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2009年11月 4日 (水)

マルコの福音書(8):ガリラヤ湖のほとり(その2)

hide-tanと読むマルコの福音書(8):ガリラヤ湖のほとり

*これまでのhide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら

聖書箇所:マルコの福音書1章16〜20節

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

今回も前回と同じところから学びたいと思います。
ここは、イエスがまず4人の弟子たちを招く場面です。前回はどのようなお方に声をかけられているのかということに注目し、それではクリスチャンはどのようであるべきかということについて、ちょっとだけ考えてみました。

今回は、声をかけられた弟子たちに注目してみたいと思います。

<無学な普通の人>

聖書の記述からわかることは、彼らは「無学な普通の人」(使徒4:13)であったということです。

のちにイエスの復活を目の当たりにして、すっかり変えられた二人が人間をとる漁師として活動しているときに、民の指導者、長老、学者、大祭司の面々の前でキリストへの信仰を弁明します。
そのときの記述がこのように書かれています。

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。(使徒の働き4章13節)

なぜイエスは、聖書に精通しているような学問に心得のある人を招かなかったのでしょうか?
それには、3つ理由があります。

① 神の御前で誰も誇らせないため(1コリント1:29)
神の教えが人間の知恵によるものではないこと、そして、「私は神より知恵がある」とか言わないようにさせるためです。神の知恵を無学な人にあたえ、それを知恵があると思っている人に聞かせることで、そのような高ぶった思いのある人にまで福音を知らせようという神の知恵でもあります。

これを読んで下さっているかたの中には、キリストの教えなんて難しい、それより自分が正しいと思う生き方をすればいい。そして、天国に入るかどうかは神に判断させればよいと思っている人がいるかもしれません。でも、福音は高等教育を受けていなくても理解できるものですし、キリスト教は道徳的な生き方をすることによって救いを達成させるような宗教ではありません。神に罪がゆるされていることを感謝し、それに応じた生き方をしていくことを教えるものです。

また、これを読んで下さっているほとんどの人は
「自分は神より賢いなどとは思っていない」と言われるのではないかと思います。
でもこんな風に思ってはいないでしょうか?

『聖書を少し読んでみたけど、十字架の身代わりなんて、ちょっと子どもじみているし、そもそもキリストだけが救いの道だとかいうのは、間違っている。私の描く神のイメージはもっと大きい。そういう点で聖書には少し訂正が必要だな。』

聖書に書かれているメッセージを否定することは、自分は神より賢いと思っているということではないでしょうか?

聖書のコリント人への手紙第一1章には、
1:自分の知恵によって神を知ることができないのは、神の知恵による
2:神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い

とあります。そして、”十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1章18節)”と訴えています。

”聖書の教えは馬鹿げている”と思ってしまう、そのようなあなたにも神の福音が届くようにと神は願っておられるのです。

② 土の器でも、中身は宝。(2コリント4:7)

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(コリント人への手紙第二4章7節)

自分がクリスチャンになるなんてまだまだ早い、とか、自分はクリスチャンだけど、とても他の人にイエス様を紹介するような器ではないとかお思いではないでしょうか?
私をよく知る人なら、私を昔から知っている人ならなおさら、あのhide-tanってクリスチャンなの?キリスト様のお話なんて、できた面(ツラ)か?と思う人もいることでしょう。
でも、わたしはこの聖書箇所に励まされます。そして、イエスが弟子として選んだ人が、普通の職業につく普通の人であったということも。

神が本当に神であるのなら、この世界でとるに足らないものと思われるような人を用いて、大きなこと、すばらしい業をなして下さるはずです。でも、そのためにはひとつだけ条件があります。

それは、自分の人生を神にゆだねるということです。
宝を入れる器は立派である必要はありませんが、中に他のものがあってはいけないのです。
自分の中に宝を入れてもらう為には、自分が大事に思っているものでさえ、神に明け渡さないといけないのです。「ゆだねる」という言葉は消極的な感じですが、クリスチャンの歩みは、「積極的に」神に自分を明け渡していく歩みなのです。

そして、宝とは神の福音のことです。

だから、もっとも大事なことは、福音に混ぜ物をしないということです。

神の御子であるイエス・キリストが、自分の罪の為に十字架にかかり復活して下さった。私の罪はゆるされ、私はキリストにあって神の子としていただいた。
ということに、酒やタバコはやめないといけない、とか、献金をしないといけない、とか、教会の会員になれなければいけないとかいう「混ぜ物」をしてしまってはいけません。

③ 完全なものとしてくださる。どんなことでもできる。(ヘブ13:20-21,ピリ4:13)

欠点だらけの私たちがキリストの招きに応じて従う時に約束されていることは、神はそのような欠けを補い完全なものと変えて下さるということです。
もともと非の打ちどころがないという人であれば、クリスチャンになる前後ではあまり分からないと思います。しかし、変えないといけないところがいっぱいある人が、どんどん変えられていくと、まわりの人々は、神が生きて働いているのだということを思わされます。神はあなたがコンプレックスを抱いているところや短所と思われるようなところを取り扱って下さり、神が私たちを愛しておられるというメッセージを世に伝える為に私たちを用いて下さいます。

だから、もし自分は欠点だらけで教会になんて行けないとか、キリストを信じるには、まず行いを正してから、とか思う必要はないのです。

網を繕っていたその手を止めて岸辺から、船から立ち上がることです。

あなたが今置かれている状況はひどい状況かもしれません。誰かによってひどくされたのかもしれないし、自分の悪い行いによって、悪い結果が生じてそのために苦しんでいるのかもしれません。自分には何の長所も無いと思っているかもしれません。でも、そういったことが少し改善されてからキリストに従うのではなく、この弟子達のようにすぐに立ち上がり、自分を人間を取る漁師に変えて下さるというお方のもとに向かうことです。
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彼らは、これまで漁師として生きて来ました。
キリストが「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたときに、これまでの彼らの漁師としての経験を生かすことも視野に入れていたものと思います。事実、イエスの一行はよく船で移動したのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)
キリストに従ったからといって、神に人生をゆだねたからといって、これまでの歩みが無駄になるようなことはありません。かえって、今までの歩みーそれが成功に満ちたものであれ、失敗だらけでもあれ、悲しみにあふれたものであれーを用いて下さいます。これまでの人生、あなたは神を捨てて歩んで来たかもしれないですが、神はあなたを捨てはしませんでした。神はあなたが生まれてから今まで、寄り添って歩んで下さっていたのです。もし、今日、あなたが神に向いて生きて行こうと決心するならば、これまでの人生で得たもの、失ったものを用いて神はわたしたちを神の目的にかなったものへと変えて下さいます。

だから、今その場所で、そのままの自分で、「はい、主よ。」と言いさえすればそれでよいのです。

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神様。今、わたしも自分の人生におけるガリラヤ湖のほとりで、あなたのお声を聞きました。
私はこれまであなたのことを知らず、あなたを悲しませるような歩みをしてきました。しかし、あなたはキリストの十字架のゆえにこのような私をも受け入れ、あなたの御用に役立つ器へと作り替えてくださることを感謝します。わたしは今、このままの状態で、後ろのものを置いて、あなたと新しい人生を踏み出したいのです。どうぞお助け下さい。アーメン。
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