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2010年10月

2010年10月18日 (月)

読書感想文:「ゲノムと聖書」"The Language of God" (フランシス・コリンズ)

以前、スタンフォードにも講演に来られたことのあるFrancis Collins氏の著書である「ゲノムと聖書」という本を読みました。ずいぶん前にほぼ読み終えていたのですが、巻末の補遺のところを読んでいなかったので感想文を載せていませんでした。実は、講演のときに原著は購入していたのに以前のブログ記事にあるように講演内容に少しがっかりする面もあり、それと、英語を読む労力ということもあって(こちらの方が大きいcoldsweats01)、手をつけずにいました。

今回、7月にお会いした翻訳者のはちこさんに訳書をいただき、読ませていただきました。難解な内容であるはずなのに読みやすくなっているのは、心理学を研究されていたはちこさんと夫のぼぼるさん(シカゴ大学地球物理学)がしっかり噛み砕いて、正確な記述でありながらやさしい口調で書かれたからだと思います。このような本を訳すのには本当にパーフェクトなお二人です。

本当に素晴らしい本で、おそらく☆5つ!という人が多いのではないかと思います。実際、本日の時点ではアマゾンのレビューでは、☆4つ半です。私にとっては、多くのポジティブなことに対して二点だけネガティブな点があって☆4つ。講演のあとの落胆を随分と回復させていただいた点で読んでよかったです。
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もっとも感銘を受けたことは、内容がクリスチャンにもそうでない人にとっても議論を起こしそうな話題であるゆえに、真摯に科学と信仰と向かい合い、客観的なエビデンスを丁寧に書かれていて、謙虚に自分の考えをのべていること、その主張の根幹に世界の人々に対する愛が感じ取られたことでした。これは、はちこさんも著者の熱い思いに感涙だったと仰っていたことからもそのとおりだと思います。

そしてもっとも学んだこと。それは、クリスチャンが冷静かつ正確な知識に基づくようなものごとの捉え方をしないと、誰かがキリストと出会い、信仰をもつときの妨げになる可能性があるということ。なので、信仰の本質的なことにふれない部分で心を閉ざし、現在の科学的認識に反することを「神の意に反する」とか言って、声だかに叫ぶべきではないということ。

この本を読みながら、ひとつの確信が強くなっていくのを感じていました。それは「ダ・ヴィンチ・コード」が巷で話題になったときにも思ったときと類似していました。それは、科学を真摯に、丁寧にみつめていけば、いつかそこに神の指の跡を見いだすことができるという確信です。

残念な点は、次の二点。まず、有神論的進化論(神が天地を創造し、目的を持って生物を進化させて人類を誕生させたということ)をサポートするのがこの本のひとつの目的であるのに、一般向けの本ということもあって、それをサポートする科学的エビデンスをもう少し多く記述してほしかったと思います。たとえば、創造論者が提唱している化石の年代の測定法の問題点についての反論があるなら(はっきりした反論はしていないがそれを臭わせています)、ちゃんと紙面を割いて説明すべきであったと思います。次に、(ここは訳者であるはちこさんとぼぼるさんが、この著者の長所として挙げられている点なのですが、)「何を信じるのかは一人一人がよく考えて決めるべきだ」で終わっているところ。

私も、誰かに聖書の話をしたりするときには同じように「何を信じるかは、個人の自由です。ただ、人生で一度くらいは世界でもっともよく読まれている聖書にふれて、しっかりと考えてほしい。」と言います。でも、言い方にこそ違いはあれ、つい、こう付け加えてしまいます。「そうなんだけど、でもやっぱり、私としては◯◯さんにイエス・キリストのことを信じてほしい。なぜかというと、やはりこの世で終わりじゃなくて、◯◯さんも救いを受けて、天国でもおつきあいを続けたいと思うんです。」
フランシス・コリンズ氏も、せっかく最後まで読んでくれた読者に対して、最後にひとこと、このような思いを書かれてもよかったのでは?と思うのです。この本を読めば、彼の心に人々の魂の救いを願うあたたかい心は感じ取れます。なにかの圧力があったのか、ご自身でそのように判断されたのか真相は不明ですが、そのような個人的な思いを書かれてもよかったのではないかと思うのです。それは信仰の強要ではなく、読者に対する真実の愛の表れだからと思うのです。

これを読んで、以前のブログ記事から私の思いが変わったところは、コリンズ氏が深い考察のもとに「有神論的進化論」を支持するに至ったのだということです。他はおおむね、2年前の記事にあるのと考えは変わらないのですが、それでも上記に書いたように意識を変えられた部分もあり、ますます謙虚にそれでいて真摯に科学にとりくみ、そして慎重に思慮深いことばをもって科学をするものとしての信仰を弁明していきたいと思いました。

ゲノムと聖書:科学者、〈神〉について考えるBookゲノムと聖書:科学者、〈神〉について考える


著者:フランシス・コリンズ

販売元:エヌティティ出版
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2010年10月15日 (金)

ダライ・ラマ14世、スタンフォードで「思いやり」を語る

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以前、「思いやりを科学する?」という内容のブログ記事で紹介しましたが、スタンフォード大学はダライ・ラマ14世から寄付を受けて、思いやり科学研究センターのようなものを立ち上げています。それで、今回、ダライラマ氏がスタンフォードに講演に来るということで、チケットを入手して行ってきました。

〜〜〜〜〜【ダライラマ14世の講演の抜粋】〜〜〜〜〜〜〜〜
1:自己中心は、正直な心も信頼出来るような人格も生み出しません。
2:自分が幸せになるために、他人の利益になるようなことを心がけるべきです。
3:人間はほ乳類。母の愛を受けて育ちます。私(ダライラマ氏)もこれが他者への愛のモデルになっているのです。
4:「私が」「私の」「私に」を多用する自己中心の人は心の扉を閉ざします。そしてコミュニケーション不足になってしまいます。そうなると血圧があがり、心筋梗塞になっって死んでしまうのです。
5:科学技術は人々の生活を豊かにしてきました。これからは脳科学を通じて宗教がこれまで演じてきた役割を研究すべきです。
6:仏教は創造主を認めません。自分が自分の創造主であるので自己創造のすべを探求します。なにかを探求するという点では、仏教も科学も同じなのです。
7:自分が傷みを覚える時も、他者の傷みに同調するときも、脳で発火する箇所は同じ。脳って意外と馬鹿なんじゃないかと思ったりします。
8:脳は原因によってアウトプットを変えません。泣いても笑っても涙が出ます。泣く時は左目、笑う時は右目から涙を出すような指令は送りません。
9:誰かの態度に自分の態度を影響させてはなりません。「私は幸せになる権利があり、この人も幸せになりたいはず」と思うと敵にも思いやりを示すことができるのです。
10:不正を持ってあなたを支配しようとする者は、やがてはその責めを自ら背負わないといけないのです。
11:動機は大切です。人をだますための微笑みは暴力。逆に愛に基づく厳しい言葉や態度は尊いものです。
12:思いやりを教育するのには、かつては家庭や宗教に役割があったが、今の時代は世俗的な教育機関が担う役割が重要になってきています。(→注:これは、正直、耳を疑ったのですが。スタンフォード大学へのリップサービスと取りましょう。)
13:力で身体を縛っても、心は縛れません。人の心を変えるのは思いやりです。
14:違う考えをもつ人を尊敬すべきです。
15:自分にできることをやり、手の及ばないことは祈ることです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上のような内容でした。
集まった聴衆は、ほれぼれとした面持ちで氏を見つめて熱心に聞きいっていました。
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私としては、上の太字の部分のように(文章全体ではない)同意できる内容もあったのですが、やはり聖書の価値観とはかなり異なります。私としては、宗教には共通点が多いとはとてもいえないように思いました。少なくともアメリカ人と日本人くらい違います。

氏が「思いやり」を語るのを聴きながら、その話のあとに心に冷たさを感じたのは私だけではないかもしれません。いや、とくに私の場合はその冷たさを余計に感じ取ったのかもしれないです。それはダライ・ラマ14世が冷たいというのではなくて、彼の説いている教えにある種の限界があるからだと思います。

その理由は、二つあると思います。

【理由1:愛という出発点が語られていない】
クリスチャンは自分は創造主なる神に愛されている、こんなにも愛されている、そういうところをスタート地点になっています。それは、二千年前にキリストがわたしのために十字架についてくださったという過去形で終わるものではなく、今もキリストは生きて、聖霊がともにいて下さるということを日々確認しながら生きています。自分が幸せになるために、とか、自分が愛されるためにとかいうのではなく、自分が幸せだから、自分は愛されているから他者を愛したいと思うのがクリスチャンの利他的な行動に結びついているのです。
ダライラマ14世も実は、そういう愛の必要性を知っているように思います。そのスタート地点を母から受けた愛に求め、今も母から受けた愛をしっかり握りしめることで自分を保っておられるようです。

【理由2:ではどうすれば?という問いに答えていない】

思いやりの心を感じても、行動に移せないことがある。
それは思いやりが足りないのか?
または別の何かが必要なのか?

こういう質問が出ていました。
その答えは上記の15の「やれることをやればよい」でした。司会者(スタンフォード大学 思いやりの科学研究センター長)も最後にそのように締めくくっていました。
おそらく聴衆は「こういうことは誰でも知っている、でもできない。どうすればいい?」という問いに答えを与えられずに、「ほおっておかれた感」をもったかもしれません。

聖書にはこのようなことを使徒パウロが書いています。

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。 ・・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7:19-24)

同じ質問をもし、イエスにぶつけたら、どのように答えるでしょうか?
まずイエスは、このように「思いやりを行動に移したいけれど、やはり自己中心の心があって行動に移せない」と苦しむ私たちにこのように声をかけてくださいます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイの福音書11:28-29)

また、そんなに難しいのなら誰が天の御国に入れるのでしょう?という弟子たちの問いに対して、

それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。(マルコの福音書10:27)

とも言っています。つまり、神ご自身が、私たちを通して事を行ってくださるのだということです。
私たちクリスチャンの内に宿ってくださっている聖霊が、私たちを通して他の人を愛するにまかせることです。神の御言葉に聞き、祈り、そして日々神とともに歩む生活をするなかで、神が私たちを通して働かれるのをゆるすこと、それが私たちにできる最善な方法なのです。

だから、上記のような叫びに続いて使徒パウロはこのように続けています。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ人への手紙7:25)

だから、「どうすればいい?」という質問をイエスに持って行くとこのように答えてくださるはずです。

”私にまかせなさい。ただ、あなたが私を迎え入れ、私があなたを通して働くことができるように心を開いて私をあなたの主として従いなさい。”

この答えを聴いていない人は世界の中でも非常に多いのです。
今日の講演に来ていた聴衆の多くは世界トップレベルのスタンフォード大学の学生だったり、シリコンバレーに住む富裕層だったりするのです。しかし、そのような何千人もの聴衆が歩いて会場を後にする中を歩きながら、彼らの心に喜びはなく、本当にみんなが羊飼いのいない羊のように彷徨っているように思いました。

この羊の群れを愛し、緑の牧場へと憩わせてくださる羊飼いなるキリストが本当に必要なのだと思いました。

わたし(キリスト)は、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10:11)
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2010年10月13日 (水)

あるクリスチャンが考える結婚

このブログの目的のひとつは、聖書に書かれてある神様について知ってもらったり、聖書的価値観を紹介するということです。これまでいろんなことを書いてきましたが、結婚についてはまだ触れたことがありませんでした。以下に書くことは、結婚してから思いはじめたことではなく、妻nori-tanとお付き合いをはじめるときに教えられたことです。

普通、結婚について考えるときに考えることは、まず自分がどのような人生を歩みたいと思っているか、そのうえで、その助けになってもらえる相手は誰かということではないでしょうか?クリスチャンであっても、同じように考える傾向があって、自分が神に与えられている人生のビジョンは何か、そのうえで、その助けになってもらえる相手は誰かという下線の部分が変わっただけで神様を知っていてもいなくてもそれほど変わった感じはしません。
私もそのように考えていて、自分は神に召されている、医療を通じて人々に神の愛を伝えていく役割が与えられている、と言いながら、当時おつきあいしていたクリスチャンの女性にそう語り「僕との結婚を考えてくれるんやったら・・・」みたいなことを平気で言っていました。本当に相手のことを顧みない身勝手な態度で、どれだけ彼女の心を傷つけたことかわかりません。

なので、その方からは「hide-tanのビジョンに適うような私ではないから」と言われて、お付き合いが絶えたのでした。それで、「神様、私に与えられたビジョンにふさわしい誰かと出会わせてください」と再び祈りはじめました。そんなときに出会ったのがnori-tanでした。

出会ってから、三ヶ月間は自分がnori-tanにアプローチしてもよいのか毎日祈り続けました。
そこで教えられたことが、聖書の学びから、そして祈りの中で教えられたことが三つありました。
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まず第一に、配偶者となるべき方が神様にとってどのような存在なのかということを考えることです。
どのような人もイエスが栄光の立場から十字架の道へと歩ませた、そのように貴重な存在です。神が愛のかぎりをつくして、大切に守っている存在なんです。まずはそのように相手を見ること、そこが出発点でした。

第二に、人の弱さを認識し、決してその人を傷つけないと決心することでした。
人というのはとても傷つきやすい弱い存在かもしれないということでした。

nori-tanのことを祈っているときに、イエスさまがとても大事そうにしまっていた宝を取り出してくる仕草をしたのです。そして、その宝というのは水晶のようなものだったのですが、やがてそれが悲しそうな幼い女の子に変わったのです。当時のnori-tanの快活な様子からは想像できないような姿でした。
(その後、幼い頃にいじめられていたことを聞かされました)

「あなたは本当に、私の宝を大切にしてくれるのか?」

イエスさまの目がそのように語っていたのです。
神が大切にしておられるその人を、伴侶としてお預かりするときに、まさにキリストが愛したような愛、すべてを捨ててくださった愛で自分もその人を愛することがみこころだと、そのときにわかりました。

だから、最低でも、自分が築き上げてきたものや(これが神から与えられたビジョンだと思って)追い求めてきた夢でさえも、その人のためなら捨てることができるという思いは結婚には必要なのでは、と思うようになりました。そしてそれはやがて必要になるということも20代前半の私にもすぐにわかりました。なぜかというと、その人が結婚後すぐに大きな病気や怪我をして、自分はそのために仕事や奉仕を犠牲にしたりするかもしれない。また神様がその人を用いる計画があって、どこか遠くへ行かないといけないようになるかもしれない。そんなふうに幸も不幸もともにしないといけないからです。

第三に、そのように神のみこころにかなった愛に基礎を置いている夫婦を主がお用いになるということです。前述の様なときに「私にはビジョンがあるから、病気になったあなたを去らねばなりません」という人を神が用いになることはないと思います。
クリスチャン夫婦の愛は、キリストと教会の関係を表していますから、それはすべてを与えあい、ひとつに結びあい、そして永遠に続くものであることが理想で、そのように歩む夫婦を主はお用いになるのだと思うんです。実は私は”結婚はビジョンのための手段”と思っていて、それは正しく、それを理解してくれる誰かを求めていたのですが、今はそのような考えの中に”ビジョンのためなら、結婚を犠牲にする”という危険な響きが含まれる可能性を感じます。

だからこの人と結婚するのがよいかどうかを考える時に、相手を神様の視点から見て愛し、自分を相手に与えるのがその人にとってよいことかを祈り求めていくことがこれから結婚を考えている方にとって大切なのではと思ったりします。

実は、そのように思って結婚している私もときどき、そのような視点や覚悟のようなものについての意識が薄れるときがあります。日々そのような自分と向かい合いながら、神の視点で人を見ること、弱さを受け入れて相手を傷つけないように細心の注意を払うこと、そして、自分のための何かを相手に求めるのではなくて無条件で相手に自分を与えていくこと。

「あるクリスチャン」である私が結婚のことを考えるとき、この三点を思い出すようにしたいと思っています。

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2010年10月 1日 (金)

クリスチャンとして、医療人として

クリスチャンとして信仰を持ち続けること、少なくとも神への信仰を生活の最優先事項にしてしまうことが、なにかのプロフェッショナルとしてのキャリアを積む上で障害になるのでは?と思うことってないでしょうか?

今日は、そんなことを考えているうちに導かれた聖書箇所があるので、ちょっといろいろ考察してみたいと思います。

〜さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」〜 (ルカの福音書10:38-42 新改訳)

医療人としてここを読む時に、なにかジレンマのようなものを、私は感じます。でもそのジレンマはどういう心から生じるのでしょうか?
「そんなこと言っても、聖書読んだり祈ったり、礼拝や交わりに参加しても手技は身に付かないし、知識も増えへんやん。」
これは、本当にもっともらしいです。今は私は研究ばかりの生活ですが、それでも、
「いくら神様でも、僕が研究しているような刺激を与えれば細胞に発現したり分泌したりする物質がどうふるまうかとか、どういう手法が疾患のメカニズムの解明に役立つかまではわからんやろ。やはり鬼のように実験しまくらないと・・・」と思うこともないことはないです。

でも、本当にそうでしょうか?
たしかに、挿管の仕方やCVカテの入れかた、全身管理のノウハウなどを直接教えてくれることはありません。
研究でも、ここはどの分子に注目して、どの抗体やプライマーを使ってやればいいか教えてはくれません。
ハイレベルなディスカッションになったときにイヤフォンから「こう答えなさい」という指示もくれません。

だからといって、私たちが働けるように身体を維持して下さり、患者さんや同僚との関係を築いていく手助けをしてくださり、様々な人々との出会いや職場環境をコーディネイトしてくださっている神様との語らいや交わりを後回しにしてよいはずはないと思います。

ここで、イエス様は「どうしても必要なことは一つだけ」と言っておられます。
それは、「神とともに歩む」ということだと思います。

私は研修医一年目のころ、どうしても手技がうまくならなくて悩んだことがありました。
患者さんや親御さんからの信頼を勝ち得ずに泣いたこともありました。

でも、そのときに気づいたのは「自分が立派になること」にばかり集中している自分でした。
神とともに歩むことを忘れていたのです。そして、神とともに歩むということは、どこまでも勤勉になり、どこまでもへりくだり、見返りや人の目を気にせずに与えられたことがらを忠実にこなすことにつながってくるのです。それに気がついたことが私にとっては大きな転機でした。
自分が立派な医療人となるために・・・というだけなら、たとえクリスチャンであっても神様の助けを確信できません。
でも、患者さんの苦痛を取り除くために・・・という気持ちが心をしめているなら、神様の助けを確信してゆだねて歩んで行くことができます。
自分を磨いて、自分の力で医療を行うのではなく、神の前に人の前にへりくだり、主イエスご自身が自分を通して働いてくださるのを願う医療人でありたいと思うのです。そして、この後者の提供する医療は前者の提供する医療に劣ることなどまったくないと私は実感していますし、多くの先輩方も同意して下さると思います。

自分は度胸がなく、不器用で、しかも鈍いと思っていたし、今もそう思うのですが、患者さんへの説明の前に祈り、外来を始める前に祈り、手技の前に祈り、赤ちゃんの蘇生に立ち会う際にも祈り、することで、そのような自分への不安感から解放されて仕事へ向えます。そして勤務を終えるたびに主に感謝します。そして、主が働いてくださった結果は自分以上に周りの目からも明らかなことが多いのです。

大学院の研究も、本当に遅々たる歩みで、優秀な他の院生たちの中で、肩身の狭い思いをしていました。
しかし、神様は不思議な導きで想像以上の論文を仕上げさせてくださり、誰もが認める業績で卒業することができたのです。指導教官から「ふつうなら、研究がうまく進まずに、無理して体調を崩して入院したあの時点でやめている。よくやった。」と言われた時に、主が私を背負って下さっていたのだと思いました。

ここで、とくに若いクリスチャンの皆さんに問いたいのです。

医療人として、あるいは社会人として、自分を磨くために神を脇に追いやりたいとお思いでしょうか?
自分だけでなく他の人々をも窮地に立たせるところまで、神なしでやれるところまでやってみたいとお思いでしょうか?

あなたを造り、愛し、ときには背負って下さる栄光の子羊に向い、「主よ。私を偉大な医療人としてください。私に満足感と達成感を味合わせ、患者さんと同僚から尊敬を得られますように!そしたら、少しはあなたのことも宣伝しておきます。」と祈るでしょうか?

このように祈るかどうかは、個人の自由です。

でも、私はこれからの人生、そのように神を自己実現のために利用するような祈りをしたくありません。
神が自分を通してなされたことを、あたかも自分の力でやったかのように振る舞いたくありません。

私は、ほふられた子羊イエスの御前にひざまずいて聴診器を神に返し、そのうえで神から再びそれを受け取りたいです。

自分がある職業人(私の場合は医師/研究者)として神に召されたということは、神がこの世でなす業をなしていくことです。
身を低くして人に仕え、勤勉に真摯に仕事に励み、神に栄光をお返しすることです。
そのように歩むなら、神はどんな局面でも私たちとともにいて下さり、どんな祈りにも耳を傾けてくださるはずです。

もし、神をそのような地位に落としていることに気がついて悔い改めるなら「アーメン(そのとおりです)」と心で唱えてください。
私も実は神をそのようにしか見ていなかった、でも、これからは口先だけではなく本当に神を主として崇めて歩みます!と祈ってください。

私たちは忙しさという海の奥深くに潜ってしまい、神から心が離れて、光が届かなくなってしまうことがあります。そして上がれなくなってしまうようにさせる重り、それがこのように「高ぶった心」なのです。それを正直に認め、取り除くべきだと私は思います。

〜人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。(詩篇37篇23-24節 新改訳)〜

神とともに歩む人生とは、このような人生です。
もし、そのような人生を歩みたいとお思いでしたら、どうか聖書を開いてみてください。
神様に祈ってみてください。

「私はあなたを知らずに歩んできました。しかし、あなたがともに歩んで下さる神であると聞きました。どうか、私とともに歩んで下さい。もっとあなたのことを教えてください。アーメン」

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