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2011年6月 9日 (木)

”信じるだけで救われる”でなければならない理由。 

救われるために必要なのはキリストにあらわされた神の救いを信じて受け入れることで、行いは必要ありません。信じていることが行いにあらわれるようにしなさいというのが聖書の教えです。救いの条件において、信じることに行いが必要であることを付け加えることのできない理由は三つあります。

1:キリストが十字架で流された尊い血潮がわたしの救いには不十分ですと言っていることになる。
2:わたしは自分の救いのために何かができる人間ですと誇っている。
3:わたしはあの人とは違うと区別したがっている。

1は神の救いが十分であることを信じていないことの表れです。これは御子を下さった神に対して、そして神の御子であるのに十字架まで耐え忍ばれたキリストに対して失礼どころの話ではありません。
2は神の御前で、3は他の人の前で自分を誇っています。わたしは他の人々以上に神の御前で申し開きができないような罪人ですという告白になっていないからです。わたしは自分自身を救うことができないほどの罪人です、ということを認めていないということになるのです。

あと、追加すると、”行いがないと救われない”という教えは、”自分はとうてい神に受け入れられるような行いはできない”というある意味では正しい考えを持つ人からキリストを遠ざけることになります。これは極めて重大なことです。
本当は神を信じ、神の助けによって少しはマシになっているだけなのに、あたかも自分の努力によって善人になったつもりでいる勘違いクリスチャンがどれほど人々からキリストを遠ざけていることでしょうか。キリストは自分の罪に苦しんでいる人を招きに来られたのに、キリストの弟子であるべきクリスチャンが「お前は来てはならない」ということはできないはずです。

信じるだけでは救われない、行いも必要だという教えはクリスチャンにもノンクリスチャンにも崇高に思えるかもしれないのですが、よく考えてみれば神の救い を低め、自分を高めていることになっているのです。それは聖書のメッセージに反することです。

だから”信じるだけで救われる”でなくてはならないのです。

Img_8741
(写真:ミネソタ州の旅先で見かけた教会)

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8-9 新改訳)


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コメント

虫けらさん(って、呼ぶことにはちょっと抵抗がありますが)
コメントありがとうございます。よく議論されるところですが、わたしなりの理解をまとめると確かにそこにまとまると思います。

投稿: hide-tan | 2011年6月10日 (金) 13時45分

「信じていることが行いにあらわれるように」という言葉は本当に適切でわかりやすい表現ですね。

投稿: 虫けら | 2011年6月10日 (金) 12時19分

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