日曜礼拝シリーズ

2009年10月11日 (日)

日曜礼拝シリーズ:選ばれた者として

聖書箇所:ペテロの手紙第一 1章1〜5節

”イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
父なる神の予知に従い、御霊のきよめによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。
どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにされました。
また朽ちることも、消えて行くことのない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
あなたがたも信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。”

<礼拝説教要旨>

ペテロは、イエスにもっとも近かった弟子として、初期のキリスト教会でもっとも影響力のある人物でした。

使徒たちによる多くの書簡は、教会内での諸問題(教義的な不一致や、争い、罪の問題など)を解決するために書かれていますが、この書簡(ペテロの手紙第一)は、混沌とする社会の中で、クリスチャンがどのように生きていくべきかということに焦点が置かれています。

手紙は送り主の名前と送り先の名前から始めるものです(注:アメリカの手紙ではそうです)。この手紙の序盤で、ペテロは自分自身をキリストの使徒であると紹介したうえで、送り先の人々がどのような人たちであるのかを述べています。

ペテロは送り先の人々のことを「選ばれた人々」と呼んでいます。
そうです。私たちは、多かれ少なかれ、選ばれることを求めて生きているのではないでしょうか?しかし、クリスチャンはすでに選ばれたもの、しかも神によって選ばれたものであるというのです。

神はご自身で何でもできるお方であり、ご自分の計画をすすめるために誰の助けも必要とされないのに私たちを選ばれたのです。私たちには一方的な恵みによって神に愛され、とても神に選ばれるようなものではないのに選ばれたのです。
私たちは、自分自身をそのような存在であると捉えるべきです。

私たちは神に選ばれた者として、キリストとともに人生をやり直すことができるのです。あなたは今は苦しみの中にいるのかもしれない。そのような事実がわかっていれば、その中でも喜ぶことができる、それがクリスチャンなのです。

ペテロは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ピテニヤとそれぞれの地名をあげて人々に呼びかけています。それは、選ばれたものたちが、その場所に置かれていることの大切さを重視しているからです。

私たちも、今、神によって置かれているその場所で、周りの人々に対して神の祝福の源となるべきです。私たちは自分の人生の目的を果たす為に、あちらへ、こちらへと場所を移っていきますが、ときには自分がここに置かれているのだと目を留めることも重要です。

だから私たちは、見返りを求めることなく、自分の置かれているその場所で、周りの人々に仕えましょう。そうすることで私たちは神の祝福となることができるのです。

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神様。あなたに選ばれたものとして、あなたに置いていただいた(導いていただいた)この場所で人々に仕え、あなたの祝福を伝えて行くものとさせてください。アーメン。
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2009年10月 4日 (日)

日曜礼拝シリーズ:苦しみの中で希望を与える神の約束

先週に引き続き、今週もバビロン捕囚のときの預言者エレミヤに与えられた神の御言葉から学びました。(メッセージ全体はこちらから聞けます)

<日曜礼拝メッセージ要旨>

聖書箇所1:
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を生ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ28:4-7)

当時は、エルサレムがまだ残っている状態で、民は「もしかしたら、すぐにでもエルサレムに帰ることができるのではないか」という希望を抱いていました。私たちも、今ある苦しみからすぐにでも逃げ出せるのではないかという希望を抱きます。しかし、エレミヤ書のこの箇所からは、神はときに、苦しみの中で耐え忍ぶことを教えられるのです。

私たちも、この世にあっては捕囚の身なのです。
世界には悪の力がはびこり、私たちは神の国の民として、神の神殿を建て上げるような生活ができない、そのような不自由な状態に置かれています。

そして、聖書というのは、

神が住まい(エデンの園)を用意された → その住まいから民は連れ出された → その住まいに戻る約束を与えられた → いつの日にか住まいに戻して下さる

ということを記した書物です。とくに福音書(イエス・キリストの生涯が書かれた書物)には、その住まいを取り戻すために、私たちのために神が払われた犠牲が描かれ、あとに続く使徒たちの書簡には、どのように約束を待ち望むべきかが述べられ、新約聖書の最後尾の書、黙示録には、神の民が、神の住まいに戻される様子が書かれています。

そうです。私たちは今、捕囚の身なのです。

捕囚の中にあって、神の民らしく生きた人がいます。それは、預言者ダニエルです。
彼は異国の地で、囚われの身でありながら、神に従い続け、苦しみの中を通らされつつも最後まで神への従順を貫いた人です。私たちもこのダニエルのように生きるべきなのです。
私たちは、この捕囚から逃げ出すことをのぞみ続けるのではなく、耐え忍ぶために召されているのです。クリスチャンは、この世との関わりを絶って、クリスチャン同士の交わりのみに逃げ込むべきではない。クリスチャンの交わり(教会)に理想の都を求めすぎては失望するのみです。クリスチャンとて、この世に生きる罪のある人間なのですから。

そうです。私たちは捕囚の身を耐え忍ぶべきなのです。

神は、その捕囚の地で「家を建てて、畑を耕せ」と言われます。
どういうことでしょう?
私たちが、この世で神の民として増え続けるということは?

この本にすべてが書かれているとか、この説教を聞けばいいとかそんな簡単な方法はありません。
私たちは、生活の中で、日々、神の国でないこの世で生きることを忍びながら、毎日を神に信頼し、神を求めて過ごすことなのです。

『あなたの結婚生活の中で、ここさえ変われば幸せになるだろうと思うことは何ですか?』

こんなことを質問されたら、私たちは配偶者のここを直してほしいとか、あそこを直してほしいとか言うでしょう。しかし、このように私たちが捕囚の身であることを知っている結婚カウンセラーならこのように尋ねることでしょう。

『何も変えられないという状況で、私たちはどのようにして幸せな結婚生活を過ごせるでしょうか?』

私たちは、忍耐を選ぶ時に、痛みや苦しみから逃げることは不要となります。
その中から、生きる意味を、喜びを見いだすことができるようになります。

聖書箇所2: まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ー主の御告げーそれは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためにものだ。 あなたがたが、わたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。 わたしはあなたがたに見つけられる。ー主の御告げーわたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。ー主の御告げーわたしはああなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」(エレミヤ29:10-14)
私たちは、神の住まいをおおいに待ち望むべきです。

神は、民をその不従順のゆえに苦しみの中を通されますが、そこから救い出されるお方です。
神は民を住まいへと戻されるのです。いま、歴史はまさにそのような終わりにむかって進んでいます。

果たして,神は預言通りに民を七十年の捕囚ののちにエルサレムに帰されました。(ちなみに、それはエレミヤの死後です)しかし、彼らは本当の意味で捕囚から戻されたというわけではありませんでした。そして、今も私たちは捕囚の民として神の国へ帰る日を待ち望んでいるのです。私たちは、このような世界にあって、神の約束の中に生きているのです。『主の祈り』の中で、私たちは”御国を来らせたまえ”と祈ると同時に、”日々の糧を与えたまえ”と忍耐する力をも与えて下さるように祈ります。

このような神の約束をしっかり握りながら、忍耐と希望をもって祈るのです。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ー主の御告げーそれは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためにものだ。

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神様。どのような苦しみの中にあっても、あなたから力をいただいて忍耐をし、あなたの約束をもとに希望を持って生きていけますように。私たちに与えられた神の約束を成就してくださる御子キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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2009年9月27日 (日)

日曜礼拝シリーズ:信仰は何を変えるか?

私たちが通うPeninsula Bible Churchでは、日曜礼拝で旧約聖書のエレミヤ書というところをシリーズで学んでいます。

(予備知識)
エレミヤというのは、神の言葉を人々に伝える役目を果たす預言者の名前です。
彼が登場したのは、ユダヤ民族がバビロン捕囚に連れて行かれる少し前でした。
彼は、ユダヤ人が神への不従順によって、神が警告されていたようにバビロニア帝国によって国を滅ぼされ、捕囚とされるという預言をしなければならなかったのでした。

(日曜礼拝メッセージ要約)
”時代は変わっても、ちっとも変わらないのは人間だよ”
これは、ある映画のセリフですが、たしかに自分も、こうなりたいと思う自分になれないし、配偶者や自分の子どもたちも、いっこうに変わることがないと嘆いたりしたことはないでしょうか?

さて、今日は涙の預言者エレミヤの預言の中でも、比較的ポピュラーな記述があるところを読んでみたいと思います。

聖書箇所:エレミヤ書31章31-34節

見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ。―
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ。―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

この箇所の主題は、”新しい契約”です。
それでは旧い契約とは何でしょうか?それは、”彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約”とあるように、その契約の内容は申命記26章17-19節に書かれてある出エジプトを指揮したユダヤ人の指導者モーセを通じて与えられたことばです。

”きょう、あなたは、主(=ヤハウェ)があなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。 きょう、主(=ヤハウェ)は、こう明言された。あなたは主の宝の民であり、あなたが主の命令を守るなら、 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が作られた全ての国々の上に高くあげる。そして、約束の通り、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。”(申命記26章17-19節)

神は、ここで婚姻関係のように、”わたしはあなたの神であり、あなたは私の民である”といったユダヤの民との一対一の契約関係を結んでいます。しかし、民は神に対して、不従順になることで、この契約を破り続けたのです。800年前にすでに、この契約を破ったらどうなるかは預言されていました。
その預言が現実になったのがバビロン捕囚だったのです。

しかし、あわれみ深い神は、「契約をやぶった。すべてが終わりだ。」とは言わず、
「あなたがたは契約を破った。だから私との関係を取り入戻すための新しい契約を与えよう」とセカンドチャンスをお与え下さったのです。

神は、何度も裏切り続ける妻を忍耐を持って待つ夫のように、なんども契約を与えるようなお方なのです。

旧い契約では、神は石板に律法を書き記しました。しかし、民の心が石のように固くなり、神に逆らい続けたのです。ここでは、それを心の板に書き記すとあります。あなたの心から罪の心を取り除き、そこに律法を書き記してくださると神は言われるのです。

”肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ8:3)”

”肉にある者は、神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストの者ではありません。(ローマ8:8-9)”

私たちは、子ども達に「ありがとう」を言わせることはできても、感謝に満ちた心を育ませるのは難しいものです。しかし、私たちの親である神は、私たちの心を変えることがお出来になるのです。

さて、当時のイスラエルは、北のユダ王国と南のイスラエル王国に分断されていました。
南北で敵対し合っていたのです。とくに南は、北が先に滅ぼされたことで、自分たちこそ神に選ばれた国だと言う優越感に浸っていたのです。しかし、神は、この南にも裁きをくだされ、そして、この破られた旧い契約のあとに、新しい契約をユダ王国にも、イスラエル王国にも新しい契約を用意され、彼らをひとつにしたのです。私たちには、和解が必要なのです。

歴史を見ても、人々が集まるところには分断が生じるには明らかです。
この世界は、分裂と敵対だらけです。しかし、神がおこされる人々は、ゆるしを土台として結びつき合うのです。ゆるしあうことは難しいのです。しかし、私たちにはゆるしが必要です。

『わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる。』

これが、神があなたに与えられる新しい契約です。
あなたは神を信じていますか?その神はあなたによくしてくださるお方ですか?
私たち人間というものは、神のことを喜んで話題にするのですが、神ご自身に対面し、話かけることを恐れ、避けいているものです。しかし、イエス・キリストは、私たちのために新しい契約を成就して下さったのです。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられ・・・(黙示録21:3)」

私たちは、神と個人的な関係を持つことによって、この契約を生きたものとできます。
信仰は私たちを変え、私たちはひとつとされ、そして、神は私たちの神に、わたしたちは神の民へと変えられるのです。Img_0463
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このメッセージの全体の内容はこちらから聞けます。

聖書のことや、この記事の内容について、個人的にご意見やご質問がありましたらこちらまで

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2008年11月30日 (日)

日曜礼拝シリーズ:目が開かれて、心燃やされて

今日は、ディズニーランドの帰り道にあるGrace Community Churchで礼拝に出席しました。ここはJohn MacArtherという有名な牧師によって牧会されているメンバーが8千人という大きな教会です。
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<聖書箇所>

24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカの福音書24章13-32節)

(説教要旨)
キリストの復活は、歴史上最大の出来事である。それによってキリストを信じる者に対する救いが実証されたからである。キリスト復活の記事は他にも記されているが、この福音書の記者であるルカは、ふたりの無名の弟子達に焦点を当てた。
この記事の主題は、二つ。
①キリストは生きておられる。
②神のことばは生きている。

24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

聖書がわからないのは、聖書が悪いのではない。
聖書を理解することは私達に課せられた責任である。この弟子達は旧約聖書を読んではいたが、自分達の出来る範囲まで、理解を制限し、満足していたのである。
部分的な聖書理解をし、そこに留まると簡単にカルト宗教へと陥ってしまう。この時代の彼らはキリストが軍隊を率いてイスラエルという国をローマの支配から救い出すと、救いを理解し満足していたのである。
キリストの最も親しい弟子であったペテロたちでさえもそうであった。彼らは、キリストとともに支配することを望んではいたが、キリストと苦しみをともにすることは求めていなかったのである。なので、国のリーダー達が自分達を苦しめているローマ軍を用いてキリストを殺したことで非常に当惑したのである。

そのような弟子達にキリストは、「あなたは知らないのですか?」と尋ねることで、聖書を理解しておく必要を示された。彼らはキリストの遺体が消えていることと弟子達が復活を信じられない状態に困惑していたということを明らかにされたのである。また、彼らがメシアに対して限られた理解しかしていなかったことを示されたのであった。

”(キリストは)苦しめられ、そのあと栄光の座につく”ということが何度も旧約聖書に述べられているのに、彼らははじめの”苦しめられている”という記述に目を閉ざし、耳を塞いでいたのである。
イエスはそのような彼らに「愚か者」と仰せられたのである。彼らはイスラエル王国の栄光にばかり目を奪われ、旧約聖書の「苦しみ」の記述に目を閉ざし、心を閉ざしていたのである。
キリストは、そのような彼らに旧約聖書にキリストご自身が彼らの為の最終的な罪の身代わりにならねばならなかったことを理解させるために旧約聖書の記事を丁寧にご説明されたのである。

そして、彼らがいよいよ目が開かれてイエスがその場から立ち去ったが、彼らが互いに言ったことは、
「心が燃えていたではないか」ということであった。彼らは復活のイエスを見たことに興奮したのではなく、聖書の記述が真実であった、神のことばは生きていて力があるということに心を燃やされたのである。

それは今日を生きるクリスチャンである私達も互いに言い合うことのできる台詞ではないだろうか?
ミニストリーとは。聖書を分かち合い、キリストが生きており、みことばが生きていることを知り、喜びの炎で心が満たされるものである。そして、その炎は私達自身の中に止めておくことはできないはずなのである。
さあ、私達も、みことばの真実を、心の炎を伝えていこうではないか。

(hide-tanの感想)
John MacArthur師のメッセージは力強く、教会の賛美もすばらしく感動でした。80名のクワイアーが14名のブラスバンドとともに神への賛美を捧げるようすから、本当に神は賛美を受けるにふさわしいお方であること、牧師のメッセージからは聖書の言葉の真実性をを教えられました。

ところで、John MacArthur師のコメントつきの聖書を2種類、自分用のお土産として買って帰りました。(ちょうどセール中で、半額以下の20ドルでした。)アメリカで最も出回っている聖書はNIVですが、格調高いKJVを読みやすくしたのが、NKJV、これは訳に定評があるNASB(New American Standard BIble)です。
私が、いつもよくPodcastを聞いているAlbert Mohler氏も”非常に役に立つMacArthurのStudy Bibleだが、嬉しいことにNASBバージョンが出てくれた!”と絶賛しています。
英語のStudy Bibleをお探しの方にはおすすめです。

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2008年9月 7日 (日)

日曜礼拝シリーズ:価値あるあなたの幸いな生き方

聖書箇所:ガラテヤ書 1: 1-10

”私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、他の福音に移って行くのに驚いています。(ガラテヤ書 1: 6)”

説教要旨(hide-tanによる補足説明を含む)
ガラテヤ書はキリストの十字架による救いを受け入れたガラテヤ人たちが、一部の惑わす人たちの言いなりになり、割礼というユダヤ教のしきたりをそれが救いに必須であるように思うようになりました。
福音を受け入れて、ユダヤ民族を通して示された神を礼拝したときに、彼らはおそらくユダヤ人の仲間になりたい(なるべき)と思ったようです。ユダヤ人もまた、キリストによる救いでは不十分で自分たちと同じ神を拝むのであれば、自分たちと同じようにしなさい(でないと救いはない)と薦めたのです。自分たちは律法によって救われたわけではないのに、ユダヤ人が律法に従っていることを良しとしているという理由で、それを守ることで救いを達成しようとするようになったのです。
私たちクリスチャンも、同じように思っていないでしょうか?教会の中で、ユダヤ人のように”クリスチャンたるものこうであらねばならない”と声だかに主張したり、また逆に、”自分は信仰も弱いし、聖書にも通じていないし、奉仕もしていないし、それほど献金もしていない”ということで、仲間に入れてもらっていない気がしていたり、教会に属したいという一心で、クリスチャンとしての自分を磨かねばならないと思い、それに押しつぶされそうになっていないでしょうか?

"Are you My Mother?"という本があります。赤ちゃんの小鳥が生まれたときにお母さんがおらず、自分のお母さんを探して、鶏や子猫や、牛や犬に聞いて回ります。あきらめて、巣にもどってきたときにお母さんがもどってきて、やっと自分の居場所がわかり、自分が何者かということがわかる本です。

私たちも自分の本来いる場所ではないところに行き、他の何者になろうとしたりせずに、私たちをつくり、愛し、キリストの十字架によって救いをなして下さった父なる神のもとに立ち返りましょう。
"Are you my father?"というあなたの問いかけに"Yes, I am."と答えて下さることでしょう。

<hide-tanの感想>
最近そのように言われることのない私ですが、私は「それなり(それほどでもない)」に”自分に厳しい”と思っています。でも、それを美徳とするのは間違っているかもしれないと思いました。

『自分に厳しい』という評価を受けるというと聞こえは良いのですが、一方で、自分に厳しい人とは、自分が何者かであることを信じ、自己実現のために努力を重ねつづける人であると言い換えることはできないでしょうか?その考えの中に宿るちょっとしたプライドで自分自身や他の人を傷つけてしまう可能性以外に、自分のことを客観的にとらえられず、”自分ではない何者か”になろうとしてしまうのではないでしょうか?

だからと言って、私は自分に価値がないとは思っていません。それは、私が何者であるから価値があるというものでなく、私が神によってこの世に存在させられた価値ある被造物であること、またこの私を神の子として天国を引き継ぐものとするために、神の御子が十字架にかかるまで愛してくださったことからそのように言えるのです。

そして、これを読んで下さっているあなたもそのように価値のある存在です。


(hide-tanの祈り)

天と地とその中にあるすべてのものを造られた父なる神様。『あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(旧約聖書イザヤ書43:4)』と言い続けていて下さって有り難うございます。
もしかしたら、私が描く自分の理想像と、私を作られたあなたの目的にかなった私のあり方は、ちょっと違うかもしれません。そのままで人生を歩むことを、もしかしたらあなたはお許しにならないかもしれません。

もしそうであれば、私をいつでも立ち止まらせて下さいますように!
あなたのみ声を聞き分ける耳と、立ち止まる信仰を与えてくださいますように!

あなたが私たちを造られた、その目的にかなった生き方をすることが私の幸せです。たとえ険しくても、見栄えがしなくても、私に”幸いな道”を歩ませて下さい。

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2008年7月13日 (日)

アラスカクルーズ3日目-1:日曜礼拝シリーズ:神の民として

今日は、Dr, Charles Stanleyによる日曜礼拝のメッセージでした。
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聖書箇所-1:(ヨハネの福音書15章1-5節) わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 わたしの枝で実を結ばないものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

説教の内容:
クリスチャンになったからといってすべてが解決するというものではないことは皆さんご存知です。
クリスチャン生活の中では、神に従いなさい、神に信頼しなさい、あなたの戦いを闘いなさいと、よく言われます。そのとおりですが、いったいどうすればよいのでしょう?
ガラテヤ書5:22-23節にあるような御霊の実を結ぶためには、日曜日だけみことばに対して真実であるというサンデイクリスチャンであってはいけません。

ここでキリストは”枝自体では実を結ぶことはできない”と言っていますが、実を結ばせて下さるのは自分自身でなく神であることを知っておく必要があります。枝である私達がいくら頑張っても神の目にかなった実を結ぶことはできません。クリスチャンに内住してくださるキリストの御霊がことをなしてくださるのです。

「自分が・・・しなければならない。」という思いは、欲求不満を生じさせるだけです。キリストとつながるということは、キリストのことをもっと知りたいと思い、自分のこともキリストに知ってもらいたいと願う、親しい関係です。そのために私達は聖書を読み、祈る時間をもつのです。

聖書箇所-2:ローマ人への手紙12章1-2節

そういうわけですから、私は神のあわれみゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として神にささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために心の一新によって自分を変えなさい。

クリスチャンの皆さん。神はあなたのすべてが欲しい、と言っておられるのです。
神にあなたの人生を明け渡しなさい。誰かがあなたの人生を見る時に「私もあの人の様に生きたい」と思われるような生き方をしなさい。神ご自身の行きたいところへ行き、神のしたいとされることをしたいと一心に願いなさい。自分の思いや意志を神にお委ねすること、そうすることでキリストにあって実を結ぶことになるのです。

聖なる供え物とは、神への従順です。神にすべての選択権を”お返しし”自分の力で善を行うのではなく、神の御霊によって行うことです。

クリスチャンの本来の姿は、神に明け渡した生き方をすることです。この世と調子をあわせてはいけません。あなたはテレビを3時間みることによって、クリスチャンがこの世から受けている影響を知っていますか?そうすることで、神の民であるはずのあなたは、この世のシステムがあなたを形作るのをゆるしているのです。現在、アメリカ人の約半数はホモセクシャルはOKであると言っています。
かつてはそのような状況ではなかったのです。テレビによってプログラム化されたのです。中絶も、性虐待も、今は「そんなことはよくあること」と大きく取り上げられません。

この世のシステムは本当に破壊的なのです!クリスチャンであるあなたは、この世にあなたを形作らせてはいけないのです。

この世はなんと悲劇的にも、神に敵対するシステムに冒されていることでしょう!
大多数の意見がこうであるからと言って、流されてはいけません。私達は神の民なのです。

クリスチャンであっても、もし一週間に一度しか聖書を開かないのであれば、世的なものとなってしまいます。下品な冗談を聞いても笑ってはいけない。この世のシステムとはちがう場所にたっていることを世に示しなさい。

敬虔なクリスチャンであることは、この世の中にあって、受け入れられないことです。
迫害を受けることもあるでしょう。
あなたの人生はキリストをこの世に示している人生でしょうか?
あなたは地の塩、世の光でしょうか?
敬虔に生きる人とは、聖霊にコントロールされている人です。
その人を見て、多くの実が結ばれていることを世の人々が見ることができる人です。
生きた供え物として自分を神にささげ、世の中のシステムに自分を形作らせない人です。
「私は世の中の考えに魅せられていないか?」
と、このように自己吟味しなさい。
キリストに従い、その教えに耳を傾けなさい。

クリスチャンはめぐみによって救われただけの人でなく、その内にキリストを持つことができ、世の中のどんなことに対してもキリストがその人にかわって事を成し遂げて下さるような人なのです。

だから、「キリストが私の内に住んでおられ、私は決して失望させられることはない」とい宣言しなさい。神は世の人に対して怒っているのではなく、あなたを通してご自身に導こうとされているのです。神は真実なお方であるのだということを人生に反映させなさい。

"You are not your own. You are bought with price." (1コリント6:19-20)

心の一新によって自分を変え続けなさい。神のことばを受け入れて聖霊によって語りなさい。
神の訓練を受け続け、みことばが真実であることを学び、神の思いが自分の思いになるようにまでにあなりなさい。

たしかにキリストにつながっているクリスチャンであっても様々な葛藤はあるでしょう。自分が握っていたいと思うものが必ずしも神のみこころではないこともあるでしょう。しかし、自分の思いだけで選び取る物はすぐにその手の中で灰と化してしまいます。神はそのようなものを握って欲しくないと思っておられるのです。神はさらに良いもの永遠に朽ちない宝でその両手を満たして下さいます。

あなたの両手を神に取ってもらいなさい。

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2008年7月 6日 (日)

日曜礼拝シリーズ:悪に打ち勝つ愛

聖書箇所(ローマ人への手紙12章9-21節):

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶべき者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。互いにひとつ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い人に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐は私のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

説教要約(というか理解できたところのメモから):
『愛には偽りがあってはなりません』
この箇所で最初に出て来るのは自己吟味です。私達は他の人を愛している「フリ」をしていないでしょうか?イエスは『あなた自身を愛するように』と言われました。愛とは善を求めるものです。愛は自分の人生において悪を正当化するようなことはしません。自分のことについて本当のことを述べ、他の人を励まします。
『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い・・・』
私達のように教会に集うクリスチャンは神の家族です。兄弟どうしのライバル意識で挑み合ってはなりません。
本当の愛とは不便なものです。神の愛をもって人々に仕えることは気付かれにくく、時に拒絶されることもあります。人というのは不完全なものです。”自分の示した愛にその人がどのように反応するか”を期待してはなりません。”自分がこの人を愛することによってこの人を変えよう”などとも思ってはいけません。人を変えることができるのは神だからです。私達はその人を愛し、神を待つのです。

愛は寛大です。与えることに喜びを見いだします。

『あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。』
私達はイエスキリストのゆえに、ときに不当な理由によって迫害を受けます。
しかし本当の愛は自分を迫害するような敵をも愛するものです。

『悪に悪を報いることをせず・・・』
正しいと思われることは前もって準備しておくべきです。私達はこの世にあって、反対する人々に囲まれて生きています。しかし自分で仕返ししようとなど考えてはなりません。
仕返しをするとクリスチャンは、
1)神に愛されているという自分のアイデンティティを傷つける
2)神が愛されているその魂を永遠に失ってしまうかもしれない

愛はコストのかかるものです。しかし、愛は悪に打ち勝つものなのです。

*hide-tanの感想*
これはクリスチャン向けのメッセージです。この聖書箇所は、自分に対してあまりよくない言動をとる人にも少しは我慢して、ある程度の間は親切にしなさいという、そんなちょっとした「キリスト教的道徳」を説いている箇所ではありません。

この箇所はローマで自分や自分の家族の命が危険にさらされているクリスチャンに宛てて書かれたものです。「迫害するもの」とはただ単にちょっと意地悪な隣人というレベルではなく、そのようなことをする人々をも含んでいるのです。

しかも、”堪忍の緒が切れるまでは”そのような人をもゆるし、親切にしなさいと言っているものでありません。キリストの弟子は「誰かが自分に対して罪を冒したら、7回くらいはゆるすべきでしょうかね?」と訊きましたが、キリストは「7を70倍するまでゆるしなさい」と言われました。人が自分に行った悪の回数を数えるべきではない、そしてずっとゆるし続けるべきであると言われたのです。

私達は自分の愛する人を殺されて泣き悲しむ人が犯人に死刑をのぞむ姿を見て、悲しみと怒りを覚えて共感します。「反省して、まっとうな人間になり、この十字架を一生背負って歩んでほしい」と言う遺族がいれば「立派だ」と思います。しかし聖書には「そのような人のために祈りなさい」と書いています。そのひとがその罪をキリストの十字架によって処理してもらい、天国に入る保証を得て、神と人のために残りの人生を歩む為に祈りなさいと教えているのです。

そのような愛は可能でしょうか・・・?
はっきり言って、無理です!

でも、この聖書箇所を書いたパウロは理想論を書いているのではなく本気でそのように薦めているのです。パウロは、キリストが十字架の上で自分を処刑する者のために「父よ、彼らの罪をゆるして下さい。彼らは自分が何をしているのかわからないのです。」と祈られたということを思い起こしていたのかもしれません。そして、パウロ自身がクリスチャンへの迫害者として悪名高い存在であり、ステファノのリンチ殺人にも加担していたのです。彼は衝撃的なキリストとの出会いのあと、アナニヤというクリスチャンに祈ってもらい、キリストの弟子達から受け入れてもらいました。彼はキリストの十字架による罪のゆるし、限り無ない神の愛を知っていたから、自分が迫害者として、また迫害を受ける者としてもそれらを体験していたからそのように薦めているのです。そしてそれを実践しているクリスチャンがいるのは事実なのです。

もういちど、言いますが、ただ単に人間の思いや、人格の立派さではそのような無制限、無条件の愛を実践するのは無理です。

でも聖書には「神には不可能なことはありません」と書いているように、神が私達クリスチャンを通して働かれるなら、クリスチャンが神がそのようにお働きになることをゆるすのであれば、神の愛によって、そのような愛も可能になるのだと思うのです。

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2008年6月29日 (日)

日曜礼拝シリーズ:約束による贈りもの

聖書箇所:旧約聖書2サムエル9章

『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。』 (2サムエル9:7)

<この聖書箇所の話とあらすじ>
イスラエルのダビデ王は、王位を固めた時に、自分をかつて苦しめていたサウル王の息子である親友ヨナタン(彼は、父サウルの意に反する形でダビデ王をサウルから逃したが、後にサウル王とともに戦死)との約束を果たすためにヨナタンの息子を呼び寄せて、サウル王の元所有地をヨナタンの息子メフィボシェテにあたえ、王の食卓で食事をすることをゆるしました。

礼拝説教要約:
ダビデ王が前任の王であったサウルの息子ヨナタンの親族を探し出して、このように恵みを与えることにはリスクがつきまとっていました。その親族が彼のことを敵視している可能性がないわけではないからです。私達にとっても愛するという行為には、リスクが伴うこともあります。しかし、私達は愛すのです。それは正しいことだからです。

ダビデがここで言っている「恵み(God's kindness)」とは神の愛の現れです。神の恵みにはこれらの特徴があります。
1:あなたが自分では出来ないと思っていることを神ご自身がなして下さる。
2:あなたに対して常に誠実である。
3:その恵みを与えるべきあなたを探しておられる。

さて、ダビデ王に呼び出されたヨナタンの子は両足が不自由でした。ヨナタンのような勇姿はなく、王に殺されるのではないかと怯えて身を隠さねばならないみじめな存在だったのです。私達もそのような存在なのかもしれません。そして、私達は自分や他人のみじめな姿を見る時にそれを自分自身やその人自身に責任があるかのように考えがちです。イエスの弟子達は生まれつき、目が見えない人を見て、誰の罪によってこのようになったのかを質問しましたが、イエスは「誰の罪によるのでもなく、神のわざがこの人に現れるためである」と答えて、目が見えるようにしました。(ヨハネの福音書9章)
このときみじめな状態にあるメフィボシェテに慈悲を与えることで、ダビデは神の栄光を現したのです。メフィボシェテはダビデとヨナタンとの約束を知らなかったために、怯えていたのでした。

『サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのためにその者に恵みを施したい』(2サムエル9:1)

もしかしたらあなたは、(イエスキリストの十字架と復活によってもたらされた)神の約束を知らずに怯えて生きているかもしれません。しかし、恐れる必要はありません。神はあなたに恵みを受け取ってほしいと探し求めておられるのです。

メフィボシェテという名前には”恥さらし”という意味があるそうです。
彼は自分の姿を恥じ、自分のことを「この死んだ犬のような私」と言っています。恥は恐れをさらに増していたのです。一方でダビデはそのようなメフィボシェテの姿に関わらず、彼のすべての必要に応え、さらに良い物を分け与えました。そして、この章の最後は、このように締めくくっています。

"メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。" (2サムエル9:13)
私達も神の前にメフィボシェテのような存在です。自分の力では神の食卓につくことはできない、両足のなえたような存在です。しかし、ヨナタンのゆえに恵みに預かったメフィボシェテのように私達も御子イエスキリストのゆえに神の恵みをいただけるのです。感謝して受け取りましょう。


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2008年6月22日 (日)

日曜礼拝シリーズ:神のやり方?私のやり方?

聖書箇所:2サムエル6章
説教要約:ユダヤの王ダビデは、取り返した契約の箱をエルサレムに運んでいました。
お祝いをしながら運んでいる途中で、Uzzahという人が体勢を崩した契約の箱に触ってしまいます。

「契約の箱を触ったものは死ぬ」

という聖書の言葉の通り、彼は死んでしまいました。
ダビデはこのことで神に対して怒りと同時に恐れというふたつの感情をさせました。

ダビデはこれまで戦いのたびに神にお伺いを立てて、神の方法によって戦いを進めて来ました。
しかし、ダビデは神に対する礼拝を神の方法によって行うということをしていなかったのです。
「これは自分でできる」
と思い、神の契約の箱を運び礼拝を捧げるという重要なことをするのに神にお伺いを立てていなかったのです。そこで、神はUzzahへの裁きを通して、ご自身の言葉は絶対で、神の裁きは常に正しいのだということを示しました。

ダビデは、3ヶ月の間、契約の箱をObed-Edomに預けます。すると、神はObed-Edomを祝福し始めたのです。神の怒りは、ずっと続くものではなく神はあやまちを冒した私たちをもまたゆるし、祝福されるのです。

それで3ヶ月の間、ダビデは聖なる神に対する畏れと神の愛の普遍性を学び、生け贄を捧げることで、神の聖さを告白し、神の恵み深さを、それこそ裸になって踊って祝ったのです。これをみたダビデの妻Michalは、そんな彼を蔑みます。彼女は神のことを思わず、自分の立場と体裁を重視していたからです。神と私の関係は誰から他の人からどのように見られるかということを気にしながら築くものではありません。神は、神ののぞまれる形であなたに礼拝を捧げてほしいと召し出しておられるのです。

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2008年6月15日 (日)

日曜礼拝シリーズ:神の御前での悲しみ

聖書箇所:2サムエル1章

*背景の解説 この箇所は旧約聖書に出てくる有名なユダヤの王であるダビデが、その前に王であったサウル王とその息子のヨナタンが戦死したことを受けてダビデが悲しんだ様子が書かれています。 ダビデはサウルに対して忠実な部下だったのですが、神がダビデを祝福し、彼に大きな働きをさせたためにサウルは彼に嫉妬し、その命を狙ったのでした。ダビデは、その後、親友のヨナタンとも別れて荒野に逃げなければなりませんでした。そのような状態でダビデはこの知らせを聞いたのでした。

要約(イタリック体はhide-tanによる補足)
戦場で自害しようとしているサウルにトドメを刺したアマレク人の兵士がその様子を報告しに来たときに、この兵士はダビデが喜ぶであろうことを期待し、もしかしたら褒美をもらえるかもしれないと思ったことでしょう。なにしろ、ダビデの命を追っていたサウルが死んだのです。しかし、ダビデの反応は違いました。ダビデはひどく悲しみ、神に油注がれた王に剣を立てたこの兵士を処刑したのでした。

ダビデは自分の立身出世のことよりも神が立てられた王が亡くなったことを深く悲しみ、家来たちとともに悲しみを現したのでした。サウルは神への不従順のために退かなければならなかったのですが、サウルが退くことは本当は神の御心ではなく、この行為は神の悲しみを自分の悲しみとした行為でした。ときに悲しみを現すことは、人生を前進することにとってマイナスに思えるかもしれませんが、このような行為は私たちが悲しみを正しく処理し、前に進むために必要なことです。

私たちクリスチャンも愛する人を亡くすときに悲しみます。亡くなった人がクリスチャンであり、天国で会えることが分かっていても、亡くなった人が今は天国にいて幸せであることを分かっていても、この世で会えないことを悲しむことはもっともなことです。悲しみを感じるとき、それを神の前で隠す必要はありません。それを健全に現すこと無く押し殺してしまえば、しばしば「怒り」となって現れてくることがあります。私たちが神のみこころにそった悲しみを経験するときに私たちは成長させられ、私たちは人生の軌道を取り直し新たな歩みをすることができるのです。

hide-tanの感想
私も大学生のときに兄の慕っていた教会のメンバーSさんが、激しい闘病生活の果てに亡くなることを経験しました。看護士として勤務していたSさんは、「同じく医療に携わるものとして神様とともに頑張ろう。楽しみにしてるで。」と、私の医学部入学を殊更に喜んでくれた一人でした。

彼が亡くなったという知らせを聞いたとき、昇天式に出席したとき、そして記念礼拝に出席したとき、私はそれこそ声をあげて泣きました。Sさんが今は苦しみも無くイエス様とともにいることも、いつか天国で会えることも、神様がS兄弟とその家族に良い計画をもってゆるされた出来事であることもわかっていたのですが、それでも、そのようなことを信じていることで悲しみが減るというものではありませんでした。しかし、その悲しみ方には違いがあります。

Sさんは、勤務態度でも神を証ししていて、勤務先の市民病院の院長からも一目を置かれている存在であったようです。そして、昇天式で、その病院長から、「私はS君を取られた神を憎む!」という涙ながらの叫びが聞かれたのです。キリスト教式の明るい照明と華やかな花束で飾られた式場の中にスーッと闇の雰囲気が忍び寄った一言でした。

同じように泣いている人でも神様に感謝を捧げながら希望に満ちて泣く人と、神を呪いながら絶望の淵で嘆く人がいるのだと気づかされました。私たちが生きているこの世界には光の中で生きている人と暗闇に伏している人がいること、この世には光と闇が存在することがはっきり示された瞬間でした。

