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2010年4月28日 (水)

しないと「もったいない」献金の話

このブログの読者の方は多くの方は、ノンクリスチャンなので、これまで聖書や教会のことについて語るときも聖書を読んだことの無い人にも、教会に来たことのない人にもわかりやすい記事を心がけて書いて来ました。でもそんな中でおそらくクリスチャン、ノンクリスチャンに関わらずに「どうしてるんだろう?」と思われそうな問題で私が触れて来なかったことは『教会で捧げる献金について』です。

今までこの話をしなかったのは「やっぱりキリストさんを信じたら金を巻き上げられるんや」と変な誤解をされたり、自分たちの経済のことについて書くことに躊躇したからです。また自分の献金に対する姿勢への至らなさを暴露することでもあったからです。

もしキリスト教をひとつの宗教として捉えると、「何かとお金をとられてしまう」というイメージがあるのではないでしょうか。でも、極端な話、一銭も献金をしないクリスチャンという生き方もしようと思えばできます。それは、献金というのはまったく自由意志からするものだからです。

それでも、一般にどれくらい献金を捧げてるの?ということですが、聖書がすすめている献金の額は収入の10%程度です。それは、旧約聖書のマラキ書にこう書かれていることを根拠にしています。

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。—万軍の主は仰せられる—わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ書3:10)』

「たった、それだけ〜」とか「ゔぇええー!そんだけも!」と人によって違うでしょう。年収1000万円以上とかの高収入だとできるだろうけど、私には無理!という人がほとんどかもしれません。でも、どうも収入が多ければ多いほどこの基準を達成するのは難しいようです。それは20万円のうち2万円を献金するのと100万円のうちの10万円を献金するのとで違いますからわかりますよね。

それで、実情はどうかというと、教会の会計報告を見ればすぐにわかります。どう考えても平均して10%には全然届いていないのです。理由はわかります。私が理由の一端をしめていたからです。

わたしたちは、ある意味”忠実な教会のメンバー”でありながら、こと献金に関しては教会以外のクリスチャン関係の団体への寄付等をあわせても10%に満たない額しか献金していなかったのです。そしてそれは仕方がないと思っていました。留学前は、留学に必要な資金を用意する必要があったし、渡米後は給料は半減、家賃は2.5倍、子どもの学費はプレスクールを半分だけでも700㌦(7万円くらい)という環境の中で、月々20万円以上の赤字を出し続けていましたから収入の10%というのはトンでもない!というのが私たち夫婦の一致した意見でした。

家賃の低所得者割引制度(BMR: Below Market Rate)というのもなかなか当たらず、2つ目のフェローシップを獲得しても給料をあげてもらえず(研究助手のクビを切っていた当時なので仕方ないのですが)、預金がドンドン減って行く中で「これじゃあ、3年間もこんなところで暮らせない!」と悲鳴をあげていました。

でも、ある牧師のメッセージを聴いていると、「あなたが何に重きを置いて生活しているかどうかは、あなたの銀行口座のチェック(小切手)がどこに切られているかでわかる(アメリカではクレジットカード以外にチェックをよく使い、献金の大半はチェックでします。)」と言っているのを聞いて、アーメン!(そのとおり)だと思ったのです。

自分は、神様に重きを置いていると言いながら、わたしの経済活動はそうは言っていない。神に信頼していると言っていながら、頼みにしているのは銀行の残高。”天に宝を積みなさい”というキリストの言葉にアーメン!と言いながら、財布を開かない方法で人助けをしたい、教会で奉仕をしたい、だって貧乏ポスドクなんだから・・・と言っていました。

ありえないような方法で私たちに永遠のいのちを与え、神の子としてくださり、道を開いて今の生活を与えてくださる神様に対して、実は表立ってはいえないホンネを隠している。こんな私でいいんだろうか?と思ったのです。クリスチャンとしてもっと献金をしなければならない!というものではなくて、自分と神様の関係の中で、神様を信じきっていないところを取り扱われたのです。

それで、わたしは妻に事情を説明し理解を得て、赤字を増やす覚悟で10%を越える額を設定することにしました。このようにして3回ほど捧げたあとで、BMRがあたり家賃が半額以下になり、そのさらに2ヶ月後に競争が激しいのでダメもとで申請した3つ目のフェローシップ(研究助成金)を獲得し、ボスのグラント(研究資金)がいくつもあたり、さらに2ヶ月たって給料を考えられる最高の形でアップしてもらうことができたのです。それにともない、献金もさらにふやすことになりました。しかし、それは喜びと感謝をもって毎月チェックを書くことができるようになったのです。税引き後の額(手取り)で10%と思っていたのも考え直して、税引き前の額としても喜んで捧げることができるようになりました。神は備えてくださる、ということを実際に体験したからです。

そして去年の年末に教会から領収証が届いたときに、これだけの献金ができるほどに私たちを祝福し、なおかつ預金を減らしていないということに涙を流して感謝したのでした。それは、なにか美味しい仕事を見つけて来て高収入を得たということでは味わうことのできない喜びです。神が備え、私たちを祝福し、経済を守ってくださったという確信からくるじわっとせまり来る、あたたかな感動でした。

だからといって、なんでも捧げればよいと思うようになったわけではなく、神が与えてくださったお金をどのようにどんなことに使うべきかを考えるようになりました。教会で献金を捧げるときも、そのお金が神様の意図のとおりに使われますようにともっと心をこめて祈ることができるようになりました。そしてPeninsula Bible Churchという教会は言ってみれば私のことでもあり、私はPeninsula Bible Churchの一部ともいえる存在なのだ、という意識も強くなりました。もっと教会のことが好きになり、神様への祈りも感謝の祈りが多くなり、どんなことでも聞いて下さるという信頼が強まりました。

そして、私はどんなことにおいても神に対して信頼を置いているのです!と強がりでもなく、嘘偽りでもなく証しができるようになったのです。

それでも、まだ献金は個人の置かれている状況にしたがって、信仰によって捧げるものです。クリスチャンだからこれだけしなければいけないというものではなく、クリスチャンになるためにはそんな覚悟が必要だということでもありません。またクリスチャンでない方や、信仰をもたれて間もない方に献金を強くすすめる教会からは距離を置いたほうがよいと思います。

でも、もしこれを読んでいる方がクリスチャンで献金について戦いを覚えておられる方には、けっしてご自分を責めるべきではないこと(神様は責めることはなさいません)と献金は信仰のチャレンジであると同時に大きな恵みなのだということを知っていただきたいと思います。

このような献金の祝福を知らずにクリスチャンとして生きることは実に「もったいない」のです。

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たち必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。 (新約聖書2コリント9:9-13)


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