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2011年2月

2011年2月21日 (月)

ともに貧しくなられたイエス

先日の男どものバイブルスタディ(毎回男性のみ10名くらいで聖書を読んでディスカッションしています)で「気前よく捧げる」ということが話題になりました。

誰かに対して、気前よくなにかを与えたことがあるかという質問に、
ホームレスの人に食事を与えたとか、朝食代を出してあげたとかいう経験が話されました。
そして、その日のディスカッションをリードしていたmikeが、
「たとえ、お金とかを持っていなくても、声をかけてあげるとか、話を聞いてあげるとかでもその人の助けになると思う。そしてその人のために祈るのも。」
と言って、締めくくろうとしたのです。

そこで、わたしは少し前の礼拝説教の内容を紹介しました。

明日の生活にも困っている人々がこの教会にいる中で、困窮状態にある人に裕福な人が挨拶をする。そこでお金持ちの方が思う。「ああ、いいことをした。彼らは社会の底辺にいるけれども私のようなものに微笑みかけられた。彼らはパンよりもっとよいものを与えられたはずだ」と。 そのように思う人がいれば、その人は自分をサインを求められるようなセレブな有名人とでも思っているのか。そのような人からどうやって神への信仰がいのちを生み出すのだと伝えられるのか。行いの伴わない信仰は死んでいるとはまさにこのようなことなのだ。

mikeはたまたまその説教を聞かなかったらしいのですが、それを聞いたことのある他のメンバーはうなづいて聞いていました。そこで、わたしはみんなに聞いたのです。

もし『わたしはホームレスです。少しでもご援助いただけると幸いです』と書いた札をもって路上で立っている人に「お金は持っていないからあげられないけれども、何をしてほしいですか?」と訊いて、”じゃあ、わたしと一緒にこの札をもって立っていてください”と言われたらどうしますか?

と訊いてみたのです。わたしも含めて、神を心から信じて、なんとかキリストのように歩みたいと願っている大人の男性10人の答えは全員一致で

”できない・・・”

でした。それで、わたしは再度質問してみたんです。

「じゃあ・・・イエスさまは?」

”したと思う。いや。絶対した!”

まさに、キリストはそのようなお方です。

主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。(2コリント8:9)

と聖書にあるとおり、キリストは貧しい者となられ、貧しい者のところに行き、彼らに神の福音を説き、病を癒し、そして時には養ったりしたのでした。そして貧しい人々を顧みないばかりか、人々から搾取して権威のうえにあぐらをかいている宗教指導者たちを公然と非難したのです。それが彼らの反感を買い、十字架へとつながったのでした。キリストは「少し貧しい人の気持ちでも味わってみようか」と思って貧乏体験したものでもなく、悟りを開くために修行のためにしたのでもありません。彼らとともに貧しくなり、貧しい者の心に寄り添い、そして貧しい者を代表して声をあげたのでした。それは、文字通りいのちをかけてやった行為だったのでした。

たしかに「札をもって立つ」という行為を一緒にしても何の助けにもならないです。
でも、貧しい人々の声を理解し、その声を代弁する働きというのが「ともに貧しくなる」という意味ではないかと考え始めています。
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先日、わたしは無医村に住む日系ブラジル人のために巡回診療をされている医師と一緒に食事をさせてもらう機会を得ました。その先生は、日本の大学でこの状況について講義して学生ボランティアを募り、そして医療関係の企業を回って寄付を求めるということをしてきたところでした。この先生はふたつの大学の違う講座で教授に就任しておられる方です。そのように社会的な地位のある方なのに、自分のためではない、誰かのために学生に頭を下げ、企業の担当者に頭を下げ、そしてブラジルの奥深くに住む日系ブラジル人という「同胞」のために静かに声をあげておられるのです。それは、イエスが神の御子、王の王であるのに貧しくなられて歩まれたのと重なる姿です。

貧しい人に施しをすることができる善人はたくさんいるのです。
しかし、貧しい人とともに貧しくなることのできる人は少ない。

イエス・キリストは、そのように貧しくなられ、貧しい人々のため、虐げられている人々のための声となられた方でした。もしクリスチャンが自分の人生の中にキリストを求めるのであれば、貧しい人、虐げられている人、病んでいる人、悲しんでいる人、罪を悔いている人のところに行くべきなのだと思います。キリストは今でもそこに行きたいと願っておられ、そこで待っておられるからです。

