日曜礼拝シリーズ

2010年4月 5日 (月)

私はキリストを知りたいのです(イースター礼拝説教)

イースターおめでとうございます。He is risen! 主はよみがえられました!

今年もイースター礼拝は、わたしはクワイアー(聖歌隊)の奉仕でした。チルドレンパスターと子どもたちが読み上げるキリスト復活の記事のあとにこの曲で神様を賛美しました。

以下は今朝の礼拝説教要旨です。

説教題「私はキリストを知りたいのです」

復活の主が最初に口にした言葉は、私は復活した!という宣言ではなく、イエスを探し求めて泣いていたマリアに対する「マリア。」という名前を呼んだ言葉でした。キリストは天に挙げられた後にも、キリスト教徒を迫害していたサウロ(のちの使徒パウロ)に現れて「サウロ。サウロ。」と呼びかけられました。復活の主イエスが最初に口にする言葉はいつも愛するものの名前なのです。彼がその人たちのために十字架についた、その人たちの名前なのです。

イエスは私たちを愛しておられ、私たちの名前を今も呼び続けておられるのです。
わたしたちは自分たちの名前をよばれたのを聞いたものたちなのです。そして、名前を聞いた時に、それだけでは満足しないのです。

聖書箇所:ピリピ人への手紙3章10-11節 私はキリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

私たちは、私たちの名を呼んで下さる主を知りたいと思うはずです。キリストを知りたい。その復活の力を知りたい。弱いところに力を、困惑に平安を与える力。しかし、復活の力はそれ以上のものです。アダムの時代から人々を支配していた死そのものが滅ぼされたのです。死は滅び、生が与えられました。復活の力を知っていれば恐れるものは何もないのです。

そして、復活の力を知っていれば、主イエスがともにいて下さることも実感するでしょう。復活の主を知っていると、暗闇の中を生きることがなくなります。そこに死に対する勝利があり、それは何ものにも変え難いすばらしいものなのです。

私たちはこの復活の主が再びやって来られるのを待ち望む民なのです。私たちの喜びは、条件付きのものではなく、感情に左右されるものでもありません。一方で、私たちはキリストの苦しみを知ることによって喜びを知ることができるようになるのです。

キリストは苦しまれました。
悲しむ人たちのために。
虐げられている人たちのために。
そして、彼に逆らう人々のために。

彼は、苦しみの中にある人々、罪を冒して後悔している人々に愛を示し、ともに歩まれたのです。

私たちがもし、復活の主を知るならば、私たちは苦しんでいる人々のところに行って力になりたいと思うはずであり、キリストを罵る人のところに行って、キリストの愛と救いを伝えたいと思うようになることでしょう。苦しみ、傷む人々に情熱を抱き,逆らう人に愛を示したくなるはずでしょう。左右路はかつてキリストを迫害する者でありましたが、そのような復活の主と出会って、「キリストを知りたいのです」と告白するようになったのです。そして「復活を得たい」と思うようになったのです。

復活を得るということについて、C.S.ルイスはその著書「ナルニア国ものがたり(第5巻)最後の戦い」の最後のページにこう記しています。

このあとに起きた出来事については、もはや美しすぎて書き記すことができません。私たちにとっては、これが物語の最後になります。彼らは永遠に幸せに生きましたと締めくくってもよいでしょう。しかし、彼らにとっては、これらは本当の物語のほんのはじまりにしか過ぎないのです。この世界で起きたこと、ナルニア国でおきたことは、物語の表紙であり、タイトルページ過ぎないのです。そして今、ついにこれまで地上の誰も読んだことが無いような偉大な物語の第1章をはじめようとしています。そしてその物語は永遠に続くものであり、その1章1章がこれまでの章よりも素晴らしいものとなるのです。(The chronicles of Narnia--The Last Battle-- by C.S. Lewis, hide-tan訳)

