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2009年11月 5日 (木)

読書感想文:「イエスはなぜわがままなのか」

著者はフェリス女学院学院長であり、哲学者であり、クリスチャン歴50年という方です。
新約聖書に描かれているイエス・キリストの物語を読んで疑問に思うことについて、できるかぎりの真面目さと誠意をもって答えようとしています。

そこから、

「信じるとはどういうことか」
「信じたらなにが良いことがあるのか」
「神とはどのようなお方なのか」

と、キリスト信仰の本質に迫る話を展開します。平易で説得力のある文章で、少なくともクリスチャンは聖書に書かれている理不尽と思われる記述をどのように理解しているのかということが書かれてあります。

ちょっと違うのではないか、と思わされる記述や、もう少し突っ込んでほしいと思う点も少しあるのですが、これは神学テキストではなく、あくまで一人の信徒の聖書理解を記した本ですから問題はないと思います。

本の帯から。

新約聖書に描かれた

理不尽なイエス、
暴力的なイエス。

イエスの理不尽な言動例
・空腹のあまり、イチジクの木を呪って枯らす
・ブタを集団自殺させる
・弟子に向かって
「おまえなんか生まれてこなければよかった」

どうしてこんなわがままな人を
20億人超のクリスチャンは信じられるの?

面白そうなタイトル、帯コメントですが、このようにとらえてしまう聖書記事が実はそうではないのだと言うことが読んでいくとわかって来ると思います。

とても良い書物でキリスト教に興味を持つ人にはおすすめだと思いますが、ひとつだけ著者の考えと相容れないところがあります。

著者の考えの中で、この本の本流を占めるものとして、
聖書には真実が書かれているが、事実とは限らないという記述に、私は半分賛成、半分反対なのです。
著者は、夕焼けが赤いことを空にレンゲが咲いたようだと書いても、事実ではないが、そのように感じる程に空が赤かったということは真実だと書いています。これは同感です。

たとえば、今でも私たちは、
「太陽が東からのぼってきた」
「月が西に沈んだ」
という言い方をしますが、わざわざ「地球の自転の関係で太陽が東の方に徐々に見えて来た」とは言いません。太陽がのぼるということは正確な事実の記述にならなくても真実を伝えています。

聖書はわかりやすく書くということをひとつの目標にしていたと思うので、事実を正確に伝えることより真実をわかりやすく伝えることを心がけていると思います。

著者は、天地創造に関する記述を暗に事実ではないという書き方をしている一方で、キリスト信仰の根幹をなすキリストの十字架と復活については、歴史的事実として固く信じているようです。

同じ書物に書かれている様々なことがらを、しかも、それが神という単一の著者によって(記述者は複数だとしても)書かれたと信じている書物をとって、「この記述は、事実。でもここは違う」という線引きはどのようにしたらできるのでしょうか?

私には、それができません。というのは、科学や様々な高等な学問を持ってしても聖書の記述が事実であるのかないのかを証明できないからです。著者自身も、確認できないから信じるのだ、見えないものを信じるから信仰なのだと何度も訴えています。

だから、私には、今の科学や様々な学問をもって理屈にあわない、理解できないことであっても「とりあえず」そのまま信じています。天地創造も、ノアの箱船も。もちろん、イエスの処女降誕や様々な奇跡、そして十字架のあとの復活も。

”真実=事実”ではない

という考えには賛成ですが、聖書には事実でないことが書かれていると言い切ることは、私にはできません。
ひとつはそれを証明できないからです。
次に、神がいるのであれば、私たちの理解の及ばないことがらが起きても不思議ではないこと。
そして最後に、聖書は事実に基づいた真実が書かれていると信じているからです。

だから、わたしは、
「聖書に書かれていることがすべて事実かどうかはわからない。しかし、神が記された聖書は、事実に基づいた真実が書かれており、書かれているとおりにすべてが事実であるととらえてもかまわないように書かれている」
と思っています。

それは、『太陽が東からのぼってくる』と思っていても、普通の日常生活には支障がないし、『地球が自転をしているから、太陽が東から見えてくる』とわざわざ考えを変える必要はないのと同じような感覚です。理屈を言えば、地球をぱっとつかんで静止させて考えると、地球が全宇宙の中心であり、全宇宙が地球の周りを猛スピードで回ったり動いたりしていると論じても間違いではないのですが、いちいちそのように論じなくとも、

「太陽が東からのぼって来た。今日も無事に朝を迎えられて感謝だなあ」

と言っていれば、それでよい話ではないかと思うのです。
だから、私は聖書を安心して読むし、毎日安心して神様に感謝を捧げて生きて行くことができるのです。


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