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2010年10月13日 (水)

あるクリスチャンが考える結婚

このブログの目的のひとつは、聖書に書かれてある神様について知ってもらったり、聖書的価値観を紹介するということです。これまでいろんなことを書いてきましたが、結婚についてはまだ触れたことがありませんでした。以下に書くことは、結婚してから思いはじめたことではなく、妻nori-tanとお付き合いをはじめるときに教えられたことです。

普通、結婚について考えるときに考えることは、まず自分がどのような人生を歩みたいと思っているか、そのうえで、その助けになってもらえる相手は誰かということではないでしょうか?クリスチャンであっても、同じように考える傾向があって、自分が神に与えられている人生のビジョンは何か、そのうえで、その助けになってもらえる相手は誰かという下線の部分が変わっただけで神様を知っていてもいなくてもそれほど変わった感じはしません。
私もそのように考えていて、自分は神に召されている、医療を通じて人々に神の愛を伝えていく役割が与えられている、と言いながら、当時おつきあいしていたクリスチャンの女性にそう語り「僕との結婚を考えてくれるんやったら・・・」みたいなことを平気で言っていました。本当に相手のことを顧みない身勝手な態度で、どれだけ彼女の心を傷つけたことかわかりません。

なので、その方からは「hide-tanのビジョンに適うような私ではないから」と言われて、お付き合いが絶えたのでした。それで、「神様、私に与えられたビジョンにふさわしい誰かと出会わせてください」と再び祈りはじめました。そんなときに出会ったのがnori-tanでした。

出会ってから、三ヶ月間は自分がnori-tanにアプローチしてもよいのか毎日祈り続けました。
そこで教えられたことが、聖書の学びから、そして祈りの中で教えられたことが三つありました。
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まず第一に、配偶者となるべき方が神様にとってどのような存在なのかということを考えることです。
どのような人もイエスが栄光の立場から十字架の道へと歩ませた、そのように貴重な存在です。神が愛のかぎりをつくして、大切に守っている存在なんです。まずはそのように相手を見ること、そこが出発点でした。

第二に、人の弱さを認識し、決してその人を傷つけないと決心することでした。
人というのはとても傷つきやすい弱い存在かもしれないということでした。

nori-tanのことを祈っているときに、イエスさまがとても大事そうにしまっていた宝を取り出してくる仕草をしたのです。そして、その宝というのは水晶のようなものだったのですが、やがてそれが悲しそうな幼い女の子に変わったのです。当時のnori-tanの快活な様子からは想像できないような姿でした。
(その後、幼い頃にいじめられていたことを聞かされました)

「あなたは本当に、私の宝を大切にしてくれるのか?」

イエスさまの目がそのように語っていたのです。
神が大切にしておられるその人を、伴侶としてお預かりするときに、まさにキリストが愛したような愛、すべてを捨ててくださった愛で自分もその人を愛することがみこころだと、そのときにわかりました。

だから、最低でも、自分が築き上げてきたものや(これが神から与えられたビジョンだと思って)追い求めてきた夢でさえも、その人のためなら捨てることができるという思いは結婚には必要なのでは、と思うようになりました。そしてそれはやがて必要になるということも20代前半の私にもすぐにわかりました。なぜかというと、その人が結婚後すぐに大きな病気や怪我をして、自分はそのために仕事や奉仕を犠牲にしたりするかもしれない。また神様がその人を用いる計画があって、どこか遠くへ行かないといけないようになるかもしれない。そんなふうに幸も不幸もともにしないといけないからです。

第三に、そのように神のみこころにかなった愛に基礎を置いている夫婦を主がお用いになるということです。前述の様なときに「私にはビジョンがあるから、病気になったあなたを去らねばなりません」という人を神が用いになることはないと思います。
クリスチャン夫婦の愛は、キリストと教会の関係を表していますから、それはすべてを与えあい、ひとつに結びあい、そして永遠に続くものであることが理想で、そのように歩む夫婦を主はお用いになるのだと思うんです。実は私は”結婚はビジョンのための手段”と思っていて、それは正しく、それを理解してくれる誰かを求めていたのですが、今はそのような考えの中に”ビジョンのためなら、結婚を犠牲にする”という危険な響きが含まれる可能性を感じます。

だからこの人と結婚するのがよいかどうかを考える時に、相手を神様の視点から見て愛し、自分を相手に与えるのがその人にとってよいことかを祈り求めていくことがこれから結婚を考えている方にとって大切なのではと思ったりします。

実は、そのように思って結婚している私もときどき、そのような視点や覚悟のようなものについての意識が薄れるときがあります。日々そのような自分と向かい合いながら、神の視点で人を見ること、弱さを受け入れて相手を傷つけないように細心の注意を払うこと、そして、自分のための何かを相手に求めるのではなくて無条件で相手に自分を与えていくこと。

「あるクリスチャン」である私が結婚のことを考えるとき、この三点を思い出すようにしたいと思っています。

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コメント

みっしょん(ねこまま)さん
コメント感謝です。
本当に神様は素晴らしいですね。
神様は私たちの弱さの中に働かれますからね。
自分の弱さを認めて神により頼んで歩むことが信仰者としての力強い歩みにつながるのだと思います。

投稿: hide-tan | 2010年10月14日 (木) 09時09分

すばらしいわかち合いをありがとうございます。
霊的に成熟していることが結婚を考える時に必要だな、とこのごろ実感しています。
カトリックでもマリッジ・エンカウンターなどで、いわゆる結婚講座よりも踏み込んだ内容のプログラムがありますが、あまり普及していません。
それに、結婚してから何十年もたってから壁にぶち当たることもありますよね。絶えず霊的に刷新されていることが大事ですね。
神さまは人間の弱さをやさしく示してわからせてくださって、その中から良いものを与えてくださることを信じていますが、いくつになっても弱い自分にふりまわされてしまいます。今、ちょっと辛い思いの中にいる私の心に響くわかち合いでした。

投稿: littlemission | 2010年10月14日 (木) 07時57分

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