一見、同じように悲しんでいてもある人たちは、絶望の中に悲しみ、他の人たちは希望の中に悲しんでいたのです。

私が今、彼のことを思い出すときの顔は、骨髄移植のあとで病気が再発し、病気との最後の戦いを前に「私の病気を治すためにいろんな人にお世話になり、多額の医療費が使われています。そして、こんな美しい奥さんとかわいい娘を残して死ねやしません。」とにこやかに話す輝いた笑顔です。自分の命が消えつつあることをわかっていながらもみんなを笑わせることができた、神の御霊に満たされて輝く笑顔です。

なにかでくじけそうになったとき、自分に失望しそうになったときには、神様は時折、志半ばで天に召された彼のことを思い出させてくださいます。そして、そうやなーSさんから「hide-tanクン。よー頑張ったな。僕、こっちで応援しとったで。」と言われたいなーと言う気持ちになったとき、Sさんの人生と自分の人生はつながっているのだと感じるのです。そうです。生きていようと死んでいようと私たちはキリストにあってつながっているのです。

神様の与えてくれる出会いとはこのようなものです。実は、今も彼のことを思い出すと、ふとポロリと来そうになることはあります。それでも『神様、なぜですか!』と嘆くことはなく、Sさんとの出会いを悲しみの中で喜び、そして感謝できるのです。

book「‥‥暗闇の中にすわっていた民は偉大な光を見、 死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」 この時から、イエスは宣教を開始して言われた。 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 (新約聖書 マタイの福音書4:16-17)

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2008年5月18日 (日)

日曜礼拝シリーズ:仕える者としてのリーダー

聖書箇所:マルコの福音書10:33-45

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。
「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

メッセージの内容はこちらから聞くことができます。

メッセージを聞いてのhide-tanの感想
クリスチャンのとるべきリーダーシップのあり方についてキリストが教えられたことが描かれています。キリストは「今から死に渡されます」という重大な宣言をしたときに、ヨハネとヤコブはキリストの言っていることを真剣に捉えず、自分達のことだけを考えて自分達が高い位に着くように頼みました。ここで、キリストはリーダーの条件について3つのことを述べています。

1:リーダーにはキリストの十字架の苦しみが伴う
自分の利益や名声のためにではなく、神のみこころのために行うものである。そこには時に罪や不信仰に満ちたこの世との葛藤が生じることも心得る必要がある。
2:リーダーをお立てになるのは神である
自分が何か努力をしたからといってリーダーになるものではない。主権は神様にあり、神様が油を注がれたものがリーダーの役割を担う。
3:リーダーは自分を低くして、すべての人に仕えるものである
キリストは実に神の子であるにも関わらず、自分が作り、自分が王となるはずの世界に身分の低い貧しい家の子として来られた。

こう考えると、「私なんてリーダーなんてとても・・・」という一見、謙遜な言葉はとくに神の愛と恵みの力を長年体験して知っているようなクリスチャンにとって本当の意味で正しい態度ではないのでは?と思います。

それはつまり、
「私なんて、みんなに仕える者となるなんてとてもとても・・・」とか、
「キリストが十字架を忍ばれたこと思い、私も神と人のために自分の十字架を負う者となりたいなんていうことはとてもとても・・・」
とか、
「神様が自分にやりなさいと言われても・・・」
と言っているのと同じだからです。

この教えは、神が必要とされるのであれば、リーダーとして働くことができるように準備しておくことと、自分がリーダーとならなくても、神が立てられたリーダーには喜んで従うことの大切さとを同時に教えていると思います。キリストの弟子達が誰かのリーダーシップのもとで、調和を保ちながら協力していくことを神の真実と愛にもとづいて教えられた箇所なのだと実感しました。
(写真:教会主催のピクニックの公園で水遊びをする子どもたち)
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2008年5月11日 (日)

教会で注目を浴びた私たち

私達夫婦は、ここカリフォルニアの教会での礼拝のあとで、カップルズクラスという夫婦のための会(参加者は50名くらい)に出席しています。今日は、スポットライトカップルheart04として、私達が前に出て、みんなの前で、自己紹介と二人の出会いの経緯、結婚のことなどのインタビューを受けました。

そこで、妻のお友達を中心に日本人の方がたくさん教会に来てくれているようになったことや、日本人のためのバイブルフェローシップをするようになったことなどをお話させてもらいました。

海外で生活をする日本人の方々が現地のコミュニティーへの参加や、キリスト教が文化や政治面で強く影響を受けている異国社会で聖書を知りたいという思いもあって、教会に足を運ぶようになることは珍しくありません。信仰うんぬんを抜きにしても有意義な時間を教会で過ごして良い思い出とともに帰国される方も多いことと思います。

私達の教会にも、何人かの日本人の方々が来て下さって、バイブルフェローシップにも参加してくださっているのですが、そのお世話をする中で神様から教えられたこと(自分の神様への信仰がいかに小さいものであったのかということ、キリストがどれほど私の回りにいる日本人の方々を愛しているのか、神様が私たち家族をどのように支えてくださっているのか)などを話していると、50名程の参加者のほとんどの方々が真剣に耳を傾けて下さり、終わった後も日本人の方々に聖書を紹介したり、教会に集いやすくするためにできることは何か、祈りの課題はなにかなどを数人の方々が声をかけてくれました。私はこの講演?の終わりで、

「あまり見かけない日本人にあったら歓迎してください。」

ということも強調しておきました。ここはシリコンバレーなので、とくに日本との交流が深く、教会のメンバーも日本語であいさつをしてくれる人が多いです。

ここベイエリアにお住まいの方で、アメリカの教会での礼拝やお子さんの教会学校などに興味がおありの方はぜひ一度私達の教会にお越し下さい。
今週金曜日の夜には無料でお子さんも参加できるコンサートnoteもありますし、ピクニックfastfoodやキャンプfujiなど、イベントも盛りだくさんですよ。
(私までメールくださればご案内致します。haisyuyo@nifmail.jp)


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2008年4月27日 (日)

さすがにシャイかも

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今日も、日曜礼拝は「雅歌シリーズ」で礼拝のあとのカップルズクラスは質疑応答クラスをしていました。旧約聖書の雅歌という箇所は、知恵の王様として有名なソロモン王が書いた男女の結婚の物語を歌ったもので、ところかしこにちょっと恥ずかしい表現が出て来ます。

なので、質疑応答もアメリカ人に似合わずShyなためか、カードに無記名で記入をする形をとっていました。

私がグループ内のディスカッションで、
”ノーマル”であることは本当に重要なのか?”ノーマル”な(狭義の)夫婦生活というところの聖書的な基準はあるのか?」と発言すると、
「それはいい質問!」
と、グループからの質問として、全体のディスカッションに取り上げられました。
他には、同じグループの女性から「祈りの生活と比べて、この(狭義の)夫婦生活の重要性にどれくらいの重きをおくべきなの?」という”真面目な”(本人はかなり真剣coldsweats01)質問もだされていました。

この手のディスカッションもだいぶみんな慣れて来て、話し合いも結構わきあいあいと楽しく進むようになってきました。来週はどうやらゲストを招いての講演会もあるようですし、その次は女性達の”本音トーク”みたいなイベントもあるようです。シャイな一面もある一方で、こういった企画をみると、さすがアメリカの教会!という感じがします。

(写真:午後から出掛けたサンタクルズの帰りに立ち寄ったPigeon Pointの灯台。136年前に建てられた物らしいですが、結構高くそびえ立ち、威風堂々としています。もともと灯台職員の宿舎だった建物はホステルに改築されていて宿泊できるようです。外見はあまりきれいではありませんでしたが・・・。)

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2008年4月20日 (日)

次の結婚式までに・・・

最近、日曜礼拝シリーズという形での礼拝メッセージの要約をお休みさせていただいています。今は旧約聖書の雅歌というソロモン王が書いた箇所をシリーズで説教されているのですが、結婚のすばらしさを歌っており、ちょっと恥ずかしい表現が多いのと、それらの意味を解説している説教がイマイチわかりにくいので、正直苦労しています・・・。

そのことを事前にわかってか、このシリーズに入ってからはカップルズクラスが説教のQ&Aセッションにとってかわり、説教の補足説明を聞いたり、「ここは誰が誰のことを歌っているのか?」「そもそもなぜこれが聖書に含められているのか?」など、根本的な質問を出し合ったりしています。

今日の説教で、印象に残ったところは以下のようなものです。

説教要旨からの抜粋(hide-tanの脚色あり):
「人生で達成すべきことがら」と「愛」のうちどちらが結婚する為に大切ですか?
それはもちろん「愛」であると答える人が多いと思いますが、実際を見てみると、私たちは結婚前に学位をとらねば成らなかったり、経済的に安定した職業に就いていなければならなかったりと、達成しないといけないことがなんと多いと思いませんか?
同じようにキリストの花嫁に例えられる教会である私たちクリスチャンも、キリストとの天国での結婚式までにそれにふさわしくなるようにと思い、格闘するのですが、決して「これでよい」と満足する域に達することはありません。わたしたちの人生は、これでよいと自分自身に完全に満足することはないのです。それは私たちがこの世で完成されるべく作られているのではないからです。本当に完全にされるのは天の御国に至ってからなのです。

(写真:今日は夕方から近くの公園で教会のメンバーどうしでピザパーティがありました。子ども達は遊具やボールなどで遊び倒し、私たちは普段あいさつ程度に終わっている人達とゆっくり話をすることができて有意義に過せました。おかげで寒い中でけっこう長居してしまいました。)
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2008年4月13日 (日)

グローバルな靴下問題

(主夫生活3日目”男たちの”Women's Retreat)
今日の礼拝は女性たちがWomen's Retreatに出かけているために私のように”週末主夫”の仕事を終えようとしている男たちが続々と集って来ました。彼らの疲れきった顔のどこかに「やりとげたぞ!」みたいなどこか誇らしげな微笑みをたたえ、お互いを労うとともに、妻に感謝せざるをえない?といった悟りを開いたような雰囲気でした。
そういう意味でWomen's Retreatに出かけた妻をもつ夫は別の意味でそれぞれのRetreat(修養会)を経験したようです。

(靴下問題)
今日も雅歌からのメッセージでした。
聖書箇所:雅歌2章15節

「・・・『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(雅歌2章15節)

今日のメッセージとそのあとの質疑応答セッションで話題になったのは上の箇所でした。

ここでいうところの”狐や子狐”とは何なのか、一見小さなことに思えても、夫婦の親しい関係を維持して人生の実を実らせることの障害になっているようなものは何かということが話し合われました。その中である女性が、「なんで私がこんなに毎回靴下を拾い上げないといけないのかと思うけど、これも夫につかえることのひとつと思うことにしている」と発言していました。我が家でも時折取り上げられるこの問題(さらっと流して下さいcoldsweats01)、アメリカでも重要なことがらなのだと実感しました。社会学的、心理学的アプローチからの研究と解決方法がのぞまれるところです。

でもこういう話題が出たところで、教会の講壇から「男たちよ。あなたが靴下を床に脱ぎ捨てているのなら、ただちにそれを止めて妻に対する愛と尊敬をもって脱いだらすぐに洗濯機に放り込みなさい!」と語られることは
ないですし
また男たちからも「私は靴下脱ぎ捨ての罪を冒し続けています。このような罪から離れることができるように祈って下さい」という告白を聞いたこともありません。smile

また女性たちからも苦笑いで話題にされることはあれ、「もう耐えきれない!」angryと訴える人も見かけないです。
それでも大切かもしれない靴下問題。女性たちは靴下を拾うたびに
「こんなことも聞き入れてもらえないなんて、自分は本当に愛されているのだろうか?」
とチクチク心が痛んでいるのかもしれません。bearing

なので、奥さんから笑顔で「靴下片付けてね」という指摘があったら笑顔で「ごめん、すぐにやります」と応えつつ、できるだけそういったことがないように心がけるのが得策なのかもしれません。

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2008年3月23日 (日)

日曜礼拝シリーズ:その「感じ」が安息

今日はイースター礼拝で教会はお祭りのように活気づいていました。
ミニオーケストラ付きのクワイアー賛美もあったので、私たちがお誘いした大人10人と子ども8人のお友達がはじめて日曜礼拝に来てくれました。来て下さった皆様、ありがとうございました。happy01

説教要旨(若干の編集あり):

bookすべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11:28)

私たちの痛みを知っておられ、重荷を担うことができる神であるキリストのもとに来ることによってのみ、私たちは本当の安息を得ることができます。
キリストは十字架上で、「完了した」と言われました。(ヨハネ19:30)
そして、「神よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って息を引き取られたのです。
キリストは私たちのための救いの業を完成し、父なる神に霊をゆだねたのです。
聖書は、Jesus rose from the dead.とは書かずにJesus has been risen from the dead.と書かれています。イエスは自分で甦ったのではなく、父なる神に甦させられたのでした。逆に、キリストもその復活の業を完全に父なる神により頼んでいたのでした。

あなたは自分の人生の中に自分の王国を持ち、その王座から離れたくないと思っていませんか?
自分の人生は自分でコントロールしたい。そんな気持ちがあるので、人生を神にお委ねするということをためらっているのではないでしょうか?
しかし、人生は自分でコントロールできないことだらけです。
私たちを愛し、すべてをコントロールされるできる神に人生の主導権をお任せすることで、あなたに安息がもたらされることでしょう。

キリストの復活は、キリストご自身が言っていたように神の子であり、私たちの罪が完全にゆるされ、神と和解し、永遠のいのちを得ることができるようになったということを証明するできごとです。

だから、私たちはキリストの十字架と復活を仰ぎみることで、魂に安らぎが得られ、本当の安息を得ることができるのです。今日、あなたの心にキリストをお迎えし、永遠の安息への招待を受け取りましょう。

(写真:今日は教会のメンバーからイースターランチに招待されました。他の写真はこちら。)
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hide-tanの感想:
mobaqキリストでないと本当の安息を得ることができないのはなぜか?
今回の説教は主にクリスチャンを対象にしていたのか、このような疑問を持つ方も多いと思います。
いつもは理論的に説明したい私ですが、今回は自分の経験で答えたいと思います。

この質問には、本当の安息とは、何か?ということがわからないといけないのですが、実は、私もクリスチャンになるまで、わかりませんでした。本当の安息とは、”神が下さる安心”と理解しています。
キリストの十字架の死によって、神との和解が得られたことを、その復活によって知り、それを受け入れることで、その人にはキリストの霊である聖霊が住まわれます。そして、その聖霊がキリストが神であることをさらに確信させてくれ、神が自分に対して怒っていないだけでなく、自分が今まで経験したことのないような大きな愛の眼差しで自分を見てくれていることがわかるのです。そして神が遠くにいるのではなく、まさに自分の内にいるような、後ろから教えてくれるような、なんかそのような感じです。それだけでなく、その感じは他の人に対して、神がどれほどその人を愛しているのかを感じることもあります。その「感じ」というのは大きくなることも小さくなることもあるのですが、大抵は聖書を読んだり、祈ったりすることが多いとき、悪いことをしたと思っても素直に神の前に「ごめんなさい」と言えるような状態のときに強いものがあります。信仰は「感じ」にたよってはならないのですが、そのような「感じ」があることは確かです。自分の中で、その「感じ」というのが神が下さる安心であり、それが天国の前味のひとつ(もうひとつはクリスチャンが集まっている場所や時間)であると思っています。

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2008年3月16日 (日)

日曜礼拝シリーズ:これは「きょう」の話。

「ダビデの子にホサナ。
 祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
 ホサナ。いと高きところに。」(マタイの福音書21:9)

<hide-tanの前置き>
今日は”しゅろの聖日(Palm Sunday)”と言って、イエスキリストがイスラエルの王としてエルサレムに入ったことを記念する日です。イエスを熱狂的にホサナ!ホサナ!と言って迎え入れた日です(マタイの福音書21:1-11)。しかし、この5日後にキリストは十字架にかけられます。
礼拝の聖書箇所はヘブル人への手紙3:7 - 4:16でした。詩篇95篇についての説明が書かれているところです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民をもといたカナンの約束の地へと戻らせるようにモーセという指導者を立てて、海を分けるまでして出エジプトを達成してくれた神を体験しながら、イスラエルの民はこの約束の地に住む、パレスチナ人を恐れて、入って行かなかったのでした。その結果、イスラエル民族は40年間も放浪しないといけなくなりました。時を経て、ホサナ!と言ってイエスを迎え入れるように思えたイスラエル民族も、結局は神の子を退け、その結果、救いのメッセージはイスラエル以外の民族の教会を通して広く伝えられるようになったのです。
この箇所のメッセージは、私たちの本当の安息は天国に入ること、そのためにはキリストの救いを受け入れることが必要であるということが主題です。
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礼拝説教要約:
シュロの日曜日は、イエスが歓迎されて、エルサレムに入られた日です。彼らはイエスを、宗教的、社会的、政治的な解放者として迎え入れたのでした。あなたの人生で待ち望んでいることはなんでしょうか?
神は、あなたに安息を用意してくださっています。私たちは、今、神の用意してくださる安息を待ち望んでいるのです。聖書は「それを得る為に努力しなさい」と書かれています。それは、信仰を持ち続けなさいということです。
そして、その信仰とは、キリストイエスにある救いです。

信仰とは何でしょうか?

それは、過去に神様がしてくださったことを見ることで、未来にしてくださることがらを知るということです。

モーセが導き入れられなかった地にヨシュアが導き入れたこと、イエスがイスラエルの王として、来られたことなどは、将来私たちが天の御国に入ることができること、イエスが王であることの予見です。

クリスチャンとされた私たちが神の前に安らぐ経験をすることは、将来、神が用意して下さっている安息の「前味」なのです。私たちはそうした前味を味わいながら、来るべき本当の安息に入るための備えをしたいものです。

hide-tanの感想:

「きょう、もし御声を聞くならば、
 あなたがたの心をかたくなにしてはならない」
(ヘブル4:7)

『キリストの救いを受け入れると、その人には永遠の安息が約束されます。』
このようなメッセージは、本当に本当で、クリスチャンがキリストをまだ信じていない人に語りたいのですが、一方で、次のような反応が返って来ると、どう答えてよいのかわからなくなります。

”安息に入れなければ、死んだらそれで終わり。天国みたいなところには行かなくてもいい。”
”あるかないかわからないようなところに望みをおいて生活するより、今の現実をしっかり生き、楽しまなくては。”

しかし、聖書には、心をかたくなにして神の言葉を拒絶した場合には、その人は”決して安息には入れない”という書き方がされています。そして、キリストは罪をもったままだと入らないと行けない地獄について何度も警告を発せられました。

神が用意される安息に入らない場合にはどうなるのか?

それは、永遠に火で焼かれ続けられるという苦しみであると書かれています。

以前に起きたことを参照にして、未来に起きることを知ることが大切であると説教者は語っていましたが、聖書が世界の歴史に最も大きな影響を与え続けているという事実、1600年もかけて、40名もの様々な職種の人によって書かれたのに一定のテーマが貫かれているという不思議な書かれ方をしている事実、ユダヤ民族に対する聖書の預言が次々に実現してきたという事実、旧約聖書で350ほどもあるキリストの預言がイエスにおいて成就したという事実、多くの人が預言どうりに十字架と復活を目撃した事実が聖書に書かれています。これらから聖書は「無視出来ない書物」であることは明らかです。

その聖書に、キリストへの信仰によってもたらされる大きな祝福とそれを拒んだ場合の恐ろしい結末が書かれているのです。

だから上の聖書箇所で「きょう」と書かれているのは、
「今日を逃したら、”信じたら救われる”キャンペーン期間は終了です。あとで欲しくなったらお金を積むか、人助けを頑張るかしてください。」
と言っているのではなくて、
「今日を逃したら、明日の保障はありません。機会を逃したら、あとで安息に入りたいと思っても、何をしても永遠にチャンスはありません。」
と警告しているのです。

神の子であるキリストが十字架にまでついてくださったのは、神様の私たちへの愛であることは確かですが、神ご自身であるキリストが、あのような惨い刑に処せられない限りは私たちを逃せさせることができないほど、罪の報酬が恐ろしいのだという一面もあるのです。

また、そもそも地獄というものは人間が行くために作られたものではなく、神に逆らったサタンを永遠に滅ぼすためのものなです。しかし、サタンは神に似せて作られた人間を惑わし、罪の性質を持たせることで、デフォルトでは神の基準の聖さ、正しさに達しなくなり、サタンとともに地獄に下らないといけない存在になってしまったのです。神は公平で正しいかたなので、サタンでさえも逆らえない正しさで裁きを行わないとサタンを裁けないのです。
そして、サタンの”道連れ”から買い戻しの代価が払われたのが、十字架で流された神の子の血だったのです。それによって、十字架を感謝し、キリストに心を向けるという「悔い改め」という変換を行うことで、私たちは再び神の子として受け入れられるのです。

だから、私は自分の経験からもこう断言します。
もし、「きょう」、キリストの十字架の救いに"Yes!"と言って次のように祈るなら、今日という日は、その人の生涯にとって最高の日になるのです。

天の神様。
私はあなたのまえでは罪人です。
今日、わたしは神様が御子キリストの十字架を通して私の罪を取り去られたことを聞きました。
わたしは自分が神の子とされたことを信じて感謝します。
アーメン。


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2008年3月 9日 (日)

日曜礼拝シリーズ:休んで負うくびき

今日からサマータイム(Day light saving time)が始まりました。

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いつも午前7時半に集合して礼拝前のウォーミングアップをするクワイアーですが、今朝はサマータイムの初日なので、6時半に集合みたいなもので、みんなちょっと辛そうでした。

ウォーミングアップが終わって、はじめて教会に来てくれた同僚を迎え、空き空きの会堂で礼拝が始まりました。『なんでやろ?いつもはもっと多いのに・・・。』という私に彼女は「そりゃそうでしょ。時間がずれたから。私もつらかったもん。」と即答。なるほど・・・15分くらい経過してだんだん会堂が埋まって来ました。

礼拝説教の要旨:

Be still and know that I am God;
I will be exalted among the nations.
I will be exalted in the earth. (Psalm 46:10)

安息日は、ただ単に何もしないということではない。
自分の生活を支えていると思っている日常のことがらを止めて、自分の生活を支えているのは自分自身ではなく、天地を創られた神であることを思い出すためである。
「自分で何でもできる」とか、「自分は必要なものを何でも持っている」という考えを止めて、国々や創造物の上に立たれる神のもとで静まることをしましょう。

hide-tanより:

教会の説教を聞くと、「自分から何もしてはいけない。神様により頼みなさい。」ということが繰り返し語られ、今日来てくれた同僚のようなノンクリスチャンが聞くと、

”クリスチャンはなんと向上心の無い人たちなんだろう。『天は自らを助くる者を助く』というじゃないか。”

と言われることがあります。
実は『天は自らを助くる者を助く』という自助論は実は聖書に書かれていることではないのです。

では、クリスチャンは働かなくてもよいのでしょうか?

そんなことはありません。むしろ逆です。
キリストは私達ひとりひとりを招いて次のように声をかけて下さっています。

bookすべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしのくびきは軽いからです。(マタイの福音書11:28-30)

”休ませてあげる”と言っているのに、”わたしのくびきを負いなさい”ってどういうこと??
と思いますよね。うまく説明するのが難しいですが、わたしは以下のように解釈しています。

私達はみんなそれぞれの重荷を負って生きていると思います。若い人は不安や受験勉強を取り巻く重圧感、若い社会人はいきなり与えられる社会的責任と人間関係。子育て、近所付き合い・・・。将来に対する不安を払いのけるために人は一所懸命に何かに励み、自分の居場所や自己実現を求めて努力を重ねます。「生きることって、つらい。でもそれが人生。」と思ったことは一度ならずともあるのではないのでしょうか?

キリストを心に受け入れることで、自分の居場所が確保できます。それは親子関係よりも強く、夫婦関係よりも確かで、兄弟関係よりも親しい、永遠に続く関係の中で確保していただけるのです。心優しいキリストは、どこまでも優しく、へりくだり、私達の足を洗って下さる神なのです。(ヨハネの福音書13:1-16)・・・ちなみに、この行為はお互いに仕え合うことの模範としてキリストが弟子たちにされた行為ですが、「足を洗う」と聞くと、新しい人生の出発のようにも思いますよね。(これは余談)
神に愛され、受け入れられていること、神が自分を目的をもって創られたお方であることを知った人は、少なからず、「神様のために何かをしたい」と思うようになります。しかし、この時に「神様の素晴らしさを世の中で輝かせるような働きをしたい」という純粋な思いから「自分はクリスチャンとしてコレコレをして後世に名を残したい」などという気持ちが入ってしまうと、そのくびきは重くなってしまいます。

神はわたしの人生の神であって、すべて神の目的に適ったことだけが成就するようにのぞみ、人生がどのように進んで行くかも神の御心どおりになってほしいと思えるところまで休んでいなければならないのだと思うのです。神が本当に神ならば、その神が自分のために十字架にかかるほどに自分を愛してくれているということが本当ならば、自分が理想とする人生よりも神がわたしに望んでおられる人生を歩むことこそが自分にとっても最も良い人生なはずであると気付くはずです。

なので、キリストは”わたしのくびきを負いなさい”と言われたのだと思います。

なので、キリストはまず自分のところに来て、神の子とされた確かな証拠をもって安らぐことをまず求めておられ、そのような確証をもらっているクリスチャンは自分自身のための人生の重荷をおいて、キリストのくびきを背負うことを求めておられるのです。

そのくびきは、その人によって違う「神のくびき」なのです。その人にあったくびきであるために負いやすいのです。なぜなら人はそのくびきを背負うためにデザインされ、その人の人生はそのために備えられてきたからです。自分を創られた神が用意してくれた人生の目的にそって生きる時に、そのくびきは神ご自身(聖霊)によって背負われるので、重さはさほど感じられず、自分では説明のつかないような働きが出来たり、目的通りに生きる喜びに満たされるのです。

現実に戻ると、職場ではおそらく"Do your work!"と急かされることと思いますが、同じことをするのにも、心の中で、"Yes. I am doing His work."と言い直すことで、仕事に対する意識や姿勢が違ってくるのでは・・・とも思うのです。そう思えるようになれば、神とともに歩む一歩を踏み出したことになるのです。
(今日の写真はPalo Alto市の海岸にある公園、Baylands Nature Preserve)
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2008年3月 2日 (日)

日曜礼拝シリーズ:何もしてはならない日にすべきこと

聖書箇所 (1)book出エジプト記 20:8-11

安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし、七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・・(中略)・・・それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

メッセージ要約 (1):
安息日は、神が私たちを創られたということを思い出す日です。
私達が週末に休むのは、平日の疲れを癒して新しい一週間に備えるためです。私達は効果的に働く為ために休んでいるのです。

しかし、神の安息は違います。

聖書は神が疲れたから休まれたとは書かれていないのです。
神は7日目に、創造のわざを完成されたので休まれたのです。(創世記2章2節)
そして、あなたも神の創造物なのです。私達は自分自身が何者かであるようにするためにもがいています。自分自身を創造しなおそうとしているのです。しかし、神は安息日を設けることで、創造の業が完成していること、あなたを創られたのが他でもない神であることを思い出してほしいと思っておられるのです。
なので「神様、結構です。自分だけでどこまで達成出来るのかを試してみたいんです。」などと言わないで下さい。

聖書箇所 (2)book出エジプト記 31:12-18

・・・あなたがたは、必ず私の安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、私とあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。

メッセージ要約 (2):
安息日は、神が私たちを選ばれたということを思い出す日です。
ユダヤ人たちは自分達が選ばれた民であるということを覚えておく為にも今も安息日を守っています。私達も何をするかということで、自分のアイデンティティを築こうとするのではなく、自分が神に選ばれてこの世に存在しているのだということを思い出す必要があります。キリストは「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだのです。」と言われました。キリストは国の首相や大統領のように数ある神々の中から私達が選ぶものではありません。キリストははじめからすでに王なのです。その王であるキリストの選びに招かれていることを覚えておく必要があります。

聖書箇所 (3)book申命記 5:12-15

・・・あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そしてあなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたがそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。・・・

メッセージ要約 (3):
安息日は、神が私たちを救い出されたということを思い出す日です。
7月4日はアメリカ独立記念日(Independence Day)です。これは自分達が自分達の手で独立を勝ち取ったことを祝うような日ですが、安息日は、救いは神から来ることを思い出して、神により頼んで歩むことを学ぶ"Dependence Day"であるべきです。
I can do it!ではなく、He can do it!というべきなのです。

hide-tanの感想confident
最後の"I(私)"ではなく、"He(神)"であることを聞いたときに、そういえば、アルファベットは"I"の前が"H"であるなあと思いました。神は出エジプトでユダヤの民の先を雲の柱という形で導かれました。
しかし、私の歩みは往々にして、自分が先、自分が先!(これをクリスチャン用語で"me first" Christianと言います。)という感じで、キリストが、自分のために命を捨てて下さった神の御子なるキリストが、私の先を進むこと、私の人生の主導権をゆだねることを禁じているように思います。

行く手になにが待ち受けているのかわからないのが私達の人生。私を創り、私を選び、私を十字架の血潮という代価で贖(あがな)ってくださったキリストに自分の先を導いていただく、そのような人生を歩むのであれば、「一寸先は闇」が「一寸先はキリスト」に変わり、恐れる必要はないのだと思わされました。

(写真:Foothills Park。今日は2 dads&5 kidsでピクニックに行きました。桜が満開、緑は眩しい美しい季節になりました。)
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2008年2月24日 (日)

日曜礼拝シリーズ:(後半)あなたの心を開くもの

マルコの福音書3:1-6 book イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

説教要旨(後半):
正しいことを行うキリストは、”正しいこと”を教えているはずのパリサイ人にとって脅威になっていました。すべての日が安息日となることは、神の国の到来の目的です。キリストは手のなえた人を癒すことで、安息日の意味、目的を回復させたのでした。
しかし、これを見たパリサイ人はイエスを殺す計画を安息日に立てたのです。それを知っていて、イエスは「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われたのです。

私達は自分の行為を正当化することを真理を探究することであるというふうに置き換えていないでしょうか?

かたくなな心は自分の周りに壁を作り、他人のあやまちをゆるさない心です。
他の人の心を大切にしない心です。

キリストはそのような彼らの心を見て、「怒り」「嘆かれた」と書かれています。
それはそのようなかたくなな心をも癒したい、という気持ちの表れに違いありません。

もしかしたらあなたは他人との関わりに対する恐れから、神に対しても一定の距離を保ちたいと思っているかもしれませんね。しかし、神の霊があなたに働かれることをゆるしてください。そうすれば神はキリストの本当の心を見えるようにしてくださいます。
それは、以下のフォークソングの歌詞にあるようにあなたのかたい心をも受け止めたいという思いです。そして、今日のクワイアー賛美の歌詞にもあったように(〜Gaze of love melt my pride〜)あなたのかたくなな心を柔らかくしてくださる彼の眼差しを見ることでしょう。

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Hard Partnote
(David Wilcox and John Whalen)

I see the look that's in your eyes
That says 'I must keep most of me inside
'Cause you'd never love me if I didn't hide
the secrets of my heart”

Well I'm not here for the surface stuff
I just get bored with all that fluff
So show me the edges even if it's rough
And let the real love start

You think your shame and deep disgrace
Are more than I can bear
But you can go to your darkest place
I will meet you there

And I'm strong enough to take it
And I know what you've been through
You've got a whole heart
Give me the hard part
I can love that too

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hide-tan感想:
ここで牧師はたしか、recreationという言葉を使っておられました。休養を意味するrecreationは、よくみると、re+creation:再創造=新しい天地を創りなおすことを意味するんですね!これはクワイアーの中でも話題になりました。キリストの行為は、来るべき本当の安息日の到来を知らせるものでもあったのだと思います。

黙想では、

他人より勝ろうとすることが他人を愛そうとすることより重要なものになっていないでしょうか?

ということが語られていました。

私の黙想は以下の感じでした。
「そのような他人よりも勝っているものとしてみられたいという思いが自分の心の中にもあるんじゃないか、他人を裁く思いから完全に逃れることはできないし、世間体を保つ為にしきたりに捕われて本来すべき愛に基づいた行為ができなかったりもする・・・。キリストはそんな時、どうされていたのだろうか?・・・キリストは、自分を批難しようとする悪意の只中にあって、手の萎えた人の心を大切にしたのだ。”今日は安息日だから、また明日来なさい”とは言われなかった。安息日という決まりごとよりも、あなたの傷ついた心、あなたを悩ます萎えた手を癒すことが大切なのです、と言われたのでした。キリストは、この手の萎えた人を愛する為に律法の決まりごとを破られたのだ。
キリストは愛するために負けて下さったのだ。

キリストの十字架は、罪で歪んだあなたと私を助けるために負けてくださった出来事であり、キリストの復活は彼の正しさゆえにあなたと私のために勝ち取られた勝利なのです。

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日曜礼拝シリーズ:(前半)私の中のパリサイ人

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「DSCF0325.WAV」をダウンロード
写真と音声ファイル:"Hymn"という曲をクワイアーで賛美しました。メッセージの内容と合わせた歌でした。

今日の聖書箇所:マルコの福音書2:23-3:6

マルコの福音書2:23-28book ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」

説教要旨(前半):
”しきたり”というものの中には良いものもあれば、良く無いものもありますが、人々は時として、なぜそのようなしきたりがあるのかということを忘れがちではないでしょうか?

安息日というのは、天地創造を6日間で終えて7日目に休まれた神様を覚えて、この日を聖なる日として仕事を休んで神様に感謝する日にしましょう、という目的でもうけられた日です。しかし、ユダヤの律法学者(パリサイ人)たちは、その安息日を守ることで、自分を正当化し、守れない人を攻撃することによって自分の地位を守ろうとするようなことをしていました。安息日の目的を忘れ、安息日を守ること自体が目的となってしまったのです。
ここでイエスが語られているダビデはやがてイスラエルの王となった人でした。祭司アヒメレク(アビアタルの父)はダビデを来るべき王として認めたので、本来は神に捧げるべきパンで祭司以外は食べてはならないパンをダビデに与えたのでした。(hide-tan注:このアヒメレクはこのために、その直後、ダビデの命を狙うサウル王に殺されてしまいます。第一サムエル21章参照)
この祭司は王国に忠誠を誓うことは、王に対して忠誠を誓うということを心得ていたのですが、この律法学者たちは神の王国の王であるキリストを自分の”王国”を守る為に退けようとしていたのでした。
私達はクリスチャンとしての”聖書的な”しきたりを守ることに熱心になりすぎて、神様の愛を人々に示したり、神様の栄光を人々が見ることができるような聖書的な生き方をすることを忘れていないでしょうか?
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hide-tanの感想(前半):
この箇所を読んでの感想はいつも、「まったくパリサイ人はしようがない奴らだ・・・」と言ったものでした。しかし、自分を振り返ってみると、たとえば研究室で、みんながしたがらないような実験室のメンテナンスを毎回自分がせざるを得ないときに「自分の実験のことだけ考えてんと、こういったこともちゃんとせんとあかんやろ!」と心の中で怒ってしまっている自分に嫌気がさす事があります。
同じことをするのでも、「これで、他の人が実験するときに便利になる。嬉しいな〜。」みたいな喜びをもってやらないととは思うのですが・・・。自分の中にもパリサイ人がいる、ひょっとしたら結構ウジャウジャいるかも・・・。


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2008年2月17日 (日)

日曜礼拝シリーズ:国籍というプレゼント

今日は、"Join the Party"というテーマの礼拝でした。メッセージの内容(英語)はPBCのウェブサイトでダウンロードしたり、聞いたりできます。

聖書箇所:マルコの福音書2:13-22

 
イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」  ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。(2:13-20)
説教要約: この箇所の前半では、イエスが取税人レビを弟子にする話が出て来ます。取税人というのは当時のイスラエルでは、支配者ローマ帝国に加担して、人民から税を徴収し、しかもローマの圧力を利用して多くの税金を徴収し、差額を懐に入れていたという人達でした。ですので、経済的には恵まれていましたが、社会からは除け者にされている存在でした。 イエスはその取税人レビのところに、やってきて、彼を弟子にし、そして取税人や罪人が集まるパーティに参加したのでした。イエスは神の御国からやってきて、私達のところに来て下さいました。そして、彼はシナゴーグで待っているのでなく、私達が今いるこの場所にまでやって来てくれるのです。イエスが彼を受け入れるのに、取税人であることを止めて、身を浄めてからでなければならないとは仰りませんでした。神は私達をありのままの姿で、今いる場所で受け入れて下さるのです。 後半の箇所では、私達がキリストのウェディングパーティに招かれていることが述べられています。イスラエルはこれまで、キリストの来臨のために断食をしたり、嘆いたりしていましたが、もうキリストが来たのだからその必要はないのだと語られました。しかも、聖書の別の箇所では、私達教会はキリストの花嫁(エペソ5章26-32節)として描かれています。私達は、結婚式において、イエスと目を合わせることになるでしょう。しかし、それまでの人生でもきっと沢山のことを経験すると思います。がっかりすることも、悩む事も、疑うこともあるでしょう。しかし、どんなときでも私達は結婚相手であるイエスに目を向けましょう。そうすれば溢れ出る喜びをきっと経験することでしょう。 hide-tanの感想: キリストに出会い、受け入れてもらうために、生活を改めるとか、今いる状況を変えるとかいう必要はありません。イエス様はそのままの私達を受け入れて下さるのです。なのにクリスチャンとなった人々が生活が一変したり、人格まで変わっていくのを見るのはどういうことでしょうか? マックス・ルケードはその著書"Just Like Jesus"の中で、このようなことを書いていました。 あなたの幼い娘が泥んこ遊びをしていて、パパー!(あるいはママー!)と叫びながら抱きつきに来たとします。手足だけでなく、顔も泥んこです。あなたは泥んこを綺麗に落とすまでは私の子ではない、愛さないと言うでしょうか?そんなことはないはずです。泥だらけのまま愛して抱き上げますよね。しかし、だからといって、泥んこのまま食卓に着かせたり、寝かしたりはしません。きれいにしてあげますよね。それと同じことを神様はあなたにしてくださるのです。 罪をもったまま、汚れたままでイエスに出会っても、あなたを愛する神の愛はそれによって減ったりするようなものではありません。逆に「きよい生活」をしていれば、その分、神の愛が増すといったものでもありません。神はもうこれ以上ないほどの愛ですでに愛して下さっているからです。 クリスチャンとなった人が、祈りや聖書や交わりを通して生活や言動に変化が生じるのは、そのようにしようという人間的な努力によるのでなく、イエスとともに歩みはじめたときから、聖霊なる神様がそのように変えていってくださるからです。そして、それは私達がさらに良いものを手にし、豊かに生きるためなのです。 (写真:夫婦のように寄り添いながら伸びるRedwood) 7266 また、後半では私達がキリストの花嫁であると述べられています。私は男なので、『花嫁』という言葉にピンと来ませんが、自分はキリストの体に連なるものなのだと言うことだと思います。聖書には”私達の国籍は天にあります(ピリピ3:20)”と書かれていますが、私達はキリストの花嫁となるからこそ、その国籍を与えられるのであって、その証拠として、あるいは入国ビザとして、キリストを自分の救い主であると聖霊が信じた時に与えられるのです。

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2008年2月10日 (日)

日曜礼拝シリーズ:起きて歩きなさい

(写真:パロアルト市内の朝焼け。AM 7:15)
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(音声ファイル:"The Last Supper" 礼拝の聖餐式では、私達クワイアーが賛美しました。)
「last_supper.WAV」をダウンロード

聖書箇所:マルコの福音書2章1~12節

数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

説教要約:
罪を自覚し、そのゆるしを神様から受け取るという行為は信仰の基盤をなすことがらです。
しかし、私達はしばしばこのゆるしのメッセージを神から十分に聞き取れていないのではないでしょうか?
さて、この箇所では、中風を患う人の(おそらく)友達が、建造物を壊してまでイエスのもとにこの人を連れて来るという行為を行いました。それは、彼らにとって非常にリスクを伴う行為だったのです。彼らは癒しを期待していたのであって、罪のゆるしを期待していたわけではありませんでした。しかし、イエスはこの人の表面的なニーズだけでなく、本当のニーズを見て取って、「あなたの罪はゆるされました」と仰ったのです。そして、イエスの癒しの奇跡や悪霊を追い出すという行為はイエスが神の子であり、罪をゆるす権威を持っていることの証明でした。
かくして、中風の人は、罪のゆるしの確証として、病を癒されました。
私達も、霊的に不自由なところはないでしょうか?罪の感覚が麻痺したりしていないでしょうか?
イエスはこの聖書の話を通して、私達にも「聖霊にあって新しい人生を歩みなさい」と言って下さっています。

hide-tanより:
この箇所を読んで以下のことを考えてみて下さい。絶対という答えはありませんが、いろいろ想像して、聖書に書かれている記事を自分の置かれている状況と比べてみて下さい。

1:罪をゆるすのと起きて歩けというのはどちらがやさしいと思いますか?
2:屋根を壊した人たちの思いはどのようなものだったでしょうか?
3:麻痺の人はどのような思いで吊り下げてもらったのでしょうか?
4:「罪がゆるされました」と言われたとき、麻痺の人はどう思ったでしょうか?屋根を壊した友人たちは?
5:なぜイエスは自分には罪をゆるす権威があると言っているのでしょうか?
6:この話の中に登場する人たちの中に自分がいるとしたら誰でしょうか?
7:この話の登場人物のその後の人生はこの出来事を通してどのように変えられたでしょうか?

1番目の質問は難しいかもしれません。

私はいろいろ考えたあげく、今のところは、「罪がゆるされました」と「起きて歩きなさい」は同じくらい難しいのだと思います。こういったことは神でないと行い得ないことを言われたのではないかと思います。加えて、私には神様がこのように言って下さっているように聞こえます。
「子よ。私はあなたの罪をすべてゆるした。起き上がって、私とともに人生を歩みなさい。」
この記事では起きて歩いて行きなさいというニュアンスですが、イエスが復活して、キリストの霊である聖霊なる神がともにいてくださる今では、”歩きなさい”というのは、”私と一緒に歩きましょう”という意味になるのではと思うのです。
そして、もう一つの意味合いとして、これは来る世、神の国への招きの挨拶でもあると思います。
「子よ。あなたの罪はゆるされました。起きて(復活して)、神の国に足を踏み入れなさい。」

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2008年2月 3日 (日)

日曜礼拝シリーズ:(後半)神からあなたへのYes!

さてツァラアト(=ハンセン病)に冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまづいて言った。「お心一つで、わたしをきよくしていただけます。」 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」 すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。(マルコの福音書1章40-42節)

A man with leprosy[a] came to him and begged him on his knees, "If you are willing, you can make me clean."
Filled with compassion, Jesus reached out his hand and touched the man. "I am willing," he said. "Be clean!"(Mark 1:40-41)

hide-tanによる聖書基礎知識:
今回の話は、ハンセン病の人の癒しの話です。
旧約聖書では、ハンセン病は汚れているとみなされ、そのための「診断基準」とかかった人、患者さんに関わった人に対する厳しいルールがありました。(旧約聖書レビ記13章参照)
病気になった人は、病気でない他人がまわりにいるときには、人が自分に近づかないように「汚れている!汚れている!」と叫び続けなければなりませんでした。
ここで登場する人も、自分の責任でもないのにこの病気に冒され、家族からも、友人からも引き離され、誰とも接触できない、つらい時を過ごしていたのだと思います。そこでイエスと出会い、手を延ばして触れてもらうという経験をします。
この病人の立場にたって考えると、さらりと書かれているこの記事が、この人の人生にとっていかに大きいことかが想像できると思います。

礼拝説教要旨:
かくして、イエスは他の地域にもでかけ、多くの人がイエスを信じるようになりました。そんな中でハンセン病のこの人との出会いによって、イエスは深いあわれみをかけて、この人に触れて癒しました。
イエスはこの人を癒したあと、「このことは誰にも言わないように」と告げました。噂が広まると混乱が生じ、ご自分が思っておられるようなミニストリーが出来なくなることを危惧しておられたのでしょう。しかし、イエスの意に反して、この人は喜びのあまり黙っておれなくなり、その結果、イエスは人里離れた場所にとどまる必要が生じたのです。ハンセン病だった人は街の中心になり、イエスは離れたところに・・・立場の逆転です。
イエスと私達の出会いも立場の逆転からはじまります。私たちは罪ある者として、神から離れたところに居なければならないものでしたが、イエスが私達の罪を担い、本当は罪のないお方なのに罪ある者として神から捨てられるという罰を身に受けたのです。
また、私達はこのハンセン病患者のようにそれぞれ癒されるべきところを持ち合わせています。私達は癒されるべきところをイエスの前に持って来る必要があるでしょう。聖霊様はおのおののクリスチャンの内に住まわれ、教会を通して業をなそうとしておられます。自分が癒される場としては、時にはそのようなクリスチャンが集うスモールグループのような、お互いを受け入れ合う雰囲気の中でなら可能かもしれません。

あなたがどのように相手に触れるかということは、あなたがその人にとってどのような存在であるかを現します。イエスは私達に触れるためにこの世に来られました。そして、イエスは私達を癒し導いて下さるのです。

hide-tanのコメント:
英語NIVでは、"If you are willing・・・"と訳されています。もし・・・と願い出ているのです。
彼は病を癒して欲しいということを口にしましたが、その本当の意味するところは、自分が存在することを認めてほしい、誰かに愛されて触れて欲しいということだったのだと思います。彼は長い間の苦しみの中で、本当に癒して欲しいところを言葉にできないまでになっていたのです。私達も苦しみの中にある時、問題を抱えている時、心に傷を抱えているときにそれに関連しているけれど直接的ではないことを祈ってしまうかもしれません。しかし、イエスは私達の心のすべてを知っています。私達が忘れかけている、忘れようとしている傷までも知っています。そして、イエスキリストはそこにまで手を伸ばしてくださるのです。
このハンセン病の患者と同じく、私達の神への祈りは最終的には「こんな私でも、もしお心でしたらその存在を受け入れて下さるでしょうか?」という祈りにつながるのではないでしょうか?
この美しい物語は、そのようなあなたの祈りに対する答えはいつも"Yes"であることを教えてくれているのです。
(写真:まだまだ雨期のこちらですが、時には春の気配が感じられるようになってきました)6498

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日曜礼拝シリーズ:(前半)理想的クリスチャン?

今週の聖書箇所は、マルコの福音書1章35-45節でした。今回は二つの話が含まれているので前半と後半に分けて書きます。まずは前半。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しいところへ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコの福音書1章35節)

礼拝説教要旨:
1:イエスに従うことこそ・・・
この箇所の前半では、イエスが父なる神に祈り、そしてその御声に従ってミニストリー(教えたり、祈りによって病を癒したり、悪霊を追い出したりすること)の場所を移そうとしました。弟子達は、ミニストリーが成功しているこの地域で、働きをすすめることを薦めましたが、イエスは祈りによって、他の地域にミニストリーの場所を移すことで、より多くの人に神の国の知らせを伝えようとされたのです。私たちも、社会的正義を成し遂げることにフォーカスを置きすぎるのではなくイエスに従うことをゴールとしたいものです。

hide-tanの感想:
私にとってはイエスに聞き従うことは、生活そのものであって、ゴールというものではありません。あえていえば「手段」だと思っていました。神様は私をいのちを捨てるほどに愛し、今も生きて私のために導いてくれているので、この方に聞き従いたいという気持ちがあります。(実際は、そういう霊的な気持ちと、自分の肉的な思いとの間で戦いがあります)そして、ゴールとして(1)キリストに似た者にされること、そして、(2)多くの人にイエス様を紹介することの二つを見据えて歩みたいと思っていました。しかし、今日のメッセージから私が”手段”と思っていたことが、直接ゴールにつながっているようにも思えて来ました。

私の”ゴール”で大切なことは、キリストに似た者に「される」と言っている点であって、自分が描くキリスト像にあわせようとして、自分の努力でキリストに似た者に「なる」と言うことではない点です。もし、そんなことをすれば、神など現実的なものではなく単なる概念あるいはシンボルにすぎず、私はそれを利用して立派な人物になるように努力しているということにすぎません。あるいは、キリストを神の子ではなく、「昔々のエラい人」という地位に落とすだけで、一部の人からの尊敬を浴びることはあっても、”自分もあのようにキリストを信じて生きたい”とか”もしかしたら、神は自分もあんな風に私を愛して下さるのかもしれない、もしかしたら私の人生を大切に思って下さっているのかもしれない”という希望の光を灯すことはできないに違いないと思います。

それは極端に言えば、悪魔が欲している”理想的なクリスチャン”なのです。

そして、私は今までのクリスチャン生活(信仰歴20年)の大部分をそのような”理想的クリスチャン”として歩んで来たのです。

しかし、キリストの霊である聖霊は今も私とともに生きていて、それは私たちクリスチャンにとっての「現実」です(ローマ書8章)。そして、神の言葉(=聖書)も生きていて力があります。それは世界の歴史さえ変えて来た程の力がありますが、聖霊の助けのもとでこれを読むときに自分が変えられていくような経験をします(ヘブル書4章12節)。聖書を読んで、祈ること、教会に行ったりすることも精神修行の機会として行うのではなく、本来は今現実に自分を愛し導こうとされる神に親しく呼びかけながら、喜びを感じながら行うものなのです。
それは、聖霊様と波長を合わせて生きることです。それは、朝の目覚めを喜び、車に乗る時に祈り、苦手な人と話をするときに祈り、苦手な仕事をするときに祈り、ことあるごとに感謝し、素晴らしい自然や人物に出会ったときに神を賛美し、そして一日の終わりに感謝を捧げるような生活です。そのようにすることで、自分では持ちえない親切心が芽生えたり、自分ではなしえない選択が可能となったり、これまでわからなかった神のこころが分かるようになってくるのだと思います。
もし、これを読んでいる人がクリスチャンであってもなくても、神が現実に生きていることがわからないという方がいれば、祈りの中で率直にこう言えばよいと思います。

「神さま。聖書を読む時に私の心の耳を開きあなたの声を聞かせてください。あなたが創られたこの世界の中にあなたの指先のあとを見せて下さい。そして日々の生活の中であなたが私をどのように支えてくださっているかを教えてください。」

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2008年1月20日 (日)

日曜礼拝シリーズ:海辺からの呼ばわる声

聖書箇所:
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。(マルコ1:16〜18)

これまで私たちはマルコの福音書から、荒野で叫ぶ洗礼者ヨハネの声天から届く父なる神の声を聞いてきました。今日は、海辺から呼ばわるイエスの声を聞きたいと思います。

ここで、イエスはシモンとアンデレという二人の兄弟に声をかけ、「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びかけています。イエスは彼らに「私についてきなさい」というメッセージとともにこのような微妙な(比喩的な)ニュアンスの言葉で声をかけています。渡り鳥のような移動を常とする生き物の中にはちょっとした気候の変化をにわかに感じ取り、行動をおこすものもあります。私たちへの神からの呼びかけもそのようなものかもしれません。静かにあなたに語りかけるイエスの声は。あなたの人生を大きく帰るよびかけかもしれないのです。

このような呼びかけを受けたときに私たちは安心して従えば良いのです。イエスは私たちは呼びかけるだけでなく、私たちを教え導き、私たちをよりよい形に作りかえてくださいます。あなたは自分自身で自分を作り替えようとか自分で何か変化を起こそうとか思う必要はありません。あなたがイエスに従う決心をしさえすれば、あなたを作られた神ご自身があなたを変え、あなたを用いて神の良い業を行って下さるのです。そして、彼は私たちが考えるよりさらに大きな変化を、あなたを通して世界に起こしたいと思っておられます。

もう一度言いますが、あなたは自分で何かをしようとする必要はありません。しかし、神は「ついて来なさい」と言って、あなた自身を必要としてられるのです。

そして、イエスは私たちがどのような人生を歩んで来たかということを知っておられるので、”人間をとる漁師にしてあげよう”というように、私たちの背景を反映させた語りかけをしたり、私たちの得意分野を用いようとしてくださることがあります。しかし、この聖書箇所には”網を捨て”とあるようにイエスの弟子になるためには、これまでの人生で大切と思って来た「何か」をあきらめる必要があるかもしれません。しかし、神は私たちが捨てなければならない何かをはるかに凌ぐよりよい恵みを与えて下さいます。

ドイツの有名な神学者Dietrich Bonhoefferは、学者としてのキャリアを捨てて、ナチスに対抗すべく教会の活動に加わりました。当時の教授陣は、”教会の混乱のための犠牲となった”ことを嘆き、彼自身はついには第二次世界大戦が終わる直前に絞首刑にされたのでした。彼はキャリアを捨てて、神の計画に従いました。彼はいのちを捨てなければなりませんでしたが、彼自身、その著書”The Cost of Discipleship"で神からいただく恵みには二種類あり、その一つが「犠牲を伴う恵み」であると記しています。彼は最後までキリストにつき従い、本当のいのちを得たのでした。

今、私たちは海辺から呼ばわるイエスの声を聞いているのではないでしょうか?
「私について来なさい。」という声を。

hide-tanの注:
これは、神様からの救いを得るためには職業を捨てたり、いのちを捨てたりする必要があると言っているのではなく、クリスチャンとして、神からいただく報酬の素晴らしさを知っている人に対して向けられたメッセージです。キリストの救いを受け、永遠のいのちを得るためにはキリストが十字架で私たちの罪の身代わりになって死んで下さったことを信じればよいのです。キリストの弟子となり、時には犠牲を払ってまでも神の御心にかなった生き方をすることで、さらに豊かな報酬を受けることができるということをすすめているメッセージです。

子どもがある人の子どもであるためには、ただ生まれてくるだけでその親の子どもですよね。
この親から生まれて来たという事実は変わりません。”信じて救われる”ということは、このように新たに生まれることを意味します。一方で、その子がその親の子らしく育つためにはその親に習わないといけません。もしかしたら、これを読んであられる方の中には、自分の親へのイメージが悪い方もおられるかもしれません。また自分が親として子どもに対して関われていないことに気づいたり、多くを背負わせすぎているようなことを反省している方もおられるかもしれません。

しかし、天の父なるまことの神様は、完全な方です。私たちを形づくった方なので、私たちのすべてを知っておられます。そして、まったく欠けの無い愛で私たちを愛してくれています。キリストを信じたときには人は間違いなく神の子として生まれます。しかし、神は私たちすべてが、ただ生まれるだけでなく、神の子として、”神の目から見た”豊かな人生を生きることをのぞんでおられるのです。それは神の、子を愛する親としての性質の現れです。

なので、イエスからの「私について来なさい」という声は、「我が子よ。私はあなたを子として愛し、育てたい。あなたの人生が良いもので満たされるように、私に習いなさい。」と言って下さっているのだと思います。だから、海辺から呼びかける声は、私たちの心に重くのしかかるものではなく、とても嬉しく光栄な呼びかけとして高らかに私たちの胸に響くのです。

The Cost of Discipleship


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2008年1月13日 (日)

日曜礼拝シリーズ:あなたに届く天の声

今日はバプテスマ(洗礼)式があり、礼拝メッセージもそれにちなんだ内容でした。

聖書箇所:マルコの福音書1章9-15節
”そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった。
そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて、御霊が鳩のように自分の上に来られるのをご覧になった。
そして天から声がした。「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」(9-11節)”

説教の概要:
筆者マルコはイエスは神の子であるということを、この書物の前提として、イエスの宣教の最初のこの出来事を通して書き記しています。

この箇所は、子なる神イエスキリストに聖霊なる神が下り、父なる神の声が宣言するという三位一体の神が一同に現れる素晴らしい瞬間を記しています。父なる神は、「これは私の子である」と宣言されましたが、新約聖書にパウロはこのように書き記しています。

”あなたがたはキリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。(ガラテヤ3:26)”

人は自分が本当にしたいことと、他人が自分にしてほしいと思われることのバランスの中に生きています。それは、自分が他の人から認められたいという思いがあるからです。他人から認められるということはそれなりに意味のあることでしょう。しかし、神から認められるということはどうでしょう?それはこの世でだけではなく、永遠に意味のあることなのです。

キリストへの信仰により、彼につくものは、イエスがされたのと同じ経験をします。
だから、キリスト・イエスを信じたあなたが最初にする経験はこのようなものです。
すなはち、天が開けて父なる神がこのように宣言されるのです。「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜んでいる。」と、そして、聖霊なる神があなたのうちに住まわれます。
神はご自分の創造物を喜ばれる方です。神は不必要な人を創ったり、もともと捨てる目的であなたを創ったりするようなことをなさいません。あなたが神の前に出たとき、"You are enough."(そのままでいいんだよ)と言ってくださるのです。

さて、神の子であるキリストは、このバプテスマの経験をしたのちに荒野でサタンの試みに会わねばなりませんでした。そして、最後にエルサレムでは、大変な苦しみの中で十字架に貼付けにされました。キリストは神の目的を達成させるために苦しみを経験しました。

私達も神の子とされたのち、イエスのような苦しみを味わうことがあると思います。それは、神があなたを愛しておられ、神の子としてふさわしく歩むための神の計画です。それは神があなたを子として扱うからこそのことなのです。

クリスチャンであるあなたは、神の子として歩みたい、神の計画を成し遂げたいと思っているでしょうか?毎日、聖霊の語りかけに耳を傾けているでしょうか?

マルコは旧約聖書のすべてはイエスキリストにより完成されることを記そうとしています。あなたの人生がイエスキリストを指し示すような歩みをし、あなたの人生をキリストによって完成させていただきましょう。あなたの物語を神の偉大な物語に加えていただきましょう。

「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」

この言葉とともにキリストイエスにある新しい人生を永遠に意味のある人生をともに歩んでまいりましょう。

hide-tanの感想:
キリストに語られたこの言葉が自分にも向けられているという特権をあらためて確認しました。
「あなたの物語を神の偉大な物語に加えていただきましょう」というくだりは昨日、私がminoriに話したことが自分にも返って来たという気がしました。私の物語をイエスキリストの物語にしていただくためには、自分の人生の主人公はキリストでなければなりません。人生を終えるときに、「hide-tanはキリストのためにエラい頑張ってた」というよりは、「キリストがhide-tanの人生の中に生きているように思った」と言われるクリスチャンになりたいと思いました。
(写真:サンフランシスコのユニオンスクエア)
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2008年1月 6日 (日)

日曜礼拝シリーズ:荒野で叫ぶ声がする

聖書箇所:マルコの福音書1章1〜8節

”神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を整えさせよう。
荒野で叫ぶ声がする。
『主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ。』

そのとおりに、
バプテスマ(=洗礼)のヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。”

礼拝説教の内容:
ヨハネはキリストの来臨に備えるために現れました。
彼は、そのための手段としてバプテスマ(悔い改めの印として、水に浸かる儀式をすること)を受けることを薦めました。洗礼はもともとは異邦人が聖別されるために必要なものであり、ユダヤ人には必要はないとされていました。しかし、ヨハネは、ユダヤ人であるからと言って自動的に神の民と呼ばれるのではなく、たとえユダヤ人であっても神に立ち返る必要があるのだということを伝えたかったのでした。
しかし、このようなことを宣べ伝えることは、当時のユダヤ寺院の権威に逆らうことでありました。それだけでなく、バプテスマを受ける人々にもリスクが伴うことでした。しかし、ユダヤ全土から人々が訪れました。当時、人々はそれほどまでに神の言葉に飢え渇いていたのです。そして、確かに今日でも、信仰を持つことにはリスクが伴います。世間から家族からの反対にあうこともあるかもしれない。それは、この世の法則に逆らうかもしれないからです。しかし、私達もこのユダヤの民と同じように神の言葉に飢え渇き、聖書に書かれてある神の声に聞き従うべきなのです。

ヨハネは人々の心を新しくするために現れました。それは、さらに良い世界の知らせを伝えるためでした。当時はローマの圧政から逃れたいとの一心で、メシア待望の機運が高まっていました。しかし、それは今を生きる私達の間でも、メシアのような人が現れることを期待していないでしょうか?映画のヒーローなどが救い主のように描かれているのはそういった人々の思いの現れではないでしょうか?

そして、私達は自分の人生の問題における”メシア”を期待しているのではないでしょうか?

人生の問題を解決するためには、社会的な成功を成し遂げたとしても、それだけでは十分でないことが多いのです。私達は、自分の周りに問題があることを認識しても、自分自身がその問題の一部であることを知らないことが多いのです。私達にはメシアが必要であり、私達は自分の問題のもとになっている罪の問題から救っていただく必要があるのです。

ナルニア国物語の作者であるC.S.ルイスは、”人々は自分の人生が権威あるものに干渉されるのを嫌う、これは自分の問題だ、ほっといてくれ、と言う傾向がある”と述べています。自分の人生は自分で支配したい、自分の人生の王は自分でありたいと思っているのです。

ここで描かれているバプテスマという行為ほど自分を低くして、神の前に立ち返ることを象徴するものはありません。バプテスマによって救われるというものではないのですが、それは本当に象徴的なものです。

私達は今日も、洗礼者ヨハネの荒野で叫ぶ声を聞いています。悔い改めとは、神の前に自分の罪の荷を下ろすことです。そのような悔い改めには痛みが伴うかもしれません。深い悔い改めは、心の奥深いところにある傷にキリストが届いてくださることを可能とします。罪の問題を解決してもらい、癒していただきましょう。

そして、神はあなたを目的をもって作られたということを認識しましょう。
そして、そのような神に対して「私は準備できています。あなたの目的の為に私を用いて下さい。」と申し上げましょう。

黙想:私達も荒野の声に聞き、悔い改め、神の王国を私の心に築いていただきましょう。
”もし私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめて下さいます。(ヨハネの手紙第一 1章9節)”

hide-tanの感想:
今日のメッセージは、私の新年のテーマ”Be Ready!"(1月1日記事参照)にも対応するものだったように思いました。今を生きるクリスチャンにとっては、キリストの再臨に備えるために自分の心を神の言葉に向けておくこと、それが、『道をまっすぐにする』ということなのだと実感し、帰宅後すぐに聖書に向かった単純な私でした。

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2007年12月30日 (日)

日曜礼拝シリーズ:キリストの系図に出てくる女性

今日の聖書箇所は新約聖書マタイ1章でした。

hide-tanによる説教要約(下線はhide-tanによる解説):
新約聖書のはじめのページを開くと、いきなり出てくるキリストの系図です。マタイは主にユダヤ人に向けて書かれた福音書ということもあって、イエスキリストがアブラハムとダビデの祖先であることを示す必要がありました。
この系図の中に女性が4人だけ出てきます。この4人はそれぞれ問題を抱えた女性でした。
まずはじめがユダ族のはじめであるユダに子を産んだタマル。創世記38章によると、彼女はもともとはユダの長男の嫁でした。しかし、その息子は悪を行っていたために死んでしまい、次男が長男のための跡取りを得させることを拒んだために死んでしまい、ユダは三男をタマルに与えることを拒みました。そしてタマルは売春婦となってユダをだまし、ユダの子を宿すことで、自分の役割を果たそうとしました。この手段は現在の私たちの社会で受け入れられるものでありませんが、彼女がこの系図に入れられたのは神の家族との関係を絶ちたくないという思いがあったからかもしれません。
次に遊女ラハブです。これについては10月6日の記事を参照してください。彼女は周りの環境にとらわれず、神の民の中に希望見いだしたのでした。
そして、ルツです。(ルツ記には彼女の美しい物語が描かれています)ルツは異邦人(神に選ばれしユダヤ民族以外の人を異邦人といいます)でした。彼女は、ユダヤ人である自分の夫が死んだにも関わらず、夫の親のナオミに付き従ったのでした。彼女はまわりからの差別に忍耐し、誠実に歩んだことがボアズの目に留まったのでした。
旧約聖書の最後には、ダビデ王の不倫の相手であるベテ•シェバ。これは9月22日記事を参照。ダビデは自分が犯した不倫と殺人という恐ろしい罪を悔い改め、神はそれをゆるし、彼女を系譜に加えました。

キリストの系図に出てくる女性はスキャンダルだらけです。そして、マタイは最後にマリアを加えています。彼女は聖霊によってイエスを宿しましたが、結婚前に子どもを身籠るというと社会的には受け入れがたいことでした。マタイがこのような人々を系図にわざわざ書き記した意図は、神はこのように問題を抱える人をもお用いになるということ、絶望的な状況の中からも救いの業を完成させうるお方であるということを強調したかったからだと思います。

hide-tanから:
キリストの系図を見直してみて、これは自分の人生のようなものかもしれないと思いました。
先日、自分の年表をこのブログの年表欄に加えましたが、人には言えない失敗や、悪いことをしたことなどは載せていません。しかし、神の前に広げられた私の年表には自分が目を背けたくなるようなものに違いありません。マタイの福音書の最初のページのこの退屈な系図のメッセージからは、私のこのような欠陥だらけの人生にもキリストの救いが成就されること、そして、私の年表はキリストの十字架の血潮できれいに清められ、私の誕生とキリストとの出会い、そして、キリストへの愛のゆえに私が行ったと神が認めてくださったことがらだけが書き込まれているのだと思います。汚れをぬぐい去って下さった年表に感謝し、これから先の年表は私を助けて下さる神様とともにひとつひとつ書き加えていけたらと思いました。
(写真:今日はPBCの礼拝のあと、サンタクララバレー日系キリスト教会の礼拝にも出席。なつかしい?日本語の礼拝とあたたかな交わり、そして十字架の前に生けられた盆栽を楽しんできました)
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2007年12月24日 (月)

日曜礼拝シリーズ:クリスマス礼拝賛美

今朝のクリスマス礼拝では私たち、壮年婦人クワイアー(聖歌隊)が賛美をリード(4曲)し、2曲を披露しました。
(写真:午前7時半の教会)
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降誕節の最終のキャンドルに火がともされ、Candlelight carol(男女5部合唱)という静かな曲をまず披露し、会衆賛美が終わり、メッセージ前にGloria!(男女4部合唱)というアップテンポの曲を歌いました。2曲とも非常に上手く行き、大好評を博しました。
(写真:クワイアー賛美の様子)
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”やみの中を歩んでいた民は大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいたものたちの上に
光が照った。
あなたはその国民を増やし、
その喜びを増し加えられた。
彼らは刈り入れ時に喜ぶように、
分捕り物を分け与えるときに楽しむように、
あなたの御前で喜んだ。
(イザヤ書9章2−3節:*イザヤ:紀元前8世紀の預言者)”

まさに今日の賛美はこのような賛美でした。
第一礼拝と第2礼拝の合間に指揮者が「キリスト降誕の時にそうであったように、天が開けて、天使がともに歌っているような気がしました。実をいうと、曲の途中で自分がどこの指揮をしているかわからなくなったけど、歌声に助けられて事なきを得ました!次の礼拝でもきっと天使がともに賛美してくれます!!」と妙な説得をされましたが、2回目の賛美も、たしかに天使が賛美を手伝ってくれたかのような出来映えでした。
後日記:翌日の指揮者からのメールには「私の期待を遥かに越えるものでした。みなさんの顔は光り輝いて、これは魂からの賛美だと実感しました。」と書かれていました。

預言者イザヤはそのあとこう続けます。

"ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名前は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、
これをささえる。今よりとこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
(イザヤ書9章6-7節)”

クリスマスは、これを読んでいるあなたへの神の熱心によって、そのひとり子が世に誕生した出来事です。
キリストの誕生は多くの人の人生を変え、歴史を変え、国々を揺り動かしましたが、神であられる御子が地上に来られたクリスマスの目的は、それだけのことではありません。キリストは粗末な馬小屋の汚い飼い葉桶に生まれてましたが、それはもしかしたら、私たちを取り巻く環境や私たちの心の状態を表しているのかもしれません。
『飼い葉桶のような私の心ですが、どうぞお生まれになってください』という祈りをするときに、キリストは大きな光とともに、あなたの人生に必ず現れて下さる、それがクリスマスのメッセージです。

(音声ファイル:Gloria!の賛美。妻のnori-tanがチャペルの最後列で録音。)
「gloria.WAV」をダウンロード

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2007年12月16日 (日)

日曜礼拝シリーズ:恐れからの解放

聖書箇所:ヘブル書2章10-18節
”・・・それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、・・・そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。・・・主はご自身が苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。”
(写真:妻が焼いたクリスマスリースのパン)
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礼拝説教の要旨:
イエス・キリストは私達のことを『兄弟』と呼んで下さると書いています。キリストがあなたのことを”兄弟”と呼ぶ時に彼は私達のことを恥とは思わず、「この○○こそ、私の兄弟です。」と言ってくださるのです。天地を創造し、すべてを引き継ぐ相続権をもたれる神の御子が、私達のことを「兄弟」と呼んで下さる、そのような特権に私達は与っているのです。

私達の長兄であられる御子イエスは、十字架で私達の罪をあがなって下さったことにより、私達をとりまく死に対する恐怖から解放して下さいました。私達人間は、神から離れた生き方をしている限りは「死んだらどうなるか?」と不安を抱きつつ生きるか、「自分は死なない」と無意識に死を意識しないようにして生きているか、あるいは「私は、死など恐れはしない、そこそこ良い行いもしてきたから審判があったとしても大丈夫」と思って生きていくより他ありません。
しかし、神を信じていようといまいと、すべての人に突きつけられているどうしようもできない事実があります。
それは、死というものは私達がコントロールできるようなものではないということです。私達は死を間逃れることはできないし、自分の齢を引き延ばすこともできません。
そのような私達のためにキリストは手をとって、死から解放して下さったのです。

またキリストは私達の大祭司として、神にとりなしをするためにご自身を犠牲にされました。キリストを信じる私達は神からの承認を得て天の御国を引き継ぐものとなるのです。
神に認められた私たちクリスチャンは、なぜ他人からの評価におびえる必要があるのでしょう?
死という恐怖の大魔王を討ち滅ぼしてくださった神がともにいて下さるのになぜ、他のものに怯える必要があるでしょう?

最後に、キリストは私達人間と同じように血と肉をもち、人としての弱さをもち、同じように試みに会われました。しかし、罪は冒さなかったのです。私達がキリストに習おうとして、人生を歩む時に様々な戦いに会うと思います。しかし、同じ人間として苦しみを味わられたキリストだからこそ、私達を励ますことがお出来になります。

あなたは今日、何を恐れているでしょうか?
あなたの兄であり、解放者であり、大祭司である神の御子キリストに助けて頂きましょう。

hide-tanのホンネ:
そしたら、クリスチャンになれば、なんの恐れもなく勇敢に歩むことができるのでしょうか?
そんなことはありません。断言できます!
私は小さなことに恐れつつ歩んでいます。
「次のプレゼンテーションまでにデータが揃うだろうか?」「来月の家賃は払えるだろうか?」「病気になって働けなくなったら家族はどうなるのだろうか?」などいつも気にかけています。
また人からの評価もまったく気にしないということもありません。
ボスや同僚からの評価、自分の子どもたちからの評価、同じクリスチャンからの評価など、時折気にしています。

しかし、クリスチャンになる前となった後での違いはあります。それは、すべてを支配しておられる神がともにいるので、恐れや周りの評価にとらわれることはないということです。

上に挙げたような”恐れ”はそれが生じた時に、神に祈って、自分がなすべきことをした結果を神にゆだねることで解決します。そうすることで、恐れは「やれるだけの仕事をして、その結果をあとで反省すればよい」「精一杯働いて節約しよう」「身体に無理がかからぬように調整しよう」という気持ちに切り替わります。

また人からの評価も自分の評判はどうでも良くなる分、二つの意味で自分に対する評価が気になります。
一つは神の目から見た評価です。
神の子どもとされる特権は、「イエスを誰だと思うか?」という質問に対して、”キリストは神の御子であり、私の救い主です。”と応えた時点で適用されるのですが、「与えられた人生で、イエスに対して何を行ったか?」という別の評価が下されます。またたとえ、そのような評価が下されなくても、自分を愛し、命まで捨てて下さった方、あるいは自分がお世話になった方が自分の人生を見て、喜ばれるかどうかを気にすることは祖先や人生の先輩を大切に思う日本人にとっても理解されるのではないでしょうか?
なので、クリスチャンは神の目を気にします

「自分というクリスチャンを通して見られる神がどのように人に映るか」ということを気にするようになります。「hide-tanってこんないい加減な人間なのか・・・」と思われるより、「クリスチャンってこんな人間なのか・・・」と思われることの方が気になります。本当は”こんな人間でもクリスチャンです。神に愛され、キリストとともに天国を引き継ぎます”と言いたいところですが、誰しもそのような受け止め方をするとは限りません。
私という人間やその行いを見て、「あいつみたいになるのならクリスチャンにはなるまい」と誰かが思っても、その人が神の前に立たされた時に「あなた(神)が、私の近くに置いたクリスチャンがあまりにイヤな奴だったから、キリストによる救いが本当だとは信じられませんでした」と言っても、なんの申し開きにもならないからです。
なので、クリスチャンは”自分がクリスチャンとして、クリスチャンでない人にどう映るか”を気にします。

クリスチャンであるということは、たまたま自分がなんらかのきっかけで他の人より早く救いを手にしただけであって、クリスチャンであるから立派だとか、そんなことは全くありません。また何も恐れず常に勇敢に人生を歩んでいるものでもありません。逆に私は、聖書が語る神が真実であり、キリストによる救いが本当であると知っているので、神を畏れ、神の目を喜ばせるような歩みをしたいですし、自分のあり方がクリスチャン人口が少ない日本人の中にあって、誰かをキリストから遠ざけるようなことをしていないかということに怯えています。
一見逆のことを書いているように思える以下の神の命令は、そうした姿勢によって守られるのではないかと思っています。

『強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア記1:9)』
(写真:今日私がアレンジしたクリスマスリース)
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2007年12月 2日 (日)

日曜礼拝シリーズ:明日を守られる方

今日の聖書箇所
ヘブル人への手紙1章5~14節

予期せぬ出来事に対処するためにはどのようにすればよいでしょうか?
私たちは、自分の人生をコントロールすることができません。しかし、御子なる神イエスは可能です。

1:イエスは父なる神の長子でありました。
2:イエスは神の正義を世にもたらしました。また世に喜びを与えました。
3:イエスは変わることがありません。明日も頼ることが出来る方です。
4:イエスは王である。

これらのことから、私たちはすべてを支配しておられるイエスを頼ることが出来るのです。
明日には何が起きるか私たちにはわかりません。しかし、明日のことを完全に支配しておられるイエスがおられることを私たちは知っています。

hide-tanから:
今日のメッセージから私は以下のみことばと、歌の一節を思い出しました。

ヘブル人への手紙13章8節
『イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

『明日を守られるイエス様』
Ira F. Stanphill作詞作曲

明日は どんな日か 私は知らない
晴れか 嵐か 曇りになるか
私は 明日を 心配しない
イエスが 私を 守られるから

明日は 私には 分からないけど
明日を 守られる イエスが おられる

確かに、明日のことは予想がつきません。願わくば明日も無事で楽しく過ごせれば、そしてできれば、良い実験結果が出せれば・・・と思い、また、できれば3年間の間に少しでも臨床につながるような研究が出来、また自分も研究者として成長できるようにと思ったりします。でも、やはり明日のことはわからないのです。
でも、私のために命を捨てるまでに私を愛して下さる神を知っている私にとっては、そのような厚かましい願いを正直に申し上げることはあっても、同時に「全てをあなたの御手におゆだねしてお祈りします。アーメン。」と祈ることができるのです。

(ポトラックパーティ)
今日は、私のラボと同じ建物にいる日本人研究者の方の送別会のために、Huddart Parkというところでポトラックパーティに行きました。こちらに来てはじめての送別会でした。この方は、私とあって、自己紹介をした瞬間、「あー。ブログの方ですね。」と言ってくださった方です。着いて間のない私にとって、面識もなく、連絡もとってはないのに自分のことを知っている方に迎えてもらえて、ほっとした瞬間でした。
寂しく心細い面もありますが、スタンフォードで得られたことを糧に日本で活躍されるであろう皆様との再会を楽しみにしたいと思います。おつかれさまでした。

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2007年11月25日 (日)

日曜礼拝シリーズ:神から私へ、私から神へ

聖書箇所
ヘブル人への手紙1章1〜4節
”神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。”

メッセージの抜粋:
言葉には力があります。リンカーンの演説のように歴史に影響を与えた演説もあります。その言葉が神からのものであるのであればなおさらのことです。私たちが言葉を語るときは、誰かとコミュニケーションを取りたいときです。この箇所にも、『神は私たちに語られた』とあります。神様も私たちと関係をもつことを求めておられるのです。この聖書箇所で著者は、神が何を語られたのかということではなく、『誰から』語られたのかということに重点を置いています。神はイエスキリストを通して語られているのです。『神は言葉であった』とヨハネの福音書の冒頭にあるように、イエスキリストの現れそのものが神からのメッセージであるのです。
①神はキリストを通して全宇宙を造られた。
②キリストは神の完全な現れである。
③キリストは神の右に座しておられる。
④キリストは万物の相続者である。
このキリストが私たちに与えられた(ヨハネの福音書3:16)のです。これこそ、神からのメッセージなのです。今日、あなたももう一度神から語られたメッセージである福音書を読み返し、このキリストに対して"Yes"と言いましょう。(コリント人への手紙第2 1章20節)

黙想:
それでは、神に対してあなたが語るべき言葉は何でしょうか?
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hide-tanから:
旧約聖書の申命記30章14節には次のような言葉があります。
”まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。”

上記の黙想をしているときの神様に対してのつぶやき・・・
『神様、私が、心においても、行いにおいても聖くなり、人から信頼を得るようにしてください。そして聖書に書かれてある神の言葉が真実であることを証しできるようにしてください。』・・・と言っても、人に注目してほしいのは自分なのではなくて神様なのだから『私は不真実でも、神の言葉は真実です』というべきですよね・・・。そしたら、こう祈ります。『神様。私もイエスさまに似たものにしてください。キリストのうちにある聖さ、正しさ、力強さ、すべてのよいものを私に下さい!』・・・って貪欲だけど、神様はこのようなことに対しては貪欲であれとお思いでしょうね。・・・・でも、”神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された”とヨハネの福音書3章16節に書かれているから、”キリストにあるすべてのよいもの”というよりは、”キリストご自身”を与えて下さっているのですね。申命記には上記のようなことばがありますが、こう言い換えることができるのですね。

”本当に、キリストはあなたの身近におられ、あなたはキリストのように考え、語り、行動することができる。”

なので、私の祈りはやっぱりこうです。『神様、イエスキリスト様ご自身を私にお与え下さり、キリストの霊が私に宿っていることを感謝します。私があなたに与えられたものを、本当の意味で自分のものとすることができるように日々助けて下さい。アーメン。』

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2007年11月18日 (日)

日曜礼拝シリーズ:洞窟潜水する信仰

礼拝のメッセージは私の通っている教会のホームページから音声を聞くことができます。先週のメッセージはBecoming All thingsでしたが、今週の内容は一見反対とも思えるBecoming Nothingというタイトルでした。
聖書箇所
ピリピ人への手紙2章5~8節
”キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、実に十字架の死にまで従われました。(6〜8節)”
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Cave Diving(洞窟潜水)というものがあります。これは洞窟探検とスキューバダイビングという二つの危険なスポーツをあわせた高度に危険なスポーツです。これには、”ガイドライン”という命綱が必要です。先週私たちは、”すべての人のためにすべての人になる”ということを学びました。しかし、どこまで行くべきでしょうか? 麻薬販売人の人に近づくために私たちも麻薬を売るべきでしょうか?そんなことはありませんね。
How can I sacrifice myself without losing who I am?
(自分のアイデンティティを失うことなく、自分を他の人の為に捧げるとはどういうことでしょうか?注:音声メッセージではHow can I love others without sacrificing who I am?と言っていますが、私が出席したときはこのように言っていたと思います。)このこたえはイエスキリストの生涯から学び取ることができます。
今日私たちは、Anchoring(帰着点をもつこと)とExploring(探し求めること)の二つについて学びましょう。

Anchoring: アイデンティティをもつことで自由になれる
キリストは世に来られる前は、神に等しい栄光をお持ちになっていました。創造者としての神と同じように輝いていたのです。キリストは自分が何者であるのかを知っていて、それがキリストのanchorになっていたのです。
私たちは自分が何者なのか知っているでしょうか? キリストはご自分に自由をもたらすアイデンティティを持っており、それがAnchorになっていたのです。探し求める(Exploring)ためにはそのようなanchorが必要なのです。
私たちは自分自身とは別のものになるようにと教えられることがあります。私たちはしばしば本当の自分でないものになって、自分が誰かに好かれるために誰かを「愛して」いることがあります。それは偽善です。チェスが好きな人を愛するためにチェスが好きなフリをするのでなく、チェスが好きな人のことに興味を持つからチェスに興味を持つようになるのです。一方で、自分のアイデンティティに注目しすぎるとexploreすることを忘れるかもしれず、バランスが大切です。Anchorをしっかりしていれば、適度に長いガイドラインをもってexploreできるでしょう。イエスキリストにはしっかりしたanchorがあったので、ご自分を無にすることができたのです。

Exploring:自分を見失わずに自分を無にする
How can we become nothing without becoming nobody?
”理解出来ない!”と言って誰かのことを突き放したり、あきらめたりしていませんでしょうか?
親や兄弟など自分に親しい人にさえ、そのような態度をとったりしていないでしょうか?自分の主張を抑えて、「理解できない」と思える人にじっくり耳を傾けることで、もしかしたら、自分自身のことが理解できるかもしれないです。「私は薬物に依存していないから、薬物依存の人の苦しみはわからない」と言いますか?私もこの人と変わらない、私も悪いとわかっているとわかっていながらも依存し続けている習慣や考えがあるのではないだろうか・・・と考えることができるのではないでしょうか?
私たちはある特定の人を特別に愛するために地域に遣わされるのです。それは、イエスキリストがされたことです。キリストはあなたを愛するために王の王なる地位から私たちの奴隷のようになり、最後にはもっとも惨い刑である十字架の死にまで従われたのです。”どこまで行くべきか?”という答えに対して、キリストの生涯から学ぶのであれば、”最後の最後まで”と言わざるを言えません。
キリストはすべてを失い、実に、命を失うまでに私たちを愛しましたが、ご自分のアイデンティティを最後まで失うことはありませんでした。
確かに、ある人々との間には立場のギャップや違いはあるでしょう。それでも私たちは探し求める(Exploring)ことはできます。そして、私たちは愛すべき人を見いだすために探し求めるのです。(Exploring for discovery)
黙想:
1:神がどのように自分を作り、どのように救い出して下さったのかを知り、自分が何者であるのかを神の視点から考えましょう。そして、自分のanchorをしっかり持ちましょう。
2:自分を誰のために、どのように注ぐべきなのかを神に尋ね求めましょう。

hide-tanから:
自分がキリストに出会ったときは、まさに暗闇で誰にも知られたくないような精神状態であったときでした。当時、私はある友人を心底憎み、本当にどのような方法で消し去ろうかと思案していたのです。そんなときにひょんなことから教会主催の泊まりがけの高校生のキャンプに誘われ、気晴らしに女の子と友達になろうと思いで参加したのでした。そのときにはじめの集会で牧師が壇上から言った言葉が、「あなたをここに連れてきたのは天地を創られた神です。あなたは今、最も憎いと思っている人のことを赦し、その人のために祈りなさい。」というものでした。私は誰にも知られていない自分の奥深い部分まで見通している神の存在を確信し、信じたのでした。
キャンプから帰って、翌日の新聞を拡げてみるとある高校卒業生が私が考えていたのとまったく同じ方法で親友を殺害して逮捕されたという記事を目にしました。「これは私だったのかもしれない」と思いながら聖書を読み始めたのを思い出します。
キリストはこのように私と出会うために神である栄光を捨てて、このような暗闇を歩む私のところに来てくれたのでした。それならば、私はどのように歩むべきなのか・・・。そのようなメッセージをいただいた礼拝でした。

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2007年11月11日 (日)

日曜礼拝シリーズ:Love Comes First.

今日の聖書箇所:コリント人への手紙第一 9章19〜23節

”私は対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にいる人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
律法を持たない人々に対しては、ー私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守るものですがー律法を持たない者のようになりました。それは律法をもたない人々を獲得するためです。
弱い人々には、弱い人々のようになりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
私はすべてのことを福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです”

子ども達の好きな物語の中に、人魚姫があります。これは、人と人魚との違いを乗り越えて愛を貫こうとする美しい物語です。人魚姫はなんとか人間と同じ姿になって愛する人を得ようとするのです。私たちも、結婚するまでは、いかに自分が相手と共通点が多いかということをアピールしますが、ひとたび結婚すると、あまりにも違いすぎることに驚きます。自分と違う人を愛するとはなんと難しいことでしょう!しかし、キリストにあって私たちはそのギャップを埋めることができるのです。

パウロがこの箇所で述べているように「すべての人に、すべてのものとなる」とはどういうことでしょう?
そのために自分がもっているものであきらめないといけないものとは何でしょう?パウロは「私は対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」と言っています。私には自由に生きる権利がある。しかし、愛する人々のためにそれをあきらめます!と宣言したのです。
そして、「人々を得る」とはどういうことでしょう?それは、その人との関係を築き、悔い改めに導くこと、つまり、キリストとの関係に導くことです。ここで、パウロは自分が本来そうではない姿を演じているような言い方をしています。なぜ、わざわざそのようなことをしたのでしょう?なぜ、そのように誤解をうけるような、混乱を招くような真似をしたのでしょう?なぜ、そんなリスクを背負うのでしょうか?

それは、理想とする信仰理念(=Idea)よりも人々の方が大切だからです。
People are more important than ideas!
私たちは実にideaが好きで、それを語り合います。確かに重要なことですが、それが時には人を傷つけることになっていないでしょうか?パウロは自分のideaに即しない行動をとるというリスクを背負いながらも、人々と関係を築こうとしました。もしかしたら、誤解を招くかもしれない。もしかしたら、違法ドラッグや同性愛、妊娠中絶などを肯定しているように自分のことを誤解されるかもしれない。しかし、人々にとって大切なことは「自分も愛されているんだ」と感じることであって、あなたの理念(Idea)が誤解されても、あなたの愛が誤解されない方が大切ではないでしょうか?
それでは、「どんなことをしても神はゆるしてくださるのだ!」という歪んだ考えを植え付けてしまわないか?と危惧する必要はありません。なぜなら、神の愛を知ることなしに、神に立ち返ることはできないからです。Love Comes First!なのです。

最後に、「福音の恵みをともに受ける者となる」とはどういうことでしょう?福音の核は「愛」です。私たちクリスチャンは人々を愛することで、もっと神の愛がわかるようになります。福音を伝えれば伝えるほど、それが自分のものとなっていくのです。
あなたにとって、「すべての人に、すべてのものとなる」とはどういうことでしょう?

黙想:
1:神はあなたをどのような人々のところへ遣わそうとしておられますか?
2:どのようにすれば、その人々と同じようになれるでしょうか?
3:彼らを愛するために背負うべきリスクとはなんでしょうか?

hide-tanより:
イエスキリストも、罪人や取税人のところに行き、一部の宗教家から彼らの仲間だ!と批判を受けたりしました。
そこでイエスが言われたことばは次のことばです。
「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。
わたしは正しい人々を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」(ルカの福音書5章31、32節

この御言葉を開くときに、私はたいてい次のうちのどちらかの反応を示します。
1:自分は神を頼らずとも”自分の正しさ”で生きていけると考えていることを気付かせられ、偽善者ぶりを反省する。
2:こんな罪深い私でも招いてくださるのだと神の愛に安心し、悔い改める。
上記のいずれも間違った反応ではなく、必要なことですが、できれば、私もキリストを真似てこう言いたいものです。
『私は、自分と同じように”自分もまあまあ善人なんじゃないの?神様の基準もクリアーしてるでしょ。”と思う人たちや、自分と同じように表面上は善人だけど、内面はドロドロしたものが渦巻いている人、または自分と同じように悪い習慣から抜け出せずにいる人たちに対して、”私はあなたを裁かないし、キリストもあなたを裁きはしない。あなたの正しさは雪のように白い、と言って愛してくださる神がこんな私も、そのようなあなたも同じように受け入れて下さっている。”ということを伝えるために今ここに生かされているのです。』

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2007年10月28日 (日)

日曜礼拝シリーズ:それがイエスキリストである理由

”こういうわけで、このように多くの証人が、雲のように取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分のまえに置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、このような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。それはあなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。”

(ヘブル人への手紙12章1〜3節)

Hebrews 12:1-3 (New American Standard Bible)
Therefore, since we have so great a cloud of witnesses surrounding us, let us also lay aside every encumbrance and the sin which so easily entangles us, and let us run with endurance the race that is set before us,
fixing our eyes on Jesus, the author and perfecter of faith, who for the joy set before Him endured the cross, despising the shame, and has sat down at the right hand of the throne of God.
For consider Him who has endured such hostility by sinners against Himself, so that you will not grow weary and lose heart.

上は今日の日曜礼拝のメッセージ箇所です。
この聖書箇所の筆者は、信仰のレースのコーチとして、以下の3点をアドバイスしています。
① 重荷を捨てること
-1.自分に対する非現実的な期待を背負ってしまうことを避ける。
-2.過去の苦い経験:もはや直すことはできない過去の失敗からは学ぶ事はあっても支配されてはいけない。
-3.他者に対する不必要なまでの責任感をもつことから解放される。
② 罪を捨てること
 自分の罪を自分で捨てることはできない。イエスキリストの十字架にゆだねよう。
③忍耐をもって走り続けること
この道(信仰をもって歩む人生)は主イエスが耐え忍ばれた道。なので、イエス様は私たちを励ますことができる。
”信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。”
これは今日のメッセージの主題ですが、どのようにすればよいのでしょうか?
①人として歩まれたイエスの生涯から学ぶこと
②イエスは私たちの信仰を完成された方である
③聖餐式を通して、イエスが十字架で割かれた肉体と流された血潮を自分の力とする

hide-tanから:
それでは、なぜ私たちが目を向けないといけないのが、他の歴史上の偉人ではなく、イエスキリストなのでしょう? 別にダライラマに傾倒しても、マリアテレサの生涯を人生のすべてとしても良いのではないのでしょうか?
もし、キリストが新しい宗教を始めた偉人であると考えるならば、
「お釈迦さまから目をそらさないでいなさい」でも、
「ムハメッドから目をそらさないでいなさい」でも、
誰に目をとめてもいいのだと思います。

それなのに、なぜキリストでなければいけないか? 
これを読んでくださっているあなたがキリストに目をむける必要があると私が考えている理由は以下の3点です。

①イエスキリストは人としての人生を歩まれた神であるということ。
②イエスキリストはあなたが罪の無いものと認められて永遠に神の国に住むことができるようにしてくださったお方であること。イエスキリストは、あなたのために罪のない人生、孤独な人生を歩まれ、虐げられ、残酷な十字架刑にあい、葬られ、死を滅ぼしてよみがえられたからです。
③神の右に座したもうイエスキリストは今も生きておられ、いつもあなたとともにおられ、実際に生きてあなたを助けることができるお方なのです。

キリストは、人としての人生を歩まれた神であり、あなたのことを命を投げ出すまでに愛してくださるお方であり、そして、今もあなたの側で共に歩んで下さっているのです。

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2007年10月21日 (日)

日曜礼拝シリーズ:今の世の中を生きる特権

今日の日曜礼拝メッセージ
聖書箇所

(ヘブル人への手紙11章39~40節)
この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。

Hebrews 11:39-40 (New International Version)
These were all commended for their faith, yet none of them received what had been promised. God had planned something better for us so that only together with us would they be made perfect.

hide-tan注:
この日本語の聖書箇所は私が読んでも???だったので、英語のいろいろなバージョンと聖書の文脈から、以下のように説明したいと思います。

『聖書にはその信仰によって「よし」とされた人たちが多く登場します。この人たちは苦しみを受けたことはあっても、神からの栄誉を受けて、神の国で完全な姿となって安らかに生きるという望みは叶えられませんでした。
それは、神は今を生きる私たちがこれら信仰に生きた先人達とともにこのような栄誉にあずかることをあらかじめ考えておられたので、そういったすばらしい栄誉をとっておかれたのです。
なので、キリストを信じる私たちはみな、来る日に先人たちとともに約束のものを受け取ることができるのです。』

牧師のメッセージ:
1. 世は彼らが受けるに価するものではなかった。”The world was not worthy of them."
普通、私たちは、頑張って世間に認められることを良しとします。なので、これはまったく逆の考えです。確かに人のために努力すればこの世にあって栄誉を受けることができますが、神からの栄誉をうける人々にはこの世での栄誉というようなものを与えられません。(hide-tan注:キリストも人のまえで善を行う人は、その時点でまわりから賞賛されるという報酬を受けとってしまうので、神からの栄誉は受けられない。隠れたところで見ておられる神からの報酬をいただくために隠れて善を行いなさいと言われています。)世は神に従う人々と敵対しあいますし、キリストも「二人の主人に仕えることはできない」と言われました。私達が世にあって、神に対して忠実であることはしばしば困難を伴いますが、その先にある神からの栄誉に目を向ける必要があります。
彼ら信仰の先人たちは決して完全とはいえるような人たちではありませんでした。私達が彼らから見習うべき所は、その人格や、能力や業績にあるのではなく、彼らがもっていた信仰なのです。
2. 彼らは私達とは別に完全にされることはなかった。"Apart from us, they will not be made perfect."
3. 神はさらに良いものを用意しておられた。"God had provided something better."
歴史の中で、全てを変えたできごとは神が人となって世に来られたということです。キリストが世に来られた当時の人々は、預言者を通してのみ神のことばを聞いていた時代で、神がそんなことを計画されておられたなど知る由もありませんでした。しかし、今の世の中を生きる私達はすべてのストーリーをしっています。私達はキリストに目を向けて、この時代に生きる特権にあずかろうではありませんか。

hide-tanから:
クリスチャンになりたての頃、私はしきりに「あ〜イエス様が生きていた時代に生まれ変わりたい。イエス様のお姿を見て、その声を聞いた人々はなんて幸せなんだろう!そんなことがあればきっと自分は使徒たちのように偉大な信仰を持っていたに違いない。」と思っていました。しかし、今となっては、聖書と聖霊が与えられている現代こそが恵まれた時代であると思います。聖書には、すべて神がなされたこと、その意味と救いに至る方法、そしてこれから何が起こるのかということまでがはっきり書かれています。また聖書を読むときや祈るときはもちろん、聖霊なる神が常に私の内に住んで下さっていて助けてくれます。私は、絶対にこの時代に生きたいと思います。

クリスチャンとは、聖書に書いてある福音を信じて神の霊を内に宿す人です。


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2007年10月14日 (日)

日曜礼拝シリーズ:あなたのための「不条理な正義」

聖書箇所 ヘブル人への手紙 11:35〜38

メッセージ概要:
幼い子どもが、まわりのことを理解するようになってよく使うことばに
「そんなん、フェアじゃない!」("That"s not fair!")というものがあります。
この言葉は正当性を求めるということとともに、自分にとって不都合が生じたときに使われることがあります。
この言葉は成長とともに親から社会へ、そして時には神へと向けられる言葉となり、一生使い続けるのだと思います。しかし、そうした人間世界における不条理な(unfairな)ことは世の終わりとともに終わり、最後には神の正義がなされるのです。そして、神は正当に私たちを義なるものとさせるために、もっとも不条理な(unfairな)方法を用いたのです。神はご自分のひとり子イエスを責められるべき点がないにも関わらず、私たちの身代わりとして十字架につけたです。

この聖書箇所には信者が迫害を受け、時には命を落としたということ記されています。
現代を生きる私たちクリスチャン受ける苦しみには神のご計画があり、それを通して自分のない点が補われたり、訓練させられたりすることがあります、なので、そのような苦しみは時には必要なこともあります。
しかし、神であられるキリストにはそのような苦しみは必要ではありませんでした。しかし、キリストも荒野で苦しみを受け、愛する弟子たちに裏切られ、罵倒を受け、当時最も残酷であった十字架の刑に処せられました。肉体的にも、精神的にも極限の苦しみを受けられたのです。しかも、その苦しみは強いられたわけではなく、十字架に至るまでに何度もそこから逃れるチャンスがあったにも関わらず、あえて十字架を選ばれたのでした。

キリストが本来受ける必要のない苦しみを受けられたのはなぜでしょうか?

それはキリストが、あなたの命を救うことが、ご自分が神の子であるという栄光を捨ててまで、残酷な十字架刑に処せられるに値すると判断したからです。

hide-tanからの参考聖書箇所:
第1ペテロ2章22節〜25節
1 Peter 2:22-25 (New International Version)
"He committed no sin,
and no deceit was found in his mouth."[a] When they hurled their insults at him, he did not retaliate; when he suffered, he made no threats. Instead, he entrusted himself to him who judges justly. He himself bore our sins in his body on the tree, so that we might die to sins and live for righteousness; by his wounds you have been healed. For you were like sheep going astray, but now you have returned to the Shepherd and Overseer of your souls.


ピリピ人への手紙2章8〜11節
Philippians 2:5-11 (New International Version)
Your attitude should be the same as that of Christ Jesus:
Who, being in very nature[a] God,
did not consider equality with God something to be grasped,
but made himself nothing,
taking the very nature[b] of a servant,
being made in human likeness.
And being found in appearance as a man,
he humbled himself
and became obedient to death—
even death on a cross!
Therefore God exalted him to the highest place
and gave him the name that is above every name,
that at the name of Jesus every knee should bow,
in heaven and on earth and under the earth,
and every tongue confess that Jesus Christ is Lord,
to the glory of God the Father.

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2007年10月 6日 (土)

日曜礼拝シリーズ:永遠を決める決断

この日曜日も教会に行って来ました。メッセージはヘブル書11章30~35節から「遊女ラハブの信仰」についてでした。(写真:礼拝中のようす)

遊女ラハブについて:
モーセのリーダーシップと神の奇跡により、出エジプトを成し遂げたイスラエル民族ですが、その後は神の教えに逆い続け、約束の地であるカナンに入るのを恐れたために荒野で40年間彷徨う生活をしていました。
モーセが死んで、指導者がヨシュアに変わり、さあ、約束の地に入るぞ!という前に、イスラエル民族は城壁に囲まれた大きな街、ジェリコに2名のスパイを送り込みました。しかし、このスパイはすぐに街の住民に気付かれてしまい、追われてしまいます。そしてその二人を命をかけて守ったのが遊女ラハブでした。彼女は二人を匿い、逃がしましたが、そのときに二人にジェリコの住民がイスラエル民族とその神を恐れているという情報を流し、家族を助けるように求めたのでした。
(参照:ヨシュア記2章9~13節

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メッセージの概略:
出エジプトからすでに40年が経過していたのですが、ジェリコの人々はイスラエル民族の出エジプトの奇跡と、その後の民族の動きを知り、非常に恐れていました。しかし、その話を聞いてイスラエルの神の前にひれ伏すという正しい反応をしめしたのは遊女という職業で暮らしていたラハブだけでした。彼女は上記のような勇気ある行動を取り、家族の命を救うように求めました。そして彼女は命を救われただけではなく、後に彼女の子孫からダビデ王が起され、さらには、イエスキリストの系譜に連なるという大変な栄誉を得たのでした。
遊女ラハブから学ぶべき信仰の原則は以下の4つです。
1:ラハブは神についての真実を注意深く聞いていた。
出エジプトの出来事からは40年経過していたにも関わらず、また他の人々は同じことを聞いていたのに違った反応をしていたにも関わらず、彼女はどのように反応すべきかを自分で結論づけたのでした。
2:自分が家族から周りからどのように扱われていたかとか、自分の置かれた状況がどのようなものであるかということに自分自身を支配させなかった。
3:彼女は実際に行動を起こした。
4:家族の命を守るために懸命になった。

hide-tanからのメッセージ:
遊女ラハブについて、彼女が神についての情報にどのように反応したかということと同じくらい大切なことは、彼女が神に対してアンテナを張っていたということではないかと思います。彼女はイスラエルのことに対して、注意をしていたために彼女はスパイを家に泊めることになったのかもしれないし、アンテナを張っていたからこそ、神は彼女の信仰を見て、そこにスパイを送り込ませたのかもしれません。または、彼女が遊女だったからこそ、スパイはその身を隠す為にラハブの場所を選んだのかもしれません。つまり、彼女の信仰と置かれていた境遇に神の計画が完全に一致したのです。彼女が神の計画にとって大切な存在であったことは、その子孫からキリストが生まれたということからも明らかです。私は(退屈な!)マタイの1章を読んで、はじめてそのことを知ったときに遊女の信仰が全人類に対する、私に対する神の救いのために必要であったことに感動しました。
今の世界(特に日本)も、ジェリコに似ていると思います。人々はイエスキリストが私たちの罪のために十字架において死に渡され、死を克服してよみがえったこと、そしてそれを信じるひとは永遠の命を与えられていることを知っています。ですが、そのような神の大きな愛を聞いても、それに反応する人はほんの少数なのです。遊女ラハブは非常に注意をしていたからスパイに出会えたのかもしれないのですが、今の世の中には、聖書もありますし、キリストによる救いに関する情報はあふれかえっていますので、私のようなクリスチャンを含めた「スパイ」に会える確率はふんだんにあります。とくに情報社会&契約社会であるアメリカでは、条文の隅っこに書かれているような契約の決まりも「知らなかった」では済まされないように、神に関する情報も知らなかったではすまされないような世の中になっていると言えます。(ローマ人への手紙1章19~21節には神によって創られたものを見れば神の存在は明らかであり、私たちに弁解の余地はないと述べられています。)

遊女ラハブの決断と行動は人類の救いという神の計画に組み込まれました。
これを読んでるあなたの決断ーあなたの命を自分の命に代えてでも救いたいと思う神の愛に対する決断ーが同じようにあなたの人生と永遠に祝福をもたらすことを願っています。それは、必ずしも命がけの行動ではなく、ただ単に心の中で「神様。私はあなたに関して、聖書の中に書かれていること、私を愛し、私のためにキリストを通してくださった救いを信じ、感謝とともに受け入れます。」というだけです。


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2007年9月30日 (日)

日曜礼拝シリーズ:恐れることなく、神を畏れる

教会の礼拝に出席して来ました。今日は多くの人がChurch Retreatの方に出席していたためにいつもは2回に分ける礼拝が10時からの1回だけでした。そのためにカップルズセミナーもありませんでした。

今日の聖書箇所はヘブル書11章27~31節。タイトルは"Refucing to Act in Fear"。
教会の礼拝に出席して来ました。今日は多くの人がChurch Retreatの方に出席していたためにいつもは2回に分ける礼拝が10時からの1回だけでした。そのためにカップルズセミナーもありませんでした。

今日の聖書箇所はヘブル書11章27~31節。タイトルは"Refucing to Act in Fear"。

”信仰は望んでいる事がらを保証し、 目に見えないものを確信させるものです。( ヘブル11:1 )”

以下はメッセージの概要:

細菌感染症は目には見えないバクテリアを水で洗ったり、消毒したりすることでその脅威を取り除くことができます。バクテリアが見えないからと言って、その存在を無視していると、重大な結果を残す事はご存知ですね。
それならばなおのこと、目に見えないからという理由で、神の存在とその計画に目を無視してはいけないということがお分かりになると思います。

モーセは迫り来る脅迫の中で、神の言葉と計画に従わなければなりませんでした。

燃える柴の中に神と対面したときに彼は「自分とは何者なのか?」という疑問を抱きました。神に対する新しい見方が自分の内面を見る見方に影響を与えたのです。彼はかつては高慢でありましたが、神に出会ったときは命を狙われ、逃げ隠れしている身であり、打ちひしがれていました。そんな彼に神は壮大な神ご自身の計画を語ったのです。

今の世の中は、エジプトのように神が低く見られ、不道徳なことがらがはびこっています。
あなたにとっての”エジプト”からあなたが脱出して神の計画に従う事を決心してください。

このメッセージを聞いて思ったこと:
エジプトからの脱出の計画はすべてのユダヤ民族に与えられていたのは確かだけど、はたして本当にすべてのユダヤ人が救い出されたのでしょうか?おそらく過ぎ越しの夜に羊の血を門に塗らなかったものもいるだろし、エジプト脱出のときも、エジプトにある多くの富みの恩恵を受けていた一部の人は他のユダヤ人とは行動をともにせず、留まって、悲惨な結末に至った人たちもいたのではないでしょうか?
今日を生きる私たちにもキリストによる十字架上の救いはすべての人に与えられています。その救いを受け取るかどうか、永遠の滅びの道へと続く”ベルトコンベアー”からの脱出の道である十字架の道を選びとるチャンスを選んでいるかどうかが問われているのではないでしょうか? 私たちをキリストから引き離そうとしてしばっているものは、世の中のスタンダードから離れる恐れかもしれません(とくに多くの人が無宗教、仏教あるいは多神教の日本では。逆に、アメリカなどではそういった恐れから、心から信じていなくても「私はクリスチャン」といういわゆる"Church Goer"もいます)。自分の好きなことができなくなるのではないかという恐れかもしれません。

しかし、いろいろなホラー映画やバイオレンス映画なども最後は正義が勝つものがほとんどであるように、人々は最後の審判では悪魔が下され、神が勝利することを望んでいるにも関わらず、悪魔はこの世を上手くコントロールして、神から目をそらさせ、神ではなく個人の成功の中に救いがあるような錯覚を抱かせるようにしむけてきます。それで、神を信じるということを奇異なことのように感じさせるのです。

一方で、クリスチャンである私にとってのエジプトは”神の計画が自分の人生でなされることよりも、自分の自己実現に重きを置く”というだと思います。
自分がなりたい自分を追い求めることは良いことですが、それが私の人生の神になってしまってはいけないと思うのです。私が神にどのような目的で作られ、神は私を通して本当は何をなしたいと思っておられるのかということをいつも考えながら、そのために自分がなすべきことは何かを考えて歩んで行きたいと思います。
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(写真:Calfornia Ave.のファーマーズマーケット。ここはPalo Altoのそれと違い、食べ物の屋台が多くあって目移りしてしまいました。)

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2007年9月22日 (土)

日曜礼拝シリーズ:あなたがその男です!

日曜日の今日はいつもどおり、教会に行きました。礼拝メッセージ(第2サムエル11章1節〜12章15節)から。

【聖書の内容の概略】:イスラエルの王、ダビデは家来ウリヤの妻ベテ・シェバを寝取り、そのうえ、ウリヤを戦場で殺されるようにしむけた。神に遣わされた預言者ナタンは、ダビデ王に言った。「ある町に二人の男がいました。ひとりは金持ちで、一人は貧しい人でした。金持ちには多くの家畜がいましたが、貧しい人は羊1頭しかもっていませんでした。しかし、その貧しい人は、その1頭の羊を家族同様に大切にしていました。あるとき、金持ちの家にお客があったのですが、自分の家畜を殺してもてなすのが惜しく、その貧しい人から羊を取り上げ、調理しました。」それを聞いたダビデ王は怒り、「そんなことをする男は死刑だ!」と言った。それに対して、預言者ナタンは言った。「あなたがその男です!」

【メッセージの概要】:
自分の罪が分かりにくいこともあります。人は自分に責められるべき点があるときほど、他人を批難する傾向があります。しかし、他の人は問題ではないのです。問題はあなたです。神はあなたに対峙しておられるのです。
告白しない罪は神との関係の障害になります。「悔い改め」=罪の告白はそのような状態から人を神との親しい関係に復帰させることができるプロセスです。人が罪を犯すと、神様は残念に思っているけれども、悔い改めをする人に対して決して責めるようなことはしません。

”天が地上はるかに高いように、
 御恵みは主を恐れる者の上に大きい。
 東が西から遠く離れているように、
 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。”(詩篇103:11~12)

神の愛は、私たちのどんな罪よりも大きいのです。
民は罪を犯し続けましたが、神はそれに対する最後のメッセージとしてキリストを下されたのです。

"神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネ3:16)

ですから、ダビデがしたようにこのように祈りましょう。

”神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。”(詩篇51:10)

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2007年9月15日 (土)

日曜礼拝シリーズ:Jesus, all you need.

今日の礼拝メッセージも、ダビデの生涯からでした。
ゴリアテを倒した後、数々の戦いを勝ち抜き、民衆の支持を得たことで、逆にイスラエルの王サウルの嫉妬を買い、命からがら荒野に逃げるダビデ。
神は人生の荒野をご自身と私たちのより深い関係を築くために用いることがあるということが主題のメッセージでした。最後に牧師が以下のように締めくくりました。
"You'll never know that all you need is Jesus until when all you have is Him."
(イエスキリスト以外に頼るものが無くなったときにはじめて、はじめてイエスさえともにいてくれればよいのだということを悟るようになる)
"You'll never know how much you miss somebody (something) until you lose him/her(it)."
(いなくなったときになってはじめてその人の大切さが分かる)という言葉をテレビで聞きましたが、これとはまったく逆なのだと思いました。

世界が滅びるようなことがあったとしても、神様は決して私を離れることがないのだということを確認しました。
もちろん、今、キリストを信じていない人にも、神様はともにいて下さっています。しかし、それは人生の終わりまでの話です。人々が人生の荒野のただ中にあっても、人生を終えたあとも神がともにいて下さる安心を得る事ができるように、出会えるあいだに出会うべき方に出会えるように、私が何かのお手伝いができればと願っています。
 (写真:夜の隣の研究棟。近代的なビルディングとの古風な建物との混在もおもしろいところです。)
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2007年9月 8日 (土)

日曜礼拝シリーズ:A Man after God's own heart

今日ははじめて教会で礼拝前のフェローシップに出席しました。夫婦で出席する聖書クラスでした。はじめに担当の夫婦が今日のトピックスである「断食祈祷について」の説明をしたあとで、自分の経験や考えをテーブルごとでディスカッションしました。私達のテーブルでは断食の経験者はいなかったのですが、断食をすることで食事のことにとらわれず、聖書の言葉と祈りに専念できるのでは?というディスカッションをしていました。一方で、お腹がすくと食べ物のことばかり考えちゃうよね〜。だから何の為に断食祈祷しているかをしっかりさせておく必要があるよね〜。などとも話し合いました。このフェローシップのあとで、中国系のスタンフォードの教授夫婦がいろいろ話して下さり、学校のこと、かかりつけの小児科医のこと、スタンフォード大学にいる小児科医の知り合いの事などいろいろ教えてくれました。

礼拝は今日も素晴らしいワーシップリードと素晴らしいメッセージでした。今日はダビデとゴリアテの話でしたⅠ Samuel 17(←クリックすると英語の聖書箇所が現れます)からの話でしたが、
後にイスラエルの王となった羊飼いダビデから学ぶ、神のみこころに適う人(A Man after His own heart)は、
1:天国に将来の望みをおき、
2:過去に神様が自分にしてくださったことから学び、
3:今この瞬間、神に信頼をおく
人であるという内容でした。2の内容の時に、数人の礼拝出席者から自分の体験を分かち合ってくださり、アルコールやドラッグから数年前に立ち直らせてくれたこと、そのような経験があったから、同じ問題で苦しんでいる人たちのニーズに応えられるのだということを話される方がいました。「そして、先週、そのような人たちのための集会で15人の人たちがキリストを信じ、変えられたのです!神様はこの教会で素晴らしい働きをしてくださっています!」と証をしておられました。ハレルヤ!

この教会は厳格な教会員制度などなく、”毎週来るつもりならそれで会員”らしいです。なので、今年の教会報にも写真付きで載せてもらえることになりました。今週の金曜日の夕方に教会に行ってきれいな写真を撮ってもらいます。写真を撮ったら、無料でその写真をもらえるらしく、太っ腹な教会に感謝するとともに、今年の家族写真に加えたいのでちょっとこましな格好でいこうと思います。ラッキー!
(写真はスタンフォードショッピングセンター内の”ガラスのパンプキン”ディスプレイ)

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