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2010年10月15日 (金)

ダライ・ラマ14世、スタンフォードで「思いやり」を語る

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以前、「思いやりを科学する?」という内容のブログ記事で紹介しましたが、スタンフォード大学はダライ・ラマ14世から寄付を受けて、思いやり科学研究センターのようなものを立ち上げています。それで、今回、ダライラマ氏がスタンフォードに講演に来るということで、チケットを入手して行ってきました。

〜〜〜〜〜【ダライラマ14世の講演の抜粋】〜〜〜〜〜〜〜〜
1:自己中心は、正直な心も信頼出来るような人格も生み出しません。
2:自分が幸せになるために、他人の利益になるようなことを心がけるべきです。
3:人間はほ乳類。母の愛を受けて育ちます。私(ダライラマ氏)もこれが他者への愛のモデルになっているのです。
4:「私が」「私の」「私に」を多用する自己中心の人は心の扉を閉ざします。そしてコミュニケーション不足になってしまいます。そうなると血圧があがり、心筋梗塞になっって死んでしまうのです。
5:科学技術は人々の生活を豊かにしてきました。これからは脳科学を通じて宗教がこれまで演じてきた役割を研究すべきです。
6:仏教は創造主を認めません。自分が自分の創造主であるので自己創造のすべを探求します。なにかを探求するという点では、仏教も科学も同じなのです。
7:自分が傷みを覚える時も、他者の傷みに同調するときも、脳で発火する箇所は同じ。脳って意外と馬鹿なんじゃないかと思ったりします。
8:脳は原因によってアウトプットを変えません。泣いても笑っても涙が出ます。泣く時は左目、笑う時は右目から涙を出すような指令は送りません。
9:誰かの態度に自分の態度を影響させてはなりません。「私は幸せになる権利があり、この人も幸せになりたいはず」と思うと敵にも思いやりを示すことができるのです。
10:不正を持ってあなたを支配しようとする者は、やがてはその責めを自ら背負わないといけないのです。
11:動機は大切です。人をだますための微笑みは暴力。逆に愛に基づく厳しい言葉や態度は尊いものです。
12:思いやりを教育するのには、かつては家庭や宗教に役割があったが、今の時代は世俗的な教育機関が担う役割が重要になってきています。(→注:これは、正直、耳を疑ったのですが。スタンフォード大学へのリップサービスと取りましょう。)
13:力で身体を縛っても、心は縛れません。人の心を変えるのは思いやりです。
14:違う考えをもつ人を尊敬すべきです。
15:自分にできることをやり、手の及ばないことは祈ることです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上のような内容でした。
集まった聴衆は、ほれぼれとした面持ちで氏を見つめて熱心に聞きいっていました。
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私としては、上の太字の部分のように(文章全体ではない)同意できる内容もあったのですが、やはり聖書の価値観とはかなり異なります。私としては、宗教には共通点が多いとはとてもいえないように思いました。少なくともアメリカ人と日本人くらい違います。

氏が「思いやり」を語るのを聴きながら、その話のあとに心に冷たさを感じたのは私だけではないかもしれません。いや、とくに私の場合はその冷たさを余計に感じ取ったのかもしれないです。それはダライ・ラマ14世が冷たいというのではなくて、彼の説いている教えにある種の限界があるからだと思います。

その理由は、二つあると思います。

【理由1:愛という出発点が語られていない】
クリスチャンは自分は創造主なる神に愛されている、こんなにも愛されている、そういうところをスタート地点になっています。それは、二千年前にキリストがわたしのために十字架についてくださったという過去形で終わるものではなく、今もキリストは生きて、聖霊がともにいて下さるということを日々確認しながら生きています。自分が幸せになるために、とか、自分が愛されるためにとかいうのではなく、自分が幸せだから、自分は愛されているから他者を愛したいと思うのがクリスチャンの利他的な行動に結びついているのです。
ダライラマ14世も実は、そういう愛の必要性を知っているように思います。そのスタート地点を母から受けた愛に求め、今も母から受けた愛をしっかり握りしめることで自分を保っておられるようです。

【理由2:ではどうすれば?という問いに答えていない】

思いやりの心を感じても、行動に移せないことがある。
それは思いやりが足りないのか?
または別の何かが必要なのか?

こういう質問が出ていました。
その答えは上記の15の「やれることをやればよい」でした。司会者(スタンフォード大学 思いやりの科学研究センター長)も最後にそのように締めくくっていました。
おそらく聴衆は「こういうことは誰でも知っている、でもできない。どうすればいい?」という問いに答えを与えられずに、「ほおっておかれた感」をもったかもしれません。

聖書にはこのようなことを使徒パウロが書いています。

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。 ・・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7:19-24)

同じ質問をもし、イエスにぶつけたら、どのように答えるでしょうか?
まずイエスは、このように「思いやりを行動に移したいけれど、やはり自己中心の心があって行動に移せない」と苦しむ私たちにこのように声をかけてくださいます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイの福音書11:28-29)

また、そんなに難しいのなら誰が天の御国に入れるのでしょう?という弟子たちの問いに対して、

それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。(マルコの福音書10:27)

とも言っています。つまり、神ご自身が、私たちを通して事を行ってくださるのだということです。
私たちクリスチャンの内に宿ってくださっている聖霊が、私たちを通して他の人を愛するにまかせることです。神の御言葉に聞き、祈り、そして日々神とともに歩む生活をするなかで、神が私たちを通して働かれるのをゆるすこと、それが私たちにできる最善な方法なのです。

だから、上記のような叫びに続いて使徒パウロはこのように続けています。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ人への手紙7:25)

だから、「どうすればいい?」という質問をイエスに持って行くとこのように答えてくださるはずです。

”私にまかせなさい。ただ、あなたが私を迎え入れ、私があなたを通して働くことができるように心を開いて私をあなたの主として従いなさい。”

この答えを聴いていない人は世界の中でも非常に多いのです。
今日の講演に来ていた聴衆の多くは世界トップレベルのスタンフォード大学の学生だったり、シリコンバレーに住む富裕層だったりするのです。しかし、そのような何千人もの聴衆が歩いて会場を後にする中を歩きながら、彼らの心に喜びはなく、本当にみんなが羊飼いのいない羊のように彷徨っているように思いました。

この羊の群れを愛し、緑の牧場へと憩わせてくださる羊飼いなるキリストが本当に必要なのだと思いました。

わたし(キリスト)は、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10:11)
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コメント

その牧師先生からの影響だったんですね。新しく思える信仰スタイルには臆病な者なので聖書からのサポートを求めたのでした。すみません・・・。それと、そうなんです。ローマ7章っぽいなあと思い引用させてもらったのでした。ただパウロのようにローマ7章を終わることがまだできていない方々が多いのだと肌で実感したのでした。

投稿: hide-tan | 2010年10月17日 (日) 12時42分

日本の私の母教会は礼拝出席者が170名近くになり、それでも救われたクリスチャンの霊性について語られないまま、開拓の教会のモデルをそのまま現状維持して、救われる人を求め、信徒に人を誘ってくるような体制でした。私は、そんなおり家内から、一人の牧師に出会ったと紹介を受けました。聖書のどの箇所というより、その牧師先生の人格を通して語られて来たものがようやく形になりかけたところで、引退されてしまい、次に旧約が専門の学者のような牧師が来ましたが、彼は精神病になり退職しました。今は、信徒の中から役員が講話をしています。その環境中からの考察です。ところで、聴衆の方々が善をなしたいとモデルを求めておられてできないでいるというのは、ローマ7章のパウロの葛藤ですね。現代の日本人は貪欲ではあれ善をなしたいのかどうか、分からない状況だと思います。不況でサバイバルに必死なように思えます。

投稿: まきと | 2010年10月16日 (土) 18時38分

まきとさん
こんにちは!コメントありがとうございます。
ここに来られていた聴衆はたぶん「善をしたいと思っているけれどできないでいる」という方たちが多いのではと思います。
羊飼いのいない羊とは、そういうことへの導き手がいないということだと感じたんです。でもそこはやはり神の愛がスタート地点でないとつらいように私は思うんです。まきとさんの言われる自分を自律的に探求する東洋的キリスト教というのも面白い視点ですね。聖書のどのような箇所からそのような視点の重要性を考えるようになられたのでしょう?

投稿: hide-tan | 2010年10月16日 (土) 18時02分

何かをしなければならないと言うのは律法の定めるもので、信仰によって自由になったはずです。羊飼いの無い群集のように思われたのは、何かコンパッションを人々が求めている社会がアメリカ社会だからではないでしょうか。人が愛を求めていると言うのが基本にあるというのは既に宗教的です。自分で考えて行動する、ある種無に近い意識が人間を軽くしてくれて、御節介をする共同帯ではない、つまり群れないで、自分を自律的に探求する事が大事なのではないでしょうか?僕は西洋的キリスト教から東洋的なキリスト教というものもあると考える立場の者で、探求しています。

投稿: まきと | 2010年10月16日 (土) 17時20分

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