キリストを知ることは、キリストが気にかけておられる人々に気をかけること、そのようにして永遠のはじまりを期待して待つということにつながるのです。

(礼拝説教 Peninsula Bible Church 4月4日 イースター礼拝 by スティーブ牧師 要約 by hide-tan)

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2009年10月12日 (月)

日曜礼拝シリーズ:選ばれた者として

聖書箇所:ペテロの手紙第一 1章1〜5節

”イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
父なる神の予知に従い、御霊のきよめによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。
どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにされました。
また朽ちることも、消えて行くことのない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
あなたがたも信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。”

<礼拝説教要旨>

ペテロは、イエスにもっとも近かった弟子として、初期のキリスト教会でもっとも影響力のある人物でした。

使徒たちによる多くの書簡は、教会内での諸問題(教義的な不一致や、争い、罪の問題など)を解決するために書かれていますが、この書簡(ペテロの手紙第一)は、混沌とする社会の中で、クリスチャンがどのように生きていくべきかということに焦点が置かれています。

手紙は送り主の名前と送り先の名前から始めるものです(注:アメリカの手紙ではそうです)。この手紙の序盤で、ペテロは自分自身をキリストの使徒であると紹介したうえで、送り先の人々がどのような人たちであるのかを述べています。

ペテロは送り先の人々のことを「選ばれた人々」と呼んでいます。
そうです。私たちは、多かれ少なかれ、選ばれることを求めて生きているのではないでしょうか?しかし、クリスチャンはすでに選ばれたもの、しかも神によって選ばれたものであるというのです。

神はご自身で何でもできるお方であり、ご自分の計画をすすめるために誰の助けも必要とされないのに私たちを選ばれたのです。私たちには一方的な恵みによって神に愛され、とても神に選ばれるようなものではないのに選ばれたのです。
私たちは、自分自身をそのような存在であると捉えるべきです。

私たちは神に選ばれた者として、キリストとともに人生をやり直すことができるのです。あなたは今は苦しみの中にいるのかもしれない。そのような事実がわかっていれば、その中でも喜ぶことができる、それがクリスチャンなのです。

ペテロは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ピテニヤとそれぞれの地名をあげて人々に呼びかけています。それは、選ばれたものたちが、その場所に置かれていることの大切さを重視しているからです。

私たちも、今、神によって置かれているその場所で、周りの人々に対して神の祝福の源となるべきです。私たちは自分の人生の目的を果たす為に、あちらへ、こちらへと場所を移っていきますが、ときには自分がここに置かれているのだと目を留めることも重要です。

だから私たちは、見返りを求めることなく、自分の置かれているその場所で、周りの人々に仕えましょう。そうすることで私たちは神の祝福となることができるのです。

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神様。あなたに選ばれたものとして、あなたに置いていただいた(導いていただいた)この場所で人々に仕え、あなたの祝福を伝えて行くものとさせてください。アーメン。
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2009年10月 5日 (月)

日曜礼拝シリーズ:苦しみの中で希望を与える神の約束

先週に引き続き、今週もバビロン捕囚のときの預言者エレミヤに与えられた神の御言葉から学びました。(メッセージ全体は 聞けます)

<日曜礼拝メッセージ要旨>

聖書箇所1:
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を生ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(エレミヤ28:4-7)

当時は、エルサレムがまだ残っている状態で、民は「もしかしたら、すぐにでもエルサレムに帰ることができるのではないか」という希望を抱いていました。私たちも、今ある苦しみからすぐにでも逃げ出せるのではないかという希望を抱きます。しかし、エレミヤ書のこの箇所からは、神はときに、苦しみの中で耐え忍ぶことを教えられるのです。

私たちも、この世にあっては捕囚の身なのです。
世界には悪の力がはびこり、私たちは神の国の民として、神の神殿を建て上げるような生活ができない、そのような不自由な状態に置かれています。

そして、聖書というのは、

神が住まい(エデンの園)を用意された → その住まいから民は連れ出された → その住まいに戻る約束を与えられた → いつの日にか住まいに戻して下さる

ということを記した書物です。とくに福音書(イエス・キリストの生涯が書かれた書物)には、その住まいを取り戻すために、私たちのために神が払われた犠牲が描かれ、あとに続く使徒たちの書簡には、どのように約束を待ち望むべきかが述べられ、新約聖書の最後尾の書、黙示録には、神の民が、神の住まいに戻される様子が書かれています。

そうです。私たちは今、捕囚の身なのです。

捕囚の中にあって、神の民らしく生きた人がいます。それは、預言者ダニエルです。
彼は異国の地で、囚われの身でありながら、神に従い続け、苦しみの中を通らされつつも最後まで神への従順を貫いた人です。私たちもこのダニエルのように生きるべきなのです。
私たちは、この捕囚から逃げ出すことをのぞみ続けるのではなく、耐え忍ぶために召されているのです。クリスチャンは、この世との関わりを絶って、クリスチャン同士の交わりのみに逃げ込むべきではない。クリスチャンの交わり(教会)に理想の都を求めすぎては失望するのみです。クリスチャンとて、この世に生きる罪のある人間なのですから。

そうです。私たちは捕囚の身を耐え忍ぶべきなのです。

神は、その捕囚の地で「家を建てて、畑を耕せ」と言われます。
どういうことでしょう?
私たちが、この世で神の民として増え続けるということは?

この本にすべてが書かれているとか、この説教を聞けばいいとかそんな簡単な方法はありません。
私たちは、生活の中で、日々、神の国でないこの世で生きることを忍びながら、毎日を神に信頼し、神を求めて過ごすことなのです。

『あなたの結婚生活の中で、ここさえ変われば幸せになるだろうと思うことは何ですか?』

こんなことを質問されたら、私たちは配偶者のここを直してほしいとか、あそこを直してほしいとか言うでしょう。しかし、このように私たちが捕囚の身であることを知っている結婚カウンセラーならこのように尋ねることでしょう。

『何も変えられないという状況で、私たちはどのようにして幸せな結婚生活を過ごせるでしょうか?』

私たちは、忍耐を選ぶ時に、痛みや苦しみから逃げることは不要となります。
その中から、生きる意味を、喜びを見いだすことができるようになります。

聖書箇所2: まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ー主の御告げーそれは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためにものだ。 あなたがたが、わたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。 わたしはあなたがたに見つけられる。ー主の御告げーわたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。ー主の御告げーわたしはああなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」(エレミヤ29:10-14)
私たちは、神の住まいをおおいに待ち望むべきです。

神は、民をその不従順のゆえに苦しみの中を通されますが、そこから救い出されるお方です。
神は民を住まいへと戻されるのです。いま、歴史はまさにそのような終わりにむかって進んでいます。

果たして,神は預言通りに民を七十年の捕囚ののちにエルサレムに帰されました。(ちなみに、それはエレミヤの死後です)しかし、彼らは本当の意味で捕囚から戻されたというわけではありませんでした。そして、今も私たちは捕囚の民として神の国へ帰る日を待ち望んでいるのです。私たちは、このような世界にあって、神の約束の中に生きているのです。『主の祈り』の中で、私たちは”御国を来らせたまえ”と祈ると同時に、”日々の糧を与えたまえ”と忍耐する力をも与えて下さるように祈ります。

このような神の約束をしっかり握りながら、忍耐と希望をもって祈るのです。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ー主の御告げーそれは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためにものだ。

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神様。どのような苦しみの中にあっても、あなたから力をいただいて忍耐をし、あなたの約束をもとに希望を持って生きていけますように。私たちに与えられた神の約束を成就してくださる御子キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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2009年9月28日 (月)

日曜礼拝シリーズ:信仰は何を変えるか?

私たちが通うPeninsula Bible Churchでは、日曜礼拝で旧約聖書のエレミヤ書というところをシリーズで学んでいます。

(予備知識)
エレミヤというのは、神の言葉を人々に伝える役目を果たす預言者の名前です。
彼が登場したのは、ユダヤ民族がバビロン捕囚に連れて行かれる少し前でした。
彼は、ユダヤ人が神への不従順によって、神が警告されていたようにバビロニア帝国によって国を滅ぼされ、捕囚とされるという預言をしなければならなかったのでした。

(日曜礼拝メッセージ要約)
”時代は変わっても、ちっとも変わらないのは人間だよ”
これは、ある映画のセリフですが、たしかに自分も、こうなりたいと思う自分になれないし、配偶者や自分の子どもたちも、いっこうに変わることがないと嘆いたりしたことはないでしょうか?

さて、今日は涙の預言者エレミヤの預言の中でも、比較的ポピュラーな記述があるところを読んでみたいと思います。

聖書箇所:エレミヤ書31章31-34節

見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ。―
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ。―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

この箇所の主題は、”新しい契約”です。
それでは旧い契約とは何でしょうか?それは、”彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約”とあるように、その契約の内容は申命記26章17-19節に書かれてある出エジプトを指揮したユダヤ人の指導者モーセを通じて与えられたことばです。

”きょう、あなたは、主(=ヤハウェ)があなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。 きょう、主(=ヤハウェ)は、こう明言された。あなたは主の宝の民であり、あなたが主の命令を守るなら、 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が作られた全ての国々の上に高くあげる。そして、約束の通り、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。”(申命記26章17-19節)

神は、ここで婚姻関係のように、”わたしはあなたの神であり、あなたは私の民である”といったユダヤの民との一対一の契約関係を結んでいます。しかし、民は神に対して、不従順になることで、この契約を破り続けたのです。800年前にすでに、この契約を破ったらどうなるかは預言されていました。
その預言が現実になったのがバビロン捕囚だったのです。

しかし、あわれみ深い神は、「契約をやぶった。すべてが終わりだ。」とは言わず、
「あなたがたは契約を破った。だから私との関係を取り入戻すための新しい契約を与えよう」とセカンドチャンスをお与え下さったのです。

神は、何度も裏切り続ける妻を忍耐を持って待つ夫のように、なんども契約を与えるようなお方なのです。

旧い契約では、神は石板に律法を書き記しました。しかし、民の心が石のように固くなり、神に逆らい続けたのです。ここでは、それを心の板に書き記すとあります。あなたの心から罪の心を取り除き、そこに律法を書き記してくださると神は言われるのです。

”肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ8:3)”

”肉にある者は、神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストの者ではありません。(ローマ8:8-9)”

私たちは、子ども達に「ありがとう」を言わせることはできても、感謝に満ちた心を育ませるのは難しいものです。しかし、私たちの親である神は、私たちの心を変えることがお出来になるのです。

さて、当時のイスラエルは、北のユダ王国と南のイスラエル王国に分断されていました。
南北で敵対し合っていたのです。とくに南は、北が先に滅ぼされたことで、自分たちこそ神に選ばれた国だと言う優越感に浸っていたのです。しかし、神は、この南にも裁きをくだされ、そして、この破られた旧い契約のあとに、新しい契約をユダ王国にも、イスラエル王国にも新しい契約を用意され、彼らをひとつにしたのです。私たちには、和解が必要なのです。

歴史を見ても、人々が集まるところには分断が生じるには明らかです。
この世界は、分裂と敵対だらけです。しかし、神がおこされる人々は、ゆるしを土台として結びつき合うのです。ゆるしあうことは難しいのです。しかし、私たちにはゆるしが必要です。

『わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる。』

これが、神があなたに与えられる新しい契約です。
あなたは神を信じていますか?その神はあなたによくしてくださるお方ですか?
私たち人間というものは、神のことを喜んで話題にするのですが、神ご自身に対面し、話かけることを恐れ、避けいているものです。しかし、イエス・キリストは、私たちのために新しい契約を成就して下さったのです。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられ・・・(黙示録21:3)」

私たちは、神と個人的な関係を持つことによって、この契約を生きたものとできます。
信仰は私たちを変え、私たちはひとつとされ、そして、神は私たちの神に、わたしたちは神の民へと変えられるのです。Img_0463
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このメッセージの全体の内容は から聞けます。

聖書のことや、この記事の内容について、個人的にご意見やご質問がありましたらこちらまで

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2008年12月 1日 (月)

日曜礼拝シリーズ:目が開かれて、心燃やされて

今日は、ディズニーランドの帰り道にあるGrace Community Churchで礼拝に出席しました。ここはJohn MacArtherという有名な牧師によって牧会されているメンバーが8千人という大きな教会です。
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<聖書箇所>

24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカの福音書24章13-32節)

(説教要旨)
キリストの復活は、歴史上最大の出来事である。それによってキリストを信じる者に対する救いが実証されたからである。キリスト復活の記事は他にも記されているが、この福音書の記者であるルカは、ふたりの無名の弟子達に焦点を当てた。
この記事の主題は、二つ。
①キリストは生きておられる。
②神のことばは生きている。

24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

聖書がわからないのは、聖書が悪いのではない。
聖書を理解することは私達に課せられた責任である。この弟子達は旧約聖書を読んではいたが、自分達の出来る範囲まで、理解を制限し、満足していたのである。
部分的な聖書理解をし、そこに留まると簡単にカルト宗教へと陥ってしまう。この時代の彼らはキリストが軍隊を率いてイスラエルという国をローマの支配から救い出すと、救いを理解し満足していたのである。
キリストの最も親しい弟子であったペテロたちでさえもそうであった。彼らは、キリストとともに支配することを望んではいたが、キリストと苦しみをともにすることは求めていなかったのである。なので、国のリーダー達が自分達を苦しめているローマ軍を用いてキリストを殺したことで非常に当惑したのである。

そのような弟子達にキリストは、「あなたは知らないのですか?」と尋ねることで、聖書を理解しておく必要を示された。彼らはキリストの遺体が消えていることと弟子達が復活を信じられない状態に困惑していたということを明らかにされたのである。また、彼らがメシアに対して限られた理解しかしていなかったことを示されたのであった。

”(キリストは)苦しめられ、そのあと栄光の座につく”ということが何度も旧約聖書に述べられているのに、彼らははじめの”苦しめられている”という記述に目を閉ざし、耳を塞いでいたのである。
イエスはそのような彼らに「愚か者」と仰せられたのである。彼らはイスラエル王国の栄光にばかり目を奪われ、旧約聖書の「苦しみ」の記述に目を閉ざし、心を閉ざしていたのである。
キリストは、そのような彼らに旧約聖書にキリストご自身が彼らの為の最終的な罪の身代わりにならねばならなかったことを理解させるために旧約聖書の記事を丁寧にご説明されたのである。

そして、彼らがいよいよ目が開かれてイエスがその場から立ち去ったが、彼らが互いに言ったことは、
「心が燃えていたではないか」ということであった。彼らは復活のイエスを見たことに興奮したのではなく、聖書の記述が真実であった、神のことばは生きていて力があるということに心を燃やされたのである。

それは今日を生きるクリスチャンである私達も互いに言い合うことのできる台詞ではないだろうか?
ミニストリーとは。聖書を分かち合い、キリストが生きており、みことばが生きていることを知り、喜びの炎で心が満たされるものである。そして、その炎は私達自身の中に止めておくことはできないはずなのである。
さあ、私達も、みことばの真実を、心の炎を伝えていこうではないか。

(hide-tanの感想)
John MacArthur師のメッセージは力強く、教会の賛美もすばらしく感動でした。80名のクワイアーが14名のブラスバンドとともに神への賛美を捧げるようすから、本当に神は賛美を受けるにふさわしいお方であること、牧師のメッセージからは聖書の言葉の真実性をを教えられました。

ところで、John MacArthur師のコメントつきの聖書を2種類、自分用のお土産として買って帰りました。(ちょうどセール中で、半額以下の20ドルでした。)アメリカで最も出回っている聖書はNIVですが、格調高いKJVを読みやすくしたのが、NKJV、これは訳に定評があるNASB(New American Standard BIble)です。
私が、いつもよくPodcastを聞いているAlbert Mohler氏も”非常に役に立つMacArthurのStudy Bibleだが、嬉しいことにNASBバージョンが出てくれた!”と絶賛しています。
英語のStudy Bibleをお探しの方にはおすすめです。

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2008年9月 8日 (月)

日曜礼拝シリーズ:価値あるあなたの幸いな生き方

聖書箇所:ガラテヤ書 1: 1-10

”私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、他の福音に移って行くのに驚いています。(ガラテヤ書 1: 6)”

説教要旨(hide-tanによる補足説明を含む)
ガラテヤ書はキリストの十字架による救いを受け入れたガラテヤ人たちが、一部の惑わす人たちの言いなりになり、割礼というユダヤ教のしきたりをそれが救いに必須であるように思うようになりました。
福音を受け入れて、ユダヤ民族を通して示された神を礼拝したときに、彼らはおそらくユダヤ人の仲間になりたい(なるべき)と思ったようです。ユダヤ人もまた、キリストによる救いでは不十分で自分たちと同じ神を拝むのであれば、自分たちと同じようにしなさい(でないと救いはない)と薦めたのです。自分たちは律法によって救われたわけではないのに、ユダヤ人が律法に従っていることを良しとしているという理由で、それを守ることで救いを達成しようとするようになったのです。
私たちクリスチャンも、同じように思っていないでしょうか?教会の中で、ユダヤ人のように”クリスチャンたるものこうであらねばならない”と声だかに主張したり、また逆に、”自分は信仰も弱いし、聖書にも通じていないし、奉仕もしていないし、それほど献金もしていない”ということで、仲間に入れてもらっていない気がしていたり、教会に属したいという一心で、クリスチャンとしての自分を磨かねばならないと思い、それに押しつぶされそうになっていないでしょうか?

"Are you My Mother?"という本があります。赤ちゃんの小鳥が生まれたときにお母さんがおらず、自分のお母さんを探して、鶏や子猫や、牛や犬に聞いて回ります。あきらめて、巣にもどってきたときにお母さんがもどってきて、やっと自分の居場所がわかり、自分が何者かということがわかる本です。

私たちも自分の本来いる場所ではないところに行き、他の何者になろうとしたりせずに、私たちをつくり、愛し、キリストの十字架によって救いをなして下さった父なる神のもとに立ち返りましょう。
"Are you my father?"というあなたの問いかけに"Yes, I am."と答えて下さることでしょう。

<hide-tanの感想>
最近そのように言われることのない私ですが、私は「それなり(それほどでもない)」に”自分に厳しい”と思っています。でも、それを美徳とするのは間違っているかもしれないと思いました。

『自分に厳しい』という評価を受けるというと聞こえは良いのですが、一方で、自分に厳しい人とは、自分が何者かであることを信じ、自己実現のために努力を重ねつづける人であると言い換えることはできないでしょうか?その考えの中に宿るちょっとしたプライドで自分自身や他の人を傷つけてしまう可能性以外に、自分のことを客観的にとらえられず、”自分ではない何者か”になろうとしてしまうのではないでしょうか?

だからと言って、私は自分に価値がないとは思っていません。それは、私が何者であるから価値があるというものでなく、私が神によってこの世に存在させられた価値ある被造物であること、またこの私を神の子として天国を引き継ぐものとするために、神の御子が十字架にかかるまで愛してくださったことからそのように言えるのです。

そして、これを読んで下さっているあなたもそのように価値のある存在です。


(hide-tanの祈り)

天と地とその中にあるすべてのものを造られた父なる神様。『あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(旧約聖書イザヤ書43:4)』と言い続けていて下さって有り難うございます。
もしかしたら、私が描く自分の理想像と、私を作られたあなたの目的にかなった私のあり方は、ちょっと違うかもしれません。そのままで人生を歩むことを、もしかしたらあなたはