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2011年2月 1日 (火)

ファミリーバイスタ(マルコの福音書6章-1-)見なきゃ信じない、でも、見ても信じない。

今日(1月31日)の家族での聖書の学びは、マルコの福音書6章1-6節でした。

様々な場所で奇跡を行い、そして権威ある教えで人々の評判を博していたイエスが郷里ナザレで歓迎されないという箇所です。人々はイエスの評判を聞き、そして教えに感嘆しながらも「あれは大工のせがれじゃないか。昔から知っとる。」と言って、イエスを神から遣わされた人として認めようとしませんでした。

私たち人間は、「神を見せよ。この見さえすれば信じてやろう」ということはないでしょうか

でも、ナザレの人々は、神から直接語られるメッセージを聞き、「この教えは他と違う」と認めながら、また数々の奇跡を実際に見聞きしながら信じようとしなかったのです。

見なきゃ信じないと人は言います。しかし、見なきゃ信じないという人の多くは見ても信じないのです。そして神様との生きた関係に入ることができずに滅んでいってしまうのです。イエスを目の前に見ながらです。なんと悲しいことでしょうか。

そしてイエスは、彼らの不信仰のゆえに多くの奇跡を行うことができなかったとあります。
神は全能の神です。なんでも出来ます。しかし、神はあえて人々の信仰と祈りを通してことを行うように定めておられるのです。

私たちはまず信じなければなりません。
信じれば見えるようになりますし、神様のすばらしさを経験して生きていくことができます。

イエスの弟子のトマスは復活の主イエスが現れたときにその場にいませんでした。
彼は他の弟子たちの話を聞いても、自分で見るまでは信じないと言ったのでした。

そこでイエスはトマスに現れてこう言われたのです。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いである」(ヨハネ20:29)

また、こうも言われました。
「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)

わたしたちの周りには神様が造られたものであふれています。
美しい自然をみるにつけ、これが偶然にできたものだと考えるには無理があるはずなのですが、私たちは「いや。これは数々の偶然の重なりによって出来たのだ。神などいるはずはないのだ。」と言い続けるのです。

また1900年もの間、人々に読み継がれ続けている聖書について、よく調べもせずに「あれはインチキだ。クリスチャンのでたらめさを見ればわかる。」と言い続けるのです。

イエスは人々の不信仰を驚かれたと書かれてあります。
これほどにまではっきりと神が具現化されているイエスを見ても信じない人々のある種の「信仰」に驚かれたのかもしれません。

私たちにはこんなにはっきりと神の創造の業が提示されています。
またイエスの十字架については、誰もが知っているストーリーで、イエスが他のどのような歴史的上の偉人とは違うということはまったくもって明らかなことです。

こんなにはっきりとご自身を現されている神を認め、信じて生きていきましょう。

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