聖フランチェスコ、マザーテレサ、賀川豊彦はそのようなイエスの足跡を辿った人たちであったのです。

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「神は最も卑しき人々の中に住む。神は監獄の罪人の中でほこりの山の上に腰をおろす。非行少年と共に神は戸口に立ち、パンを乞う。神は乞食と共に施しの場へ向かう。神は病人の中にいる。神は職業紹介所の前で失業者と共に列を成す。故に、神と出会いたい者は、寺院へ行く前に独房を訪れよ。聖書を読む前に、戸口に立っている乞食を助けよ。」ーー「神を求めて」(On Finding God) 賀川豊彦著


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Big brother, little brother. 大きい兄ちゃん、小さなおとうと

A big brother should not push around their little brother.
The little brother should not fight back against your bigger borther. Otherwise you get more trouble. If something like that happens, just let your mom and dad know what had happened.

大きいお兄ちゃんは小さい弟をいじめてはいけません。小さい弟はお兄ちゃんにいじめられたらやりかえしてはいけません。もっといじめられるからです。そういうときはパパとママになにがあったかを知ってもらいなさい。

Likewise, a strong Christian should never be hard on a weak Christian.
The Weak Christian may not want to judge the strong Christian.
Let God know everything about the situation and He will take care of it for you.

だから、強いクリスチャンは弱いクリスチャンをいじめてはいけない。弱いクリスチャンも強いクリスチャンを裁いてはいけない。祈って神に知っていただくことです。

A big brother shouldn't move off your little brother from the tricycle and put him on a big bike. A big brother shouldn't take out your little brother from the baby pool and put him into an adult swimming pool.

大きいお兄ちゃんは弟を三輪車から下ろして自分の自転車に乗せてはいけません。大きいお兄ちゃんは赤ちゃんプールから大人のプールへ弟を連れていってはいけません。

Likewise, a strong Christian should not expect a weak Christian to do the same as strong believer in Christ would do. Don't just say "You must be able to do it because I can do it." or don't judge people saying "You can't live like me because you don't believe." Don't hurt yourself by hurting your brothers and sisters in Christ.

だから、強いクリスチャンは弱いクリスチャンに「自分にできることはあなたにもできる」と言って、自分の生き方を強要してはならない。「あなたは神を信じていないからそんな生き方しかできないんだ」と言って他のクリスチャンを攻撃してはならない。それは自分を傷つけているのだ。

Having faith is not pretending to be strong. Not pretending to be good.
Admit your own weakness, admit your sinful nature. Tell God that "I can't live how I want to live. Help me!" That's faith.

信仰を持つということは、強いふりをすることではない。良い人間のふりをすることでもない。自分の臆病さを正直に認めること、自分の悪さかげんを正直に認めること。そして、自分は本当はこう歩みたいんです、でもできないんです、助けて下さい、ということを正直に神に申し上げること。

Christian should not convey a message like "I am changed by God. I am walking victoriously. Look at me!". Christian should tell a message like "Look at this God, who changes me, walk with me a long the way of my life."

クリスチャンは「神に変えられ、立派に歩んでいる私を見て下さい」というメッセージを伝えてはならない。「私を変え、私を一歩一歩、手をとって歩ませてくださっている神を見て下さい」というメッセージを伝えるべきです。
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(写真は5年前のminoriとayumi)

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2011年2月12日 (土)

ものごとを決断するとき

物事を決断するのにすべきことを二つ。 1:信頼できる情報を集める。 2:それをもとに熟考する。
物事を決断するのにしてはいけないことを二つ。 1:これが多数派だからという理由で決断する。 2:人の目から見栄えのよい方を選ぶ。
物事を決断するのにあたりまえのことを書いてみました。

これ、研究者としてもすべき/すべきでないことです。
情報を集めて結論をくだす。多数派だからという理由で結論をくださず、へんな理論を展開するやつだと思われても、自分で観察したことをしっかり吟味してそれが正しいと思ったら発表する。そうやって、大切な発見を世に送り出して来た例はいくつもあります。

こういう原則は、研究だけではなく、神がいるのか、信仰をもつか否かについてもそうです。
なにをどのように信じるかはたしかに自由だけれども、判断をくだすために情報を集めて決断しているかどうか。本当に熟考を重ねて来たかどうか。

たとえ自分が少数派で、そうしているのがヘンな奴と思われたも立ち続けられる立場かどうか。日本のクリスチャンは99%のノンクリスチャンに囲まれてもクリスチャンでいる。
日本のクリスチャンはまったく証しになっていない(つまり、神様が本当におられると信じているような生き方をしていない)とか言われるけれど、このようにクリスチャン人口が少ない中で信仰を保ち続けているのはある意味、スゴいことです。

もしこれを読んで下さっているあなたがクリスチャンでないなら、自分の周囲の99%がクリスチャンであっても信仰を否定できるかどうか。ちょっと考えてみて下さい。そういう状況でも「私はイエスを信じない」と言い続けるだけの根拠があなたの中にあるかどうか。

もしこれを読んで下さっているあなたがクリスチャンなら、世界であなたがたったひとりのクリスチャンであってもイエスを主と崇めていられるかどうか。そういう思いでキリストにむいているのかどうか。

「世界中があなたに反対しても私はあなたの味方だ」
とかいうセリフ、よく聞きますが、私にとってのイエスは
「世界中があなたが神ではないといっても、あなたは私の神です」
的な存在です。それは、このイエスが、
「世界中があなたを憎み、排斥してもわたしはあなたをなおも愛し、受け入れよう」
と言って下さるお方だからです。


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(写真:San Jose State University)


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2011年2月11日 (金)

信仰は現実逃避か?

”信仰を持つってなんか現実逃避してるんじゃないか?”
と思ったことはありませんか? でも、現実ってなんでしょう? 私たちは本当の「現実」を捉えているのでしょうか?

でも、キリストへの信仰をもつことは現実逃避ではありません。

イエスの十字架を見上げることで、現実の自分に向き合い、周囲や社会と向き合い、そして自分の使命に向き合うことができるのです。
言い換えれば、主イエスに向き合えば向き合うほど人は真正面から物事に取り組むようになるはずです。もしそうでないなら、それはイエスでない別の誰かに向いているのです。

それはどういうことでしょうか?

自分の本当の現実に向き合うのはとても勇気のいることです。
私はメガネをかけていますが、度が合わなくなってきてメガネを新調したときに鏡で自分の顔をみるのがイヤでした。きれいな顔と思っていたのが、髭のそり残しや、あばたや吹き出物やそういったあまり見えていないものが見えてきてイマイチいけてない自分が見えて来るからです。

私たちも本当の自分をじっくり見ることをためらいます。
見たくない自分をそこに見てしまうからです。

でも本当の自分を直視できないと「この自分と家族」「この自分と友人や同僚」「この自分と今の仕事(あるいは勉学)」との関係でどのように生きていけばいいか判断できないはずです。

そういうこと、本当は気がつくべきなのに「自分のことくらいわかっている」とか「自分は赦されたいなんて思っていない」とか言ってしまうのが人間です。そしてそんな自分から、また私たちに手を延ばしてくださている神から逃げようとして彷徨っている。人はデフォルトでそういう行動に出てしまいます。

それは私たちの中にたしかに「罪」というのが存在するからです。
自分の罪を認めないという罪がそうさせているのです。

そして人は神から逃げるためなら、本当の自分から逃げるためならどんなことでもします。
勤勉に働くし、人のために尽くすこともします。そして「自分は大丈夫だ」と自分に言い聞かせたいのです。でも神は私たちのありのままの姿で受け入れてくださるのです。大丈夫じゃないことをやってきた自分を真っ白にしてくださるのです。

でも本当に意味のある人生を送りたいのなら、まずは本当の自分に向き合わないとダメです。

そしてそれは自分が赦されているのだということを知らないと、とても恐ろしくてできないことなのです。だから聖書は語り続けているのです。神からの罪の赦しを受け取りなさい、と。

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ベイエリアにお住まいの方へ:第一第三土曜日には日本語で聖書の学びをしています。
ご興味のあるかたはお気軽にご参加ください。詳細はこちらまで。

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2011年2月 6日 (日)

夢にむけて・・・むかうにはむかっている

書類を整理していると昔、自分が書いたものがいろいろ出て来ました。

私が目指すのは「仕える医療」です。・・・子どもは手がかかるからこそ、そして最も弱い立場にあるからこそ、この子どもたちのために人生を捧げたいと思うようになりました。・・・(中略)・・・かねてから世界的視野に立った医師となりたいという思いがあ ります。将来は留学や国際学会などに積極的にチャレンジし、世界の医師と協力しあい、世界的なレベルにおいても小児医学に貢献できるような働きをしたいと 願っております。(1996年10月、医学部6年:小児科入局志望動機)

日常生活において人が何らかの急逝の症状を呈するとき、すぐにそば に医療スタッフがいたり、すぐに適切な処置がなされることはほとんどないと言ってもよいだろう。そんなあたりまえのことが病院で仕事をしている私たちに とってはあたりまえのこととして実感できていない。何らかの急性の症状を呈するとき、人はその症状が悪くなるのではないかと怯え、迫り来る病気にたいし全くの無防備ですらある。今回私はそのような現場に直面し、またそこで働く救急隊の活動を体験した。(1998年12月、研修医2年目:救急車同乗実習を終えて)

私は「手技的に簡単で副作用が少なく、しかも高くつかない。それでいて未熟児の予後を著名に改善させるような治療法」を研究したい・・・(中略)・・・私たち小児科医は過去に日の目を見ることのなかった多くの小さないのちに対する責任を果たす意味でもさらに良質な新生児医療を追求する必要があります。(2001年11月、医師5年目:大学院入学を希望するに際して)

私が全体の会議を通じて・・・感じたことは、「このように一部の西 欧諸国の経験をもとい世界の新生児医療の基準や方向性を決められてしまっても良いものだろうか?」という疑問です。やはり日本からもHot Topicsをもっと発信すべきだということです。・・・(中略)・・・日本はオピニオンリーダーの一角として発言し、世界の新生児医療 (医学)の発展に寄与すべき・・・国際会議に参加し、このような意識をもつことで一人の赤ちゃんに対する診療や、一つの研究データが世界に開かれていると いうことを再確認することができました。(2005年3月:国際学会に参加して 下の写真はその翌年での発表)

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昔の文章を読み返すと、それなりに夢の方向へ歩んでいる自分と、思っていたように進めていない自分の両方に気がつきます。方向があっていて遅い方が、はやいけれどとんでもない方向へむかっているよりもマシだと言い聞かせる。

でも、もうちょっとはよ進め、自分・・・。

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2011年2月 5日 (土)

ファミリーバイスタ(マルコの福音書6章-4-)無限の価値の一万円

2月4日の家族での聖書の学びから。
聖書箇所:マルコの福音書6:30-43
イエスが5000人を5つのパンと2匹の魚で養うという奇跡を行う箇所です。

1:イエスはわたしたちの羊飼いです。
ここで、イエスは彼のところに集まって来る群衆を「羊飼いのいない羊のように」思って憐れんだとあります。羊飼いのいない羊とはつねに命の危険に晒されている状態です。近眼で危ないところに行って崖から落ちるかもしれないし、食べるものがある場所から離れても自分で戻って来れないし、外的からも無防備です。イエスは私たちの羊飼いとなり、
ー歩むべき道を教え
ー私たちのいのちを守り、救い出し
ー私たちを養って下さいます

2:イエスはいのちのパンです。
イエスはご自身のことを「いのちのパン」であると言われました。
イエスは私たちのために十字架でご自身を私たちのために裂き、与えてくださったのです。
そしてそれは5000人の群衆の最後のひとりに至るまで届いたように、遠い時代に生きていて、遠い国に住んでいるような私たちにも届いたのです。そして、この「いのちのパン」を食べるもの、すなわちイエスさまを信じる人は永遠に生きることができるのです。

3:神様は私たちが捧げたものをその価値以上のものにして用いて下さる。
このパンと魚をささげた人は、それらを惜しいと思わなかったでしょうか?少しは思ったかもしれません。でも捧げたのです。そして神様はその捧げられたパンと魚を増やして人々を養いました。
私たちも神様のために捧げます。教会で時間を捧げ、労力を捧げ、そして献金もします。

わたしたちはそれを神様に捧げるという気持ちでいるでしょうか?
神様がそれを幾重にも増やしてくださると信じているでしょうか?

たとえば、私たちにとって1万円は大きなお金です。
それを神様にお捧げして、それを通して誰かがイエス様に導かれるために用いられて、その誰かが永遠のいのちを得ることになったらその1万円はその価値のままでしょうか?
10万円くらいの価値があったといえるでしょうか?いえ、それ以上です。
100万円くらいでしょうか?そんなちっぽけな価値ではありません。
その一万円は無限の価値を生み出す為に用いられたのです。

献金をするときに、私たちは「教会の建物の維持のため、牧師が食べていけるために使われるのだろう」と思ってしまいます。それは正しくて、同時に間違っています。それは表面上のことで、本当の意味はそうではありません。それは、その建物に集う人々のもとに誰かが身を寄せることができるためであり、そこでみことばが語られて誰かがいのちのパンに辿り着くことができるようになるためなのです。

そのような無限の価値のために私たちのものを用いて下さる神様に感謝しましょう。

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(写真:クリント・イーストウッド氏が経営しているお店, Hog's Breath Innで食べたランチ)

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2011年2月 4日 (金)

ファミリーバイスタ(マルコの福音書6章-3-)罪の風船と天国の風船

2月3日の家族での聖書の学びは、マルコの福音書6章14-29節でした。

これは子どもたちに教える時のをちょっと躊躇するところです。

イスラエルの王、ヘロデが兄弟の妻ヘロデヤを横取りし、それを非難した洗礼者のヨハネを捕らえて、そのあとヘロデヤの娘サロメに対して踊りのご褒美をやろうと言ったのがきっかけで、母の希望でヨハネの首を切り落とすことになるという記事です。

ここから学べることはたくさんありますが、今日のポイントは罪をそのままにしておくと神を拒絶することになる。神を拒絶することは自らの死を招く、ということです。ヘロデは、洗礼者ヨハネの口を塞ぐため、王としてのメンツを保つために彼を捕らえていましたが、その教えは喜んで聞いていたのです。しかし、ヨハネの度重なるすすめにも関わらず、彼はヘロデヤを妻とするという罪から離れられずに罪を握りしめていました。ヘロデは最初にヨハネの言うことを聞き入れていればよかたのですが、それを拒み、そのあと何度も拒み続けたのです。

自分の欲のほしいままにし、自分のメンツを保つことにのみ熱心であった結果、ヘロデは神のメッセンジャーであるヨハネを殺さねばならなくなったのです。神を拒絶したのです。その後、ヘロデは十字架にかけられる直前の神の御子を愚弄することになるのです。

あなたも握りしめて離さない罪はありませんか?

神様のことは好きだけど(クリスチャンだけど)、これだけは離すことができないという罪は私たちと神様の関係を壊していきます。

この罪から離れられないからキリストを信じることはできないと思っていませんか?罪から離れたらクリスチャンになれる資格ができるのではありません。罪から自由にされたい、それを可能にしてほしいという思いで十字架のみもとにくることが信仰のはじめです。

私たちは、罪と神の両方を握りしめたままではいられないのです。それは行く方向が違うからです。罪を握りしめているのならば、いつかは神の御手を離さなければならなくなるのです。

長女minori:「それってな。片方(罪)がしぼんだ風船で、もう片方(神様)がふくらんだ風船なんとちゃうん。神様の風船は天国に連れていってくれるけど、しぼんだ方を大事につかんでいる風船は天国に行けない」

とても、うまい表現です。そういうことだと思います。

また、何回も神のメッセージを聞いている、だけど今更信じるというのは格好がつかないしというのもメンツやプライドというしぼんだ風船をつかみ続けているのと同じです。他の人と比べて、品行方正で情に厚くても、イエス・キリストの域に達していないならばそれはやはり自分というしぼんだ風船を握っているのと同じです。行き先の違う風船を握りしめるのではなくて、両方の手で神の風船のほうをしっかりと握って歩んでいきましょう。Img_4520

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The Cross on the Apple. ジョブズ氏の病気療養に思う

私はクリスチャンですが、アップル信者といってもいいくらいアップル製品にはお世話になっています。そのアップルのCEOであるスティーブ・ジョブズがガンの治療療養中です。

In this couple of days, I have been praying for Steve Jobs, Apple CEO, that he may be healed and may have chance to accept Jesus as his savior and the Lord. He has impacted our society and culture but he might have not met the One who gave the most significant impact on human history. Apple logo looks like an Adam's apple but this must not be left as it is. Our sin had to be wiped away by the blood of Jesus shed on the cross. I hope that Steve Jobs looks up to the cross raised on the bitten Apple.

この2、3日アップルCEOのスティーブ・ジョブズのことを祈っています。
彼の病気の癒しのためとイエスを救 い主、そして主として受け入れるように。

ジョブズ氏は私たちの社会と文化に多大な影響を与えたけれども、人類の歴史上もっともインパクトを与えてお方にま だ出会っていないようです。

アップルのロゴは、アダムが禁断の実を食べたあとのようなものです。でもそれはそのまま放っておいてよいものではありません。 神の御前で冒したわたしたちの罪はイエスが十字架のうえで流された血潮によって洗いながされないといけないのです。

願わくばジョブズ氏がかじられたリンゴの上に立つ十字架を仰ぐことができますように。

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2011年2月 3日 (木)

ダビデの契約、私との約束。

今日の”男どものバイスタ(Men's Bible Study)”は旧約聖書2サムエル7章と1歴代誌17章から学びました。神がダビデ王に対して、「あなたの王国を永遠に堅く立てる」という 契約をしたところでした。それはダビデの子孫であるイエスによって、神の王国が建てられたことで実現されました。

ノアとの契約にしろ、アブラハムとの契約にしろ、神は心を神に向けている人を選び、その人を通して契約を交わします。
そして、神の契約は私たちが何かをしたからというものではなく、神の一方的な恵みです。

ダビデが神に捧げる感謝の祈りを読みながら思いました。ダビデとの契約は確かにすごい契約。でも神はこのような自分にも契約を交わしてくださっている。それは聖書66巻に詳しくしかもはっきりと書かれている。そして、それはやはりスゴい契約。

そして、私が聖書を読んでいて受け止めている神のメッセージと約束はこうです。


私は、主。あなたの神である。

私はあなたを地の基の定まる前から知っている。
あなたの父アダムによって、あなたも罪のあるものとして生まれ、そして事実あなたは罪を冒して来た。

しかし、私はあなたを永遠に愛するために私の愛するひとり子イエスをあなたの身代わりにした。イエスが世に現れるまでの間、人々は私に逆らい、私の計画の前にたちはだかるものの血が流された。

イエスが世に来て、十字架からの復活の後は今度はその知らせをあなたまで届けるのを邪魔しようと多くのクリスチャンが迫害され、犠牲になった。

それでも、この知らせはあなたに届かせたかった。
地の定まる前から私はあなたの名を呼び、あなたを愛したからだ。

あなたはイエスが流した血潮によって清められ、彼があなたに与えたいのちによって生きることができる。あなたは私の御霊とともに歩み、私はあなたから離れることはない。あなたは苦しみを受けても希望を失わない。悲しみの中にあっても喜びを失わない。

私がともにいるからだ。

私があなたに与える道を私とともに歩め。

そして私はあなたを永遠の王国に迎え入れよう。

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2011年2月 2日 (水)

ファミリーバイスタ(マルコの福音書6章-2-)種が岩地に落ちたとき

今日(2月1日)の家族での聖書の学びはマルコの福音書6章6-13節です。
子どもたちが英語で聖書を朗読して、そして私が説明をしています。

今日の箇所では、イエスが弟子たちが村々に行って神様のことを伝え、病気を癒し、悪霊を追い出すことが出来るように権威を与えて送り出したという箇所です。

イエスはここで、上記のことをするにあたり弟子たちに次のようなことを指示しています。

1:歩く助けになる杖の他はお金や荷物を持っていかないこと
2:歓迎してくれる家に滞在させてもらうこと
3:歓迎されない街からは足のちりを落として出て行くこと

イエスは弟子たちに自分の力ではなく神様にゆだねて歩むこと、神のみことばを教えることを訓練されたように思います。一方で、みことばを受け入れない人々がいれば、その責任は弟子たちにはないということを教えています。以前のバイブルスタディの箇所で種蒔きのたとえの話がありましたね(マルコ4章1-20節)。良い地に落ちた種は実をならすけれども、岩地や道端や、いばらの生えた地に落ちた種は実をならすことがないということを学びました。その土地とはなんのことでしょう。

子どもたち:「私たちのココロ!」

そうです。だから人によってはみことばを喜んで受け入れてそれが根を張っていく人もおれば、はねつけて受け入れない人もいます。それは種を蒔く人が悪いでしょうか?

子どもたち:「わるくな〜い」

そう、種を蒔く人は悪くない。そしたら、”この人は絶対に神様のことを話しても相手にされへんわ。岩地の心やわ。”と思える人にもみことばの種を蒔くべきでしょうか?

子どもたち:「う〜ん。」

蒔いたらいいのです。”神様は素晴らしいよ。私、イエス様を信じて、神様がいっしょにいてくださるってわかるし天国に行けることも知っていてうれしいよ。”って言えばいいのです。
私たちが岩地やと思っている心も、もしかしたら実際はそうとちゃうかもしれないし、本当に岩地でも神様に祈ったらいい。「神様、◯◯さんの岩地の心を砕いて、やわらかい土の心にしてください」と信じて祈ったらいいんです。

神様は岩地の心をも土の心に変えることのできるお方なのです。

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長女minoriの感想:「今日の話、よかった。岩地でも神様が砕いてくださる、と聞けてよかった。」

子どもたちは、お友達が天国に一緒に行けるようにと機会を見つけては話しているようです。
そういうときに受け入れてもらえないことを経験したこともたくさんあるみたいなのです。
なので、自分たちが神様のことを話してもムダにはならないということを知ったのが嬉しかったようです。

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2011年2月 1日 (火)

ファミリーバイスタ(マルコの福音書6章-1-)見なきゃ信じない、でも、見ても信じない。

今日(1月31日)の家族での聖書の学びは、マルコの福音書6章1-6節でした。

様々な場所で奇跡を行い、そして権威ある教えで人々の評判を博していたイエスが郷里ナザレで歓迎されないという箇所です。人々はイエスの評判を聞き、そして教えに感嘆しながらも「あれは大工のせがれじゃないか。昔から知っとる。」と言って、イエスを神から遣わされた人として認めようとしませんでした。

私たち人間は、「神を見せよ。この見さえすれば信じてやろう」ということはないでしょうか

でも、ナザレの人々は、神から直接語られるメッセージを聞き、「この教えは他と違う」と認めながら、また数々の奇跡を実際に見聞きしながら信じようとしなかったのです。

見なきゃ信じないと人は言います。しかし、見なきゃ信じないという人の多くは見ても信じないのです。そして神様との生きた関係に入ることができずに滅んでいってしまうのです。イエスを目の前に見ながらです。なんと悲しいことでしょうか。

そしてイエスは、彼らの不信仰のゆえに多くの奇跡を行うことができなかったとあります。
神は全能の神です。なんでも出来ます。しかし、神はあえて人々の信仰と祈りを通してことを行うように定めておられるのです。

私たちはまず信じなければなりません。
信じれば見えるようになりますし、神様のすばらしさを経験して生きていくことができます。

イエスの弟子のトマスは復活の主イエスが現れたときにその場にいませんでした。
彼は他の弟子たちの話を聞いても、自分で見るまでは信じないと言ったのでした。

そこでイエスはトマスに現れてこう言われたのです。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いである」(ヨハネ20:29)

また、こうも言われました。
「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)

わたしたちの周りには神様が造られたものであふれています。
美しい自然をみるにつけ、これが偶然にできたものだと考えるには無理があるはずなのですが、私たちは「いや。これは数々の偶然の重なりによって出来たのだ。神などいるはずはないのだ。」と言い続けるのです。

また1900年もの間、人々に読み継がれ続けている聖書について、よく調べもせずに「あれはインチキだ。クリスチャンのでたらめさを見ればわかる。」と言い続けるのです。

イエスは人々の不信仰を驚かれたと書かれてあります。
これほどにまではっきりと神が具現化されているイエスを見ても信じない人々のある種の「信仰」に驚かれたのかもしれません。

私たちにはこんなにはっきりと神の創造の業が提示されています。
またイエスの十字架については、誰もが知っているストーリーで、イエスが他のどのような歴史的上の偉人とは違うということはまったくもって明らかなことです。

こんなにはっきりとご自身を現されている神を認め、信じて生きていきましょう。

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