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2009年11月10日 (火)

マルコの福音書(9):神の御子としての権威(その1)

hide-tanと読むマルコの福音書(9):神の御子としての権威(その1)
*これまでのhide-tanと読む「マルコの福音書」シリーズはこちら

「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。」
(マルコの福音書1章27節)

今日は、新約聖書マルコの福音書の学びのつづきから、キリストの持っていた『権威』について学びたいと思います。まずはじめに、権威の定義を調べてみました。

権威(けんい、Authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。代名詞的に、特定の分野などに精通して専門的な知識を有する人などをこう称することもある。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

広辞苑では、このように権威と権力の区別は明確にされていません。このウィキペディアの書き方だと少しポジティブな印象がありますね。

さて、権威と聞いて、どのような権威を思い浮かべますか?
権威のある人って誰でしょう?
身近なところからは、ドライバーに対しての警察は権威がありますね。
「止まれ!」と言われたら従わないといけません。
仕事の上司とかも権威があるかもしれませんし、子どもにとっては先生や親もそうでしょうね。
大きな権威をもった人は誰でしょう?
一国の首相とか大統領の権威が一番大きいでしょうか。

権威という言葉を聞いた時に、どのようなイメージがありますか?
ちょっとコワいとか、うっとおしいとか、自分の意志に逆らうものといったようなネガティブなイメージがあります。

権威のある人に対しては、多くの人は、それを乱用しないでほしいと願います。
私は個人的には、権威というのは自分を守ってくれる役目があるものであると期待しています。
ここでは、イエスがもたれている神の権威とはどういうものか、イエスの権威について描かれている聖書箇所をちょっと書き出してみました。

まずは3回シリーズで、学びたいと思いますのでお付き合い下さい。

権威をもって教えられたイエス(マルコ1:22)
悪霊の上に立つ権威をもつイエス(マルコ1:23-27)
病気をなおす権威をもつイエス(マルコ1:29-34)

罪をゆるす権威をもつイエス(マルコ2:10)
被造物の上に立つ権威をもつイエス(マルコ4:35-41)
人の上に立つ権威をもつ者に対するイエスの教え(マルコ9:35)
自分のいのちを捨て、それを再び得る権威をもつイエス(ヨハネ10:18)
神以外、誰もイエスに対して権威をもっていない(ヨハネ19:11)

聖書箇所:マルコの福音書1章21節〜22節 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

カペナウム (Capernaum) について
正確な場所は不明ですが、おそらく今のイスラエルにあるガリラヤ湖の北側に位置する町であろうと言われています。遺跡群のある場所であると推測されています。

イエスがカペナウムに至るまでの経緯をさらっと調べてみますと、
ヨルダン川での洗礼→カナの婚礼→初期ユダヤ伝道(約8ヶ月)→カナ→ナザレでの排斥→カペナウム
という感じです。推測ですが、イエスは故郷のナザレを本拠地として活動したかったのではないかと思います。しかし、イエスを子どもの頃から知っている町の人々は近所の子どもであったイエスが神から来られたお方であるとは信じられず、イエスを排斥したのでした。こういう経緯があって、カペナウムはガリラヤ伝道の拠点とした場所として今後たびたび登場します。


安息日(Sabbath)———(創世記2:2、出エジプト16:23,20:11,35:2)
安息日とはユダヤ教の休日で、神が6日間で創造の業を終えられて7日目に休まれたということを覚えて一週間の最後の日(土曜日)を聖なる日として働かないように定められていました。
仕事をしないので、会堂にもっとも人が集まる日であったのではないかと思います。


会堂(Synagogue)について
ここは、主にユダヤ人が神に礼拝を捧げるところです。
普段は主に律法学者が律法を教え(ネヘミヤ8:8、ルカ4:20)、祭司が神への捧げものの儀式をします。また裁判所のような役目も担い(ルカ12:11)、このようないろいろな特権のもとに宗教的な階級が築き上げられていたようです(マタイ23:6)。

そのような場所に今回は特にイエスとはじめの弟子達(=一行)がそこに入り、イエスが教え始めたのです。そこで教えられた内容は他の福音書に詳しいですが、マルコの福音書では、その教え方に権威があったということだけが述べられています。

イエスが、権威のある者のように教えられた
「律法学者たちのようにではなく」とあります。
律法学者のように教えるとは、人の解釈をもとに教えるもので、これは一般的なものです。それ自体は悪いことではありません。
しかし、当時の律法学者の教えについて、おそらく人々が気づきはじめていたであろう問題点は、律法学者たちが自分の立場(存在意義)を守るために、聖書に書かれている律法に勝手な解釈を加えて様々な無理な律法を作り上げ、それを神の命令(=律法)であるとして人々をがんじがらめにしていたのです。
これはいわゆる権力の乱用であったと思われます。

それに対して、イエスの教えは権威があると言われています。
権威がある、というのは自発的に同意・服従を促されるようなものであるということです。
神が私たちに求めている人の歩みは、規則に縛られて、権力に恐れをなして生きて行く生き方ではない。こうしないと神の祟りがあると言ったような恐怖で人々を縛り付けるようなものではない。神はどのようなお方なのかということを知り、私たちを愛してくださる神がきよいお方であるがゆえに、私たちもその神に従うにふさわしい者になりたいという思いを抱いて歩むことが私たちに与えられた神の命令なのです。

こういった考えに裏打ちされたイエスの言葉は、人々の心の渇いたところを潤すものであったのだと思います。

後の箇所で出てくる人々の反応、
「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。」
(マルコの福音書1章27節)

という言葉の中には、人々が、この言葉に従いたいと思わされていること、そして、このような教えを今まで聞いたことがなく、心が渇ききっていたということがわかります。そして、心を潤してくれるイエスの教えをもっと聞きたい、そして実践したいという温かい気持ちが人々の心に湧き上がったような様子が伺いしれます。

・・・とはいえ、この物語には、このように神の代弁者として権威をもって教えるイエスを心良く思わない人たちが多く登場します。マルコの福音書は16章。まだ1章ですが、ここですでにイエスの投げかけられた言葉にこれから前途多難なできごとが続いてきます。

次回からは、イエスの力が闇の力を滅ぼすほどのものであったこと、私たちの苦しみを取り除いてくれるものであったものであるということを一緒に見て行きたいと思います。

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神様。あなたの御言葉をわたしに聞かせ、この心を潤してください。
あなたがどのようなお方であるか、私のためにして下さった奇しい御業の数々を味わせてください。
私から恐れを取り去り、あなたに仕える喜びで私を立たせて下さい。
あなたの権威のもとにへりくだり、あなたへの愛ゆえに「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛せよ」という命令に従う者になることができるようにお導きください。アーメン。
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