でした」(第2列王記1:8)

(4) ヨハネも自分自身を荒野で叫んでいる者の声であると言った(ヨハネ1:23)

(5) キリストは洗礼者ヨハネを預言者よりすぐれた者と言った(ルカ7:26-28)

(6) 洗礼者ヨハネが遣わされた目的
① 罪の悔い改めにより、王の王をお迎えする心を整えるため(1章4節)
当時、王が通られる道は、きれいに整えることが常でした。今でも、外国からどこかの国王が来ればそうしますよね。ヨハネは,人々の心に王の王であるキリストをお迎えすることができるように、自分自身、神のまえに罪がある存在であることを知り、神の御前に悔い改め(自分の罪を認めて、罪から離れる決心をする)のしるしとしてのバプテスマ(洗礼)を授けていました。
バプテスマは、それまではユダヤ人でないひとが、ユダヤ教の神を信じる為に受ける儀式だったのですが、ユダヤ人に対して行った点で新しいものでした。また、聖職者たちがしていた浄めの儀式とも意味合いが異なっています。
預言から、キリストが来られる日が近いことを人々が感じていたと思われ,一部の人はヨハネこそ、その人だと思っていましたので、多くの人々がヨハネの教えを支持していたのです。ユダヤ人の宗教指導者たちも、心ではヨハネの言うことを聞き入れていないのに人々からよく思われたいという思いでヨハネのもとにやってきました。それをヨハネは諌めています(マタイの福音書3:7-8)。
ヨハネは民衆の心を神にむけさせ、「来るべきお方」に備えさせたる役目をしたのです。

② イエスが神の御子であり、来るべき救い主であることを指し示すため(ヨハネ1:29-31)
神の霊に満たされた力強い預言者である洗礼者ヨハネのもうひとつの目的は、ナザレ地方からやってくるイエスこそが、「来るべきお方」であると示すことでした。王がやってくるのに、それを告げ知らせる旗をもって先行する家来のような役目だったのです。イエスがキリストであることは、様々な旧約聖書の預言の成就から明らかなのですが、当時の人々には、それを指し示す指が必要だったのです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ヨハネのメッセージは今も、私たちの時代にも響いています。

この方こそ、あなたが待ち望むべきお方。この方こそ、あなたを罪によって遮断された、あなたの造り主である神との関係を回復してくださるお方。この方を受け入れるために、心の中にある様々な欲深い心、自己顕示欲、自分こそ正しいものである、自分こそ良い人間だという高ぶった心を取り除き、王の王であるキリストを心にお迎えするように心を平らにしなさい、とそのように今も響き渡っているのです。

荒野で叫ぶ声。それは、もしかしたらあなたも気付いていない、あなたの心の中にある荒野でもきっと響き渡っているはずなのです。

(つづく)

ブログアクセス8万突破記念!ここまで読んでくださった読者の皆様へのプレゼントです。present いままで聖書を読んだことのない人で、新約聖書を読んでみたいという方、先着20名様(アメリカ在住の方を優先させていただきますが、日本からの応募も歓迎します。)に新約聖書(日本語またはバイリンガル)をプレゼントします!(日本からの空輸中に少々折れ曲がっていますが、ご容赦ください)「新約聖書プレゼント希望」という件名にて、こちらまでメールをください。なお、応募が20名をこえたら、終了させていただきます。


| | コメント (2)

2009年9月 9日 (水)

ESL聖書クラスのお知らせ

せっかくアメリカに来たのだから、現地の教会で聖書を学びたいけど、聖書も英会話も初心者だから・・・というスタンフォード近辺にお住まいのママさんにお知らせです。
Img_8852
パロアルト市内にあるキリスト教会(プロテスタント)、Peninsula Bible ChurchのWomen's Connectionでは、このたび無料でESL(English as a Second Language)のレッスンを受けながら聖書を学べる(または聖書を学びながら、ESLのレッスンを受けることができると言うべきかも?)クラスをスタートさせます。講師は、ESL教師の資格をもつプロのかたで、クリスチャンであると同時に(日本人も含めて)外国人に英語を教えた経験が豊富な女性です。聖書の中から生活に使える表現を抜き出してレッスンをしたり、聖書の内容をわかりやすく解説してくれます。

日常生活の英語は大丈夫という方には、普通にアメリカ人のグループに入って聖書の学びに加わることもできます。

費用:無料!お子様のクラスもあります。無料でプレスクールに入れているようなものです。
日時:木曜日の午前9時30分から10時30分まで(ESL)/10時30分から11時45分(スモールグループディスカッション:自由参加)
場所:Peninsula Bible Church
3505 Middlefield Rd, Palo Alto, CA 94306
View Larger Map

私の妻nori-tanはじめ数人の日本人の方が参加され、日本語が堪能なアメリカ人の方もヘルプに入ってもらえます。参加または見学をご希望の方は、ウェブサイトの日米バイリンガルグループ担当のスタッフまたは私hide-tanまでメールをお願いします。

また見学に来てくれた方、参加される方で希望者には日本語の新約聖書をプレゼントします。
パロアルト近辺の方でご興味のある方はお気軽にご連絡下さい。

| | コメント (0)

2009年9月 8日 (火)

Castle Rock State Park:モテモテ!岩男くん。

今日はLabor Day。この日の意義を守る為に多くの商店は休日にも関わらずお休みです。(ただし、そのような文化背景のない日系スーパーは開いています。ありがたいです。)

なので、こんな日は自然の中を散策するのが一番。

ということで、今日はかねてから行きたかったCastle Rock State Parkに出かけました。スタンフォードからはこんな感じですぐに行けます。(地図参照)

View Larger Map
いろんな形の巨大な岩が点在する面白い地形のState Park(州立公園)で、子ども達が登って楽しめる程度の岩もあり、大人がロープを使って本格的に練習できるようなCastle Rockまで様々で、楽しめます。

Img_8762
Img_8756
これがキャッスルロック。めちゃめちゃ巨大で、本当にお城のようです。
でも、人の顔みたいに見えませんか?左正面から見上げたところ。鼻の穴が見えます。
キャッスルロックにちなんで、城岩男(じょう いわお)くんと名付けちゃいましょう。
「左耳」によじ上って潜り込んでいる人もいますね。ここは人気ポイントでした。
Img_8771
そして横顔。木漏れ日のシャワーをあびてまぶしそうな岩男くん。
Img_0447
こんな洞窟みたいな場所もあります。ひんやりとした岩肌が心地よく昼寝をしたくなります。(岩男くんの左後頭部)
Img_8773
この人たちは、それなりの装備でロッククライミングの練習中。(岩男くんの右側頭部)
Img_8780
小学生の男の子も頑張って、岩男くんの「右頬」を登っていました。
Img_8787
岩男くん、あちこちからモテモテです!

そのあと、滝のあるビューポイントに行きましたが、夏なので岩肌に水が少し流れている程度でした。
自然のアスレチックって感じで、子ども達も喜んで、滝までのトレイルもちょうどいい運動になりました。今度はもうすこし早めに出て、Goat Rockにまで到達したいです。

Img_8788

| | コメント (2)

2009年9月 7日 (月)

再び日曜日。今度は海辺でゆったり。

今日は日曜礼拝のあとで、家族でハーフムーンベイ(Half Moon Bay,CA)に出かけました。
ここはカリフォルニアの海を見たくなったときに、パロアルトから気軽に出かけられるお気に入りの場所です。

今日は、教会に行く時からその計画だったので、凧をもって出かけました。今日はちょっと風が強すぎてコントロールに苦労しました。9133_1038443097390_1714909714_77976

子ども達は延々と、水際で飛び跳ねたり、波と追いかけっこしたり。
私は妻と一緒に、座って海を眺めたり、おやつをかじりながら三浦綾子さんの本を読んだりしていました。

9133_1038443177392_1714909714_77978

今日は、夕方6時半にMoss Beachが干潮になるということで、Fitzgerald Marine Reserveに移動して磯遊びをしに行きました。イソギンチャクを触ったり、魚や蟹をみつけたり、最後には、長女minori念願のヒトデちゃんにも出会いました。私には、周りの環境に合わせて体表の色が変わる魚が面白かったです。9133_1038443297395_1714909714_77981
9133_1038443337396_1714909714_77982

太平洋に沈む夕日が美しいです。この太陽は日本に住むみなさんを起こしに行っているんですね。
(母を尋ねて三千里のエンディングの曲みたいですねsmile
今週もゆったりした日曜日の午後でした。
9133_1038443417398_1714909714_77984

付記:以下は、本日ビーチで読んでいた本。

光あるうちに―道ありき第3部 信仰入門編 (新潮文庫)

買ったきっかけ:
高校生のときに塩狩峠を読んで作者三浦綾子さんの信仰の背景に興味をもったのがきっかけでした。

感想:
今回久しぶりに読み返しましたが、20年近くたった今も新鮮で説得力にあふれたキリスト教入門です。

おすすめポイント:
クリスチャンってどんな風に聖書や神様、そして世の中のことを考えているんだろうと言うことを知りたい方におすすめです。

光あるうちに―道ありき第3部 信仰入門編 (新潮文庫)

著者:三浦 綾子

光あるうちに―道ありき第3部 信仰入門編 (新潮文庫)

| | コメント (0)

2009年9月 6日 (日)

マルコの福音書(2):福音書の比較

hide-tanと読む「マルコの福音書」(2):福音書の比較

hide-tanと読む「マルコの福音書」イントロ
hide-tanと読む「マルコの福音書」(1)

久々にシリーズを再開です。忘れていた訳ではありませんが、旅日記に労力を取られてしまっていました。coldsweats01

さて、はじめて聖書を読んでみようという方にはマルコの福音書から始めることをおすすめしていますが、他の福音書(イエス・キリストの生涯を描いた物語)、つまり、マタイの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書のもつそれぞれの特徴について、まとめてみました。

なお、この記事は、私たちが教会でやっているBIble Study 101 in Japanese (日本語での聖書の学び会)で私が解説したものをもとにしています。

福音書とは? 
福音とは、英語ではgospel=good news(よい知らせ)の意味。キリストの生涯を著した書物を福音といいます。キリストによって人と神との間に平和がもたらされ、私たちは神の家族に加えられ、永遠のいのちをいただくことができるようになったということの知らせ。

四福音書について

マタイの福音書

1. 「メシアなるイエス」がテーマ。イエスが旧約聖書で預言されたメシアであることを証明すべく、イエスが行ったことと旧約聖書の預言を対比させている。

2. 作者マタイは元取税人でイエスの十二弟子の一人。職業柄、記録を取ることに長けていた。

3. ユダヤ人にむけて書かれたもので旧約聖書の預言が豊富(なので、旧約聖書を読んでいないと少し読みづらいが、旧約聖書を読んだあとに読むと目からウロコ!)

マルコの福音書

1. 「不思議なるイエス」がテーマ。イエスが行った奇跡に重点が置かれ、そのことを通して神の子なるキリストを伝えようとしている。

2. 作者ヨハネ・マルコはマリヤという金持ちの息子(使徒12:12)。バルナバといとこ。

3. 最も短い!はじめに書かれた。(A.D.60-70)ローマ市民にむけて書かれたものでイエスが行った奇跡を強調点。ペテロ(イエスの弟子の中でリーダー的存在)と行動をともにしていたので、ペテロによるイエス・キリストの生涯の記述とも言える。(1ペテ5:13)

4. マルコ自身が登場していると推測される記述。(14:50-52と10:17-22)

5. パウロの助手として(使徒15:38→コロ4:12、ピレ24節→2テモ4:11)

ルカの福音書

1. 「人の子なるイエス」がテーマ。普通の人とはかけ離れたイエスの品性,知性、慈愛に満ちた様子に焦点が当てられている。

2. 作者ルカは医者で歴史家。使徒パウロと行動をともにしていた。歴史家ゆえに出来事の順番が正確であると言われている。

3. ギリシヤ人を対象に書かれたもの。人としての美徳を尊ぶギリシア人に対して、理想的な人としてのイエスを紹介した。

ヨハネの福音書

1. 「神の子なるイエス」がテーマ。イエスを間近で観察した弟子のひとりとして、イエスが語られたことば、取られた行動などを詳しくしるし、イエスが神から来られたお方であるということを示している。

2. 作者ヨハネは元漁師。元洗礼者ヨハネの弟子。イエスのいとこ?十二弟子の一人。

3. 福音書の中でも,最もおそく書かれた。イエスの語られた内容に重点。記事の内容が他の福音書と重複しないことが多い。意図的に重複を避けたものと思われる。

よって、聖書の読み方としては、マルコの福音書で概略をつかんだあとで、ヨハネの福音書を読んで、キリストと作者ヨハネの「語り」からメッセージを受け取り、「使徒の働き」でどのようにして福音が外国まで広がったのかを知り、「○○への手紙」シリーズをいくつか読んで、ルカの福音書で詳しくおさらいし、手紙シリーズを読破して心の糧とし、黙示録(この世の終わりについて書かれているもの)でちょっと面食らいながらも、旧約聖書を読み進め、ある程度預言の書(とくにイザヤ書やダニエル書など)までは読んで、そしてマタイの福音書に戻って来られたらいいのでは?と個人的には思っています。

ちなみに私の場合、なにも知らなかったので、マタイの福音書から順番に黙示録まで読んで、そのあと旧約聖書を創世記から最後まで読んで、再び新約聖書に戻ってきました。でもそれはそれで、いくつかの面では面食らいましたが、楽しく最後まで読めました。それはなぜかと言うと、きっと自分にむけて書かれたものだと思って読んだからなのだと思います。

聖書はあなたに向けて書かれた神様からのラブレターです。そのように思って読んでみて下さい。
そうすれば聖書はただの古い書物ではなく、渇きを潤す水のように、あなたの心のすみずみに届くことでしょう。

(つづく)

ブログアクセス8万突破記念!ここまで読んでくださった読者の皆様へのプレゼントです。present いままで聖書を読んだことのない人で、新約聖書を読んでみたいという方、先着20名様(アメリカ在住の方を優先させていただきますが、日本からの応募も歓迎します。)に新約聖書(日本語またはバイリンガル)をプレゼントします!(日本からの空輸中に少々折れ曲がっていますが、ご容赦ください)「新約聖書プレゼント希望」という件名にて、こちらまでメールをください。なお、応募が20名をこえたら、終了させていただきます。

*新約聖書を手軽に持ち歩きたいという方におすすめはこちら。

ポケット新約聖書-詩篇・箴言付- 第3版Bookポケット新約聖書-詩篇・箴言付- 第3版


販売元:いのちのことば社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


| | コメント (0)

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »