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2011年2月21日 (月)

ともに貧しくなられたイエス

先日の男どものバイブルスタディ(毎回男性のみ10名くらいで聖書を読んでディスカッションしています)で「気前よく捧げる」ということが話題になりました。

誰かに対して、気前よくなにかを与えたことがあるかという質問に、
ホームレスの人に食事を与えたとか、朝食代を出してあげたとかいう経験が話されました。
そして、その日のディスカッションをリードしていたmikeが、
「たとえ、お金とかを持っていなくても、声をかけてあげるとか、話を聞いてあげるとかでもその人の助けになると思う。そしてその人のために祈るのも。」
と言って、締めくくろうとしたのです。

そこで、わたしは少し前の礼拝説教の内容を紹介しました。

明日の生活にも困っている人々がこの教会にいる中で、困窮状態にある人に裕福な人が挨拶をする。そこでお金持ちの方が思う。「ああ、いいことをした。彼らは社会の底辺にいるけれども私のようなものに微笑みかけられた。彼らはパンよりもっとよいものを与えられたはずだ」と。 そのように思う人がいれば、その人は自分をサインを求められるようなセレブな有名人とでも思っているのか。そのような人からどうやって神への信仰がいのちを生み出すのだと伝えられるのか。行いの伴わない信仰は死んでいるとはまさにこのようなことなのだ。

mikeはたまたまその説教を聞かなかったらしいのですが、それを聞いたことのある他のメンバーはうなづいて聞いていました。そこで、わたしはみんなに聞いたのです。

もし『わたしはホームレスです。少しでもご援助いただけると幸いです』と書いた札をもって路上で立っている人に「お金は持っていないからあげられないけれども、何をしてほしいですか?」と訊いて、”じゃあ、わたしと一緒にこの札をもって立っていてください”と言われたらどうしますか?

と訊いてみたのです。わたしも含めて、神を心から信じて、なんとかキリストのように歩みたいと願っている大人の男性10人の答えは全員一致で

”できない・・・”

でした。それで、わたしは再度質問してみたんです。

「じゃあ・・・イエスさまは?」

”したと思う。いや。絶対した!”

まさに、キリストはそのようなお方です。

主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。(2コリント8:9)

と聖書にあるとおり、キリストは貧しい者となられ、貧しい者のところに行き、彼らに神の福音を説き、病を癒し、そして時には養ったりしたのでした。そして貧しい人々を顧みないばかりか、人々から搾取して権威のうえにあぐらをかいている宗教指導者たちを公然と非難したのです。それが彼らの反感を買い、十字架へとつながったのでした。キリストは「少し貧しい人の気持ちでも味わってみようか」と思って貧乏体験したものでもなく、悟りを開くために修行のためにしたのでもありません。彼らとともに貧しくなり、貧しい者の心に寄り添い、そして貧しい者を代表して声をあげたのでした。それは、文字通りいのちをかけてやった行為だったのでした。

たしかに「札をもって立つ」という行為を一緒にしても何の助けにもならないです。
でも、貧しい人々の声を理解し、その声を代弁する働きというのが「ともに貧しくなる」という意味ではないかと考え始めています。
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先日、わたしは無医村に住む日系ブラジル人のために巡回診療をされている医師と一緒に食事をさせてもらう機会を得ました。その先生は、日本の大学でこの状況について講義して学生ボランティアを募り、そして医療関係の企業を回って寄付を求めるということをしてきたところでした。この先生はふたつの大学の違う講座で教授に就任しておられる方です。そのように社会的な地位のある方なのに、自分のためではない、誰かのために学生に頭を下げ、企業の担当者に頭を下げ、そしてブラジルの奥深くに住む日系ブラジル人という「同胞」のために静かに声をあげておられるのです。それは、イエスが神の御子、王の王であるのに貧しくなられて歩まれたのと重なる姿です。

貧しい人に施しをすることができる善人はたくさんいるのです。
しかし、貧しい人とともに貧しくなることのできる人は少ない。

イエス・キリストは、そのように貧しくなられ、貧しい人々のため、虐げられている人々のための声となられた方でした。もしクリスチャンが自分の人生の中にキリストを求めるのであれば、貧しい人、虐げられている人、病んでいる人、悲しんでいる人、罪を悔いている人のところに行くべきなのだと思います。キリストは今でもそこに行きたいと願っておられ、そこで待っておられるからです。

聖フランチェスコ、マザーテレサ、賀川豊彦はそのようなイエスの足跡を辿った人たちであったのです。

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「神は最も卑しき人々の中に住む。神は監獄の罪人の中でほこりの山の上に腰をおろす。非行少年と共に神は戸口に立ち、パンを乞う。神は乞食と共に施しの場へ向かう。神は病人の中にいる。神は職業紹介所の前で失業者と共に列を成す。故に、神と出会いたい者は、寺院へ行く前に独房を訪れよ。聖書を読む前に、戸口に立っている乞食を助けよ。」ーー「神を求めて」(On Finding God) 賀川豊彦著


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