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2011年6月

2011年6月13日 (月)

東日本大震災のためのチャリティランチョン:神様の算数

5月22日(日曜日)、わたしたちPeninsula Bible Church(PBC)で行う東日本大震災のチャリティイベントの第二弾目として、ランチョンを企画しました。(第一回目のチャリティベイクセールの様子はこちら

日本では多くの被災地の教会が、それぞれの地域の人々のお世話を行っています。
その活動をバックアップしているキリスト教系の団体のひとつがCRASH Japanというところです。
今回のイベントも前回に引き続き、この団体にPBCとして支援金を送る為に企画しました。
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(各テーブルにはこのように資料を置いて、この団体について説明しました)

このイベントは、わたしたち夫婦が企画して、わたしは教会の責任者や奉仕者と連携をとって会場や物品の確保、イベントの告知などをし、そして妻のnori-tanがお友達を中心に協力を呼びかけて、食事の準備の陣頭指揮をとりました。その結果、教会の多くの人々の協力に加えて、日本人の女性が40名が協力してくださいました。
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そして当日は、予想というか目標の150名をはるかに越える200名ほどの参加者がありました。
はじめは、「もしあまり人が集まらなかったらどうしよう・・・」と心配して祈っていました。
そして会場を開けるとそこには長蛇の列がありました。そして教会学校を終えて、子どもたちをピックアップしてきた家族が続々とやってきました。
今度は「食事が十分に足りますように!」という祈りに変わりました。
当日は10数名の日本人の方々が次から次へとビュッフェ形式の料理を入れ替えて、最後のひとりに至るまで満足していただけることができました。

そして総額4000ドル以上の義援金が集まりました!
前回のベイクセールでの6000ドル近いものと合わせるとPBCとしては10,000ドルもの額を寄付することになりそうで、本当に感謝でした。

ご協力いただいた皆様、お祈りで支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。
善を生み出すのはクリスチャンでもノンクリスチャンでもなく神様
私はこの企画をするにあたって、こういうことを考えていました。

今回はクリスチャンである私たちが神様から思いを与えられて、クリスチャンが行っている人道支援を支えるのだ、神の子どもとされた私たちが希望の光となって善を行うのだ、と。

確かに、この働きはクリスチャンが多く関わっています。企画もそうだし、その団体もクリスチャンです。しかし、蓋を開けてみればどうでしょう。料理を準備するために協力してくださった方々のほとんどはノンクリスチャンの方々なのです。

わたしは思いました。自分は高ぶっていた、と。
神はノンクリスチャンの方々の中に思いを与えて行動を起こすようにしてくださるお方であることを。

だから、善を行うのは、クリスチャンもノンクリスチャンも関係なく誰でも行うことができるのだということに行き着く人も多いでしょう。たしかにそういう考えもできます。
しかしクリスチャンでも、ノンクリスチャンでもないのだ。究極的な意味では善を行うことがおできになるのは神おひとりなのだと思うのです。これが神様が行ってくださったことを特に示すのは次の理由からです。

わたしたちは人手を150人、そしてひとり5ドルほどの寄付を募るつもりでした。
事前には「ひとり5ドルをお願いしたいですが、お金にお困りの方は、無料ランチをお楽しみください」とアナウンスをしていただきました。なので、全部で1000ドル集まれば、材料費や労力に見合った寄付がいただけてひとまずは成功と思っていました。しかし、わたしはクリスチャン。神様のされることだから予想の倍の2000ドルくらいになるかもしれない、なればすごい!と思っていました。
ところが蓋を開けてみれば4000ドル以上だったのです。

これは、人間の業ではないと即座に思いました。
そして、神様は算数がわかっていない!とも(笑)。

いえいえ、実は、わたしたちが神様が教えてくださる「信仰算数」を学んでいなかったのです。
神様はわたしたちの想像を超えて働かれるお方なのです。本当に感謝です。

わたしはこのように二つのことを教えていただきました。

ひとつは、神様は信仰の有無に関わらず人を用いて善を生み出すお方であること。そして神のみが善の源であるということ。
ふたつめは、神様の算数と人間の算数は違うこと。わたしたちは神様の算数を学ぶことを求められていること。

そして、わたしの祈りは主に次の三つです。
ひとつは、これらの義援金が、人々の苦しみを和らげ、慰めと力を与えるために用いられること。神様の愛が被災された方々に支援の形で伝わること。
ふたつめは、今回の働きに参加してくださった方々が神様の愛を実感し、そして個人的に天地を造られ、わたしたちひとりひとりのために御子をくださった神を知ることができるようになることです。
そして、みっつめは、今回、関わってくれたPeninsula Bible Churchの人々が祝福を受けるように。そして日本のことを祈りに覚えてくれるように。

わたしたち夫婦は、本当にこのような神様に仕えることを喜びとすると同時に、このように素晴らしい日本人の方々に囲まれていることを誇りに思っています。そしてどうしても、どうしてもこの素晴らしい神様とこの素敵な人々を取り持つような働きをしたいとますます思わされています。


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2011年6月12日 (日)

もうひとつの”クリスマス”

6月12日はペンテコステ(聖霊降臨)礼拝です。

キリストが復活して50日後(キリストの昇天の10日後)に聖霊(御霊なる神)が弟子たちに下った日です。彼らが大胆にキリストを証ししはじめ、神が弟子たちを通して奇跡を行いはじめました。これによって、キリストを信じる人が多く集まり、そして初代キリスト教会の基盤ができました。だからこの日は「キリスト教会の誕生日」と言われています。
(これは新約聖書の「使徒の働き」の2章に詳しく書かれています)

遠藤周作氏は、このような弟子の働きを記した小説に「キリストの誕生」という題名をつけました。
遠藤氏の考えでは、この日を境に”イエス”が”キリスト”になったのだというものであったように覚えています。(読んだのは20年前なのでうる覚え・・・)
しかし、正確にはやはり、この日は『キリスト教会の誕生』ではないかと思うのです。

聖霊が私たちに下されたことは、キリストが十字架で死んで復活されて天にあげられた「おまけ」ではありません。キリストが来られたのは聖霊がわたしたちに与えられるようにするためでした。だからペンテコステはクリスマスと同じくらいに意味のある出来事なのです。

つまり、クリスマスが御子なる神がわたしたちのところに下って来て下さったことをお祝いする日であるならば、ペンテコステは御霊なる神が私たちとともに住み始めて下さったことを感謝する日です。

ペンテコステ。それは、御霊なる神がキリストを信じる者の内に住んで下さっているということを思い出す時としたいと思います。御霊なる神を内に宿した信仰の先駆者たちに思いを馳せる時としたいと思います。そして彼らを導かれた御霊が自分の内にもおられるという重大な事実に注意を向ける時としたいと思います。

クリスチャンであるわたしは御父、御子、御霊からなる三位一体の神様を信じています。
でも、もっとも身近におられるはずの御霊なる神にはお祈りをすることがないように思います。
そこで、ペンテコステを迎えるにあたってお祈りを捧げたいと思います。

御霊なる主であられる聖霊さま。 いつもあなたがともにおられるのを当然のように思いながら、ときにあなたが心の中でささやかれることを無視したり、おられないことにしてしまったり、あたかもおられないかのような言動をしてしまうこの者を赦してください。 聖霊さま。このような私であっても、聖書を読む時には説き明かしてくださり、わたしの祈りを導いてくださり、さまざまな局面で助けて下さっていることを感謝します。本当にあなたがいなければやって来れなかったことは山のようにあります。 聖霊さま。これからも共に働いてくださり、自分ではなし得ないことをあなたの御力によってなし得ることによって、神が今も生きて働いておられることを証しさせてください。とくに自分が愛せない人を愛し、赦せない人を赦し、堪えられないことを堪えていくことによってあなたを証しさせて下さい。

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(写真:Sunol Regional Wildernessにて)

聖歌576 聖霊きたれり
(オルガン伴奏はこちらのYouTubeで)

1.いずこにある しまじまにも いずこにすむ ひとびとにも
喜ばしく のべつたえよ 聖霊 きたれり

※繰り返し
聖霊きたれり 聖霊きたれり あまくだりし なぐさめぬし
地の果てまで のべつたえよ聖霊 きたれり

2.暗き夜は開け放たれ 嘆く声も 今はやみて
目にいるもの みなかがやく 聖霊 きたれり

3.きみのきみに ときはなたれ 自由なる身と せられしもの
勝ちのうたを たかくあげよ 聖霊 きたれり

4.いとも深き 愛と恵み いざまよえる 罪人らに
語りつげて 神の子とせん 聖霊 きたれり

5.みつかいらも 神の民も 無限のあいを ほめたたえて
天にひびかせ 地にみたせよ 聖霊 きたれり


6.聖霊きたれり 聖霊きたれり あまくだりし なぐさめぬし
地のはてまで のべつたえよ 聖霊 きたれり


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著者:遠藤 周作

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2011年6月 9日 (木)

本当の自分で祈るということ

悔い改めることなく神に何かを願うことはムシがよすぎることにやっと気がつきました。
これは罪を悔い改めて救いを願うという永遠の救いについて限ったことではありません。

捧げることができるようにと祈るときには自分の貪欲さ、ケチさ加減を悔い改めなければならない。
赦すことができるようにと祈るときには自分の執拗な恨み深 さを悔い改めなければならない。
困難にある人への助けを祈るときには、これまでのその人への無関心を悔い改めなければならない。
勤勉であることを願うならこれまでの怠惰を悔い改めなければならない。
誰かの成功の祝福を祈るときには、自分の羨む心を認めなければならない。

祈るときに は自分の本当の姿を棚上げして美しい言葉で飾るのではなく、自分の今の状態を正直に告白して本当の自分として祈るべきだと思わされました。


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(写真:ウィスコンシン州のバイソン牧場)


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”信じるだけで救われる”でなければならない理由。 

救われるために必要なのはキリストにあらわされた神の救いを信じて受け入れることで、行いは必要ありません。信じていることが行いにあらわれるようにしなさいというのが聖書の教えです。救いの条件において、信じることに行いが必要であることを付け加えることのできない理由は三つあります。

1:キリストが十字架で流された尊い血潮がわたしの救いには不十分ですと言っていることになる。
2:わたしは自分の救いのために何かができる人間ですと誇っている。
3:わたしはあの人とは違うと区別したがっている。

1は神の救いが十分であることを信じていないことの表れです。これは御子を下さった神に対して、そして神の御子であるのに十字架まで耐え忍ばれたキリストに対して失礼どころの話ではありません。
2は神の御前で、3は他の人の前で自分を誇っています。わたしは他の人々以上に神の御前で申し開きができないような罪人ですという告白になっていないからです。わたしは自分自身を救うことができないほどの罪人です、ということを認めていないということになるのです。

あと、追加すると、”行いがないと救われない”という教えは、”自分はとうてい神に受け入れられるような行いはできない”というある意味では正しい考えを持つ人からキリストを遠ざけることになります。これは極めて重大なことです。
本当は神を信じ、神の助けによって少しはマシになっているだけなのに、あたかも自分の努力によって善人になったつもりでいる勘違いクリスチャンがどれほど人々からキリストを遠ざけていることでしょうか。キリストは自分の罪に苦しんでいる人を招きに来られたのに、キリストの弟子であるべきクリスチャンが「お前は来てはならない」ということはできないはずです。

信じるだけでは救われない、行いも必要だという教えはクリスチャンにもノンクリスチャンにも崇高に思えるかもしれないのですが、よく考えてみれば神の救い を低め、自分を高めていることになっているのです。それは聖書のメッセージに反することです。

だから”信じるだけで救われる”でなくてはならないのです。

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(写真:ミネソタ州の旅先で見かけた教会)

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8-9 新改訳)


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2011年6月 8日 (水)

はじめの72時間:東北大病院からの報告

震災からもう3ヶ月になりました。

報道を見ている限りでは、まだ避難所生活をしておられる方々がたくさんおられ、行方不明の方々も多くおられ、まだがれきもたくさん残っている状況で、心が傷みます。

今日は東北大学救命救急センターの医師のNさんがスタンフォードに来ていて、震災後の72時間のできごとと問題点、今後の課題などを詳しく説明してくれました。災害に対して備えておかねばならないこと、いろいろ学ばされました。

(なぜ72時間か)災害は毎回違った顔を持ってやってくる。そこを想定する困難さ。72時間は救命のためのクリティカルピリオドであるだけでなく、医療のニーズがピークになる時期であること、そして非常用のリソースが尽きるのが72時間であること。

(1日目)クロノロジー(経時的な記録)の重要性。迅速な災害対策本部の立ち上げ。非常電源、空調(コンピュータに必要)、院内PHSの許容限界(トランシーバーの利用)、人的リソースの配分、酸素ボンベや吸引の確保、エレベーターが使えないことによる搬送の困難さ、漏水の被害

(2日目)医学生ボランティアの活躍、人的スキームの稼働、DMAT到着。在宅患者をできるだけ来院させずにおくには。重症患者は安定させたらできるだけ他の地域の医療機関へと搬送することで院内のリソースを確保。手術、検査、透析などの中止や部分稼働、職員の食料確保、ニーズとサプライ。

(3、4日目)大型バスによる患者の移送、様々なものが復旧、精神科救急のニーズの増加。(その他の課題)超法規的な対応を可能にする特例措置の必要性、自衛隊や警察との連携(とくに患者移送や情報網の利用において)、医療機関だけでなく地域のリソースを利用すること。

以上が簡単なサマリーですが、最も感じたのは、ちょっとした避難訓練ではなく、なにも使えなくなった状態で患者の生命を維持し、情報を収集伝達し、指揮系統を明確にし、エレベータを使わない患者搬送、など本気の災害対応訓練が必要だと思わされました。訓練は練習のためというよりはむしろ、なにが不自由するか、人的なこと、設備のこと、物品のことなどでなにが足りていないか、なにがあればよいかを明らかにするために必要なことではないかと思いました。現場の訓練だけでなく、対策本部がどのように情報を把握し指揮をとり、外部と連絡をとるかということの訓練も必要だと思いました。

また日赤病院や、徳洲会病院のように同じ系列で連携をとるところは動きが早い印象を持ちました。
また報道では自治体どうしの支援が素早く、自治体病院のほうが国立大学病院よりも対応が早かったようです。独立法人化した大学ですから、地域でよく似た働きを担っている大学病院が連携して素早く連携をとれるような体制があればよいとか、被災地になった立場、被災地を支援する立場の両方からいろいろ考えさせられました。

また、海外からの支援や応援メッセージは被災地の方々を大いに励ましているという報告もありました。私たちがスタンフォード大学で行ってきたことや、Peninsula Bible Churchでやってきたチャリティイベントも支援とともに祈りが届けられればと思いました。


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