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2010年8月 8日 (日)

イエローストーン/グランドティトン旅行記(1日目-2:モルモン教の特徴と起源)

モルモン教の総本山、ソルトレイクシティのテンプルスクエアの建物はどれも本当に荘厳な感じです。
なかでもメインの神殿はかなり巨大なのですが、ここへはモルモン教の幹部クラスしか入れないのか、おそらく信者であろうと思われる新郎新婦も外で記念撮影していました。(ここには、「小さい」チャペルもあって、そこで結婚式を挙げることができるようです)
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ビジターセンターも南北にそれぞれあり、北は「聖書とモルモン経について」「奉仕活動の重要性について」南は「モルモン教の歴史について」「家族の絆について」が展示されていました。

これらの中の展示はどれも美しく、見やすかったです。ここを回るだけで、なんの基礎知識を持たなくてもモルモン教の信者の方々が何を重んじているのかがよくわかります。

<モルモン教の特徴>
っで、強調されていたことと、私たちクリスチャンが考えていることの違いをまとめると、
1)聖書とモルモン経は、ともに重要な神からの啓示の書であり経典である。
<クリスチャンの考え>聖書だけが神の御言葉であるとしている
2)イエス・キリストの十字架の死と復活による救いが少ししか伝えられていない。(まったく強調されていない)
<クリスチャンの考え>それこそが、信仰の根幹に関わるものである
3)家族の絆、家系図を重んじる
<クリスチャンの考え>確かに家族のつながりは大切であるが、神の家族として信仰によるつながりは血のつながり以上に強いものである
4)奉仕活動を重視する
<クリスチャンの考え>これもキリスト教会が重要視する点である。しかし、それは救いの条件ではなく、救われたものが自発的に行うもの、神への感謝のうえに信仰を伴って行うものであると考える。

と、こういう感じです。他にも違いはありますが、ビジターセンターをざっと見渡しただけでわかることは以上です。
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モルモン教が奉仕活動を重視する一方で十字架の救いを救いの必要十分条件とはみなさないように、善行を積むことによって救われるーその方が、なにもせずに信じるだけで救われるとかいうより、もっと崇高な気がするし、それこそが生きるべき道ではないか?ーそのようにお思いの方も多いのではないかと思います。

そういう考えはクリスチャンでさえも陥りやすい考えなのですが、どこに問題があると考えるのかという理由は大きくまとめると以下の二点です。

1)自分の罪をとるに足らないものとして、ある程度の善行で神に認められるという考えは、神のきよさの基準を貶め、自分を実際の姿よりも高めていることになるからです。

「神は私のように礼儀正しく、親切で、寄付なんかもしている自分を認めるべきや。もし認めへんのやったらそんなん神とちゃう。そんな神はいないと思うし、いたとしたらこっちから願い下げや。」

そうではなく、

「私は神のきよさの基準、善の基準からみれば、義人(責められるべき点のない正しい人)とよばれるにはほど遠いです。私のこれまでの神に対する態度、家族や周りの人々への配慮のなさ、自己中心な生き方。このような罪を自分では負いきれないし、全財産を投げ打って、人生をどのように費やしてもその負債は神に返済できるものではない。ただ神のあわれみとゆるしを乞うばかりです。」

と神のきよさと自分の罪の深刻さを認めることが、現実を直視しているものであり神の御前で正しい態度と考えています。


2)それは、神の御子イエス・キリストのが十字架で流された血潮の価値を貶めていることになるからです。

「キリストの十字架だけでは救いに不十分で、それだけでは神に受け入れられないし、救われない。」
と思うことは、つまり、無限大の価値のある御子の犠牲を十分でないと言っていることになり、それは神に対する侮辱となります。そのように考えて行動するのは信心深く見えても、それは不信仰の表れでしかなく、それがエスカレートすると、自己顕示欲や自己実現の達成のために神を利用することになりかねません。


<モルモン教の起源>
これは、ジョセフ・スミス・ジュニアという人が神の御言葉を受けて、モルモン経を書き記したということ、迫害を受けて難を逃れつつ、信仰を引き継いだブリガム・ヤングによって発展させたものであるというものがこの宗教のルーツです。

私は、モルモン教が間違っているとかいうことよりも、なぜ十字架による救いを必要十分条件としない教義、努力すれば自らが神になることができるという教義になぜ行き着いたのか、なぜ広めようとしたのか、またなぜこんなに多くの人々が従っているのかということになったのかということが気になりました。

たくさん理由があると思います。
でも、私には、これも大雑把にふたつと言えると思います。

ひとつには、やはり、「自分の善行こそが」という(気分的にも視点としても)自分を高めたい思い。これは、罪に由来するものです。そして、もうひとつは、クリスチャンに対する失望です。それは、クリスチャンが真実の神を信じていると言いながら、そのように歩んでいないということへの抗議からではないかと思います。

とくに、私を含めたクリスチャンは、気を配るべきことかもしれないと思います。
私には、すべてのことをすることはできないし、たとえば教会が中心になって行う社会奉仕活動であっても限りがあります。そしてクリスチャンだって人間です。神の御霊がともにいて下さっているとはいっても、神がかり的な存在ではなく、罪にまみれたり、古い習慣や、癖、自己中心と戦いながら、それらに勝利していこうと歩んでいるのがクリスチャンなのです。

もしかしたら、サタンがそのような不完全な歩みをしているクリスチャンを際立たせて、ある人に「クリスチャンと言っても、ああいう感じさ。だから、彼らと同じ信仰をもってはいけない。」と囁いたり、敬虔な歩みをしているクリスチャンを見せて「ほら。クリスチャンになったら、あんなに真面目にならんといかん。人生楽しまれへんで。」とそそのかして来ることは避けられないかもしれません。

クリスチャンが異端と呼んでいる、モルモン教、統一教会、エホバの証人などは、確かに教えが聖書から外れている。それは確かに思います。でも、それを生じさせた理由のひとつにクリスチャンの信仰生活が真摯なものではなかったということが関係しているかもしれないということも考えにいれるべきではないかと考えさせられました。

旅の初日は、そんなことを思い、”ならば、自分はどう生きる?”とか考えつつも、旅の疲れで瞼は重くなっていったのでした。


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