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2009年10月25日 (日)

マルコの福音書(7):ガリラヤ湖のほとり(その1)

hide-tanと読むマルコの福音書(7):ガリラヤ湖のほとり

*これまでのhide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら

聖書箇所:マルコの福音書1章16〜20節

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

この福音書の記者マルコはここで、イエスがまず4人の弟子たちを招いたことを記しています。
このうちアンデレとシモンは洗礼者ヨハネを通じて以前イエスに会っています(ヨハネ1:35-42)。
またヤコブとヨハネも洗礼者ヨハネの弟子たちであり、一説には、イエスといとこ関係であったとも言われています。なので、この4人は以前からイエスのことを少しは知っていたのです。

さて、そんな彼らですが、彼らはイエスに呼ばれたときに、ガリラヤ湖のほとりで漁師としての仕事をしていました。自分がなすべき大事な仕事をしている最中に彼らはイエスに呼ばれました。

”人間をとる漁師にしてあげよう。”

それは、人々が神に立ち返り、神の家族として永遠を過ごすことができるようにさせるイエスの働きに加わるということの招きでした。イエスは、彼らが最も大事にし、時間を割いていた営みである漁師ということばを用いて彼らを招きました。それは、
あなたの最優先順位を、時間を、神のために人間を獲得することに使いなさいという招きだったのです。

その言葉に対してとった彼らの行動は、正直、少しびっくりです。
”彼らは網を捨て置いて従った。”
”父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。”

これまで、もっとも大事にしていたものをその場で捨てて従ったというのです。

普通に考えれば、びっくりですが、もしかしたら、彼らはすでにイエス・キリストのことについてかなりのことを知っていたからではないかと思います。先ほどのべたヨハネの福音書1章では、アンデレがシモン(ペテロ)に”私たちはメシヤ(キリスト)に会った”と報告しています。
イエスが行った奇跡や、教えのすばらしさ、多くの人々の関心をかっていたことも知っていたことでしょう。彼らは、この人こそ、ユダヤ人を(ローマの圧政から)救い出すメシヤであると思っていたのではないかと考えられます。

それはいわば、選挙戦を有利に進めている選挙活動中のアメリカ大統領候補から声をかけられたようなものです。

”ホワイトハウスで一緒に国づくりをしないか”

と言われるようなものかもしれません。

このイエスからの招きの言葉は、イエス・キリストを信じたクリスチャンにとっては真剣に向き合うべき言葉です。私たちクリスチャンは、アメリカ大統領よりもずっと偉大なお方から声をかけられているのです。

”ちょっとこの仕事が片付いたら”とか、”自分の目標を達成したら、もう少し従順なクリスチャンになります”とかは言えないはずなのです。でも、私も含めて、多くのクリスチャンは実は、そのような偉大なお方からそのような召しを受けているような生き方をしていない、それが現状です。
自分のやりたいことを優先させたい、人気者でいたい、欲しいものはすべて手に入れたいという思いが、自分に声をかけて下さっている神がどのようなお方なのかに目を留められなくし、その声から耳を塞いでいるのです。

アメリカ大統領と一緒に仕事をしたいかどうかは別にして、キリストというお方は、私たちが考えるどのような人物よりも、魅力的な人物であり、エキサイティングな仕事をされるお方であることに違いはありません。本当は、彼らのように網を捨て、家族や仕事仲間も置き去りにしてしまうほどに気持ちが高揚するような召しなのです。

もちろん、すべてのクリスチャンが牧師や宣教師のような仕事をしないといけないということではありません。職業はそのままでも、神に召されているがゆえに、喜んで人に仕えるように仕事をする、または勉学に励むということを求められているのだと思います。でも、前にも書いたように、今、クリスチャンと自称する人々の中に、そのように生きている人は少ないのが現状です。

自分のためだけに生き、他者を顧みない。
品行方正である自分の「徳」をひけらかし、他者を裁く。
だらしない生活やふしだらな生活を”自由”であると主張する。

もし、クリスチャンがこのようであれば、神は生きておられ、あなたを愛しておられるというメッセージが誰に届くでしょう?誰がイエス・キリストを人生の師と仰ぎたいと思うでしょう?

でも、クリスチャンの中にもこのような人は、正直・・・多いと思います。
そのようなクリスチャンにイエスはこのように言っています。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

(マタイの福音書7章21~23節)

私たちクリスチャンは、どのようなお方に、どのような召しを受けているのかを日々考えたいものです。キリストは、私たちが喜びにあふれて、神と人とに喜ばれる生き方をするためにわたしたちを召して下さっているのです。

(つづく)

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私たちのためにいのち捨てることさえ厭わないほどに愛して下さっている神様。
私たちは、いつもあなたから召されていることの光栄や、重大さを忘れてしまうものです。
どうか、いつもあなたの”人間をとる漁師にしてあげよう”という言葉を覚えて生きることができますように。アーメン。
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