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2010年10月 1日 (金)

クリスチャンとして、医療人として

クリスチャンとして信仰を持ち続けること、少なくとも神への信仰を生活の最優先事項にしてしまうことが、なにかのプロフェッショナルとしてのキャリアを積む上で障害になるのでは?と思うことってないでしょうか?

今日は、そんなことを考えているうちに導かれた聖書箇所があるので、ちょっといろいろ考察してみたいと思います。

〜さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」〜 (ルカの福音書10:38-42 新改訳)

医療人としてここを読む時に、なにかジレンマのようなものを、私は感じます。でもそのジレンマはどういう心から生じるのでしょうか?
「そんなこと言っても、聖書読んだり祈ったり、礼拝や交わりに参加しても手技は身に付かないし、知識も増えへんやん。」
これは、本当にもっともらしいです。今は私は研究ばかりの生活ですが、それでも、
「いくら神様でも、僕が研究しているような刺激を与えれば細胞に発現したり分泌したりする物質がどうふるまうかとか、どういう手法が疾患のメカニズムの解明に役立つかまではわからんやろ。やはり鬼のように実験しまくらないと・・・」と思うこともないことはないです。

でも、本当にそうでしょうか?
たしかに、挿管の仕方やCVカテの入れかた、全身管理のノウハウなどを直接教えてくれることはありません。
研究でも、ここはどの分子に注目して、どの抗体やプライマーを使ってやればいいか教えてはくれません。
ハイレベルなディスカッションになったときにイヤフォンから「こう答えなさい」という指示もくれません。

だからといって、私たちが働けるように身体を維持して下さり、患者さんや同僚との関係を築いていく手助けをしてくださり、様々な人々との出会いや職場環境をコーディネイトしてくださっている神様との語らいや交わりを後回しにしてよいはずはないと思います。

ここで、イエス様は「どうしても必要なことは一つだけ」と言っておられます。
それは、「神とともに歩む」ということだと思います。

私は研修医一年目のころ、どうしても手技がうまくならなくて悩んだことがありました。
患者さんや親御さんからの信頼を勝ち得ずに泣いたこともありました。

でも、そのときに気づいたのは「自分が立派になること」にばかり集中している自分でした。
神とともに歩むことを忘れていたのです。そして、神とともに歩むということは、どこまでも勤勉になり、どこまでもへりくだり、見返りや人の目を気にせずに与えられたことがらを忠実にこなすことにつながってくるのです。それに気がついたことが私にとっては大きな転機でした。
自分が立派な医療人となるために・・・というだけなら、たとえクリスチャンであっても神様の助けを確信できません。
でも、患者さんの苦痛を取り除くために・・・という気持ちが心をしめているなら、神様の助けを確信してゆだねて歩んで行くことができます。
自分を磨いて、自分の力で医療を行うのではなく、神の前に人の前にへりくだり、主イエスご自身が自分を通して働いてくださるのを願う医療人でありたいと思うのです。そして、この後者の提供する医療は前者の提供する医療に劣ることなどまったくないと私は実感していますし、多くの先輩方も同意して下さると思います。

自分は度胸がなく、不器用で、しかも鈍いと思っていたし、今もそう思うのですが、患者さんへの説明の前に祈り、外来を始める前に祈り、手技の前に祈り、赤ちゃんの蘇生に立ち会う際にも祈り、することで、そのような自分への不安感から解放されて仕事へ向えます。そして勤務を終えるたびに主に感謝します。そして、主が働いてくださった結果は自分以上に周りの目からも明らかなことが多いのです。

大学院の研究も、本当に遅々たる歩みで、優秀な他の院生たちの中で、肩身の狭い思いをしていました。
しかし、神様は不思議な導きで想像以上の論文を仕上げさせてくださり、誰もが認める業績で卒業することができたのです。指導教官から「ふつうなら、研究がうまく進まずに、無理して体調を崩して入院したあの時点でやめている。よくやった。」と言われた時に、主が私を背負って下さっていたのだと思いました。

ここで、とくに若いクリスチャンの皆さんに問いたいのです。

医療人として、あるいは社会人として、自分を磨くために神を脇に追いやりたいとお思いでしょうか?
自分だけでなく他の人々をも窮地に立たせるところまで、神なしでやれるところまでやってみたいとお思いでしょうか?

あなたを造り、愛し、ときには背負って下さる栄光の子羊に向い、「主よ。私を偉大な医療人としてください。私に満足感と達成感を味合わせ、患者さんと同僚から尊敬を得られますように!そしたら、少しはあなたのことも宣伝しておきます。」と祈るでしょうか?

このように祈るかどうかは、個人の自由です。

でも、私はこれからの人生、そのように神を自己実現のために利用するような祈りをしたくありません。
神が自分を通してなされたことを、あたかも自分の力でやったかのように振る舞いたくありません。

私は、ほふられた子羊イエスの御前にひざまずいて聴診器を神に返し、そのうえで神から再びそれを受け取りたいです。

自分がある職業人(私の場合は医師/研究者)として神に召されたということは、神がこの世でなす業をなしていくことです。
身を低くして人に仕え、勤勉に真摯に仕事に励み、神に栄光をお返しすることです。
そのように歩むなら、神はどんな局面でも私たちとともにいて下さり、どんな祈りにも耳を傾けてくださるはずです。

もし、神をそのような地位に落としていることに気がついて悔い改めるなら「アーメン(そのとおりです)」と心で唱えてください。
私も実は神をそのようにしか見ていなかった、でも、これからは口先だけではなく本当に神を主として崇めて歩みます!と祈ってください。

私たちは忙しさという海の奥深くに潜ってしまい、神から心が離れて、光が届かなくなってしまうことがあります。そして上がれなくなってしまうようにさせる重り、それがこのように「高ぶった心」なのです。それを正直に認め、取り除くべきだと私は思います。

〜人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。(詩篇37篇23-24節 新改訳)〜

神とともに歩む人生とは、このような人生です。
もし、そのような人生を歩みたいとお思いでしたら、どうか聖書を開いてみてください。
神様に祈ってみてください。

「私はあなたを知らずに歩んできました。しかし、あなたがともに歩んで下さる神であると聞きました。どうか、私とともに歩んで下さい。もっとあなたのことを教えてください。アーメン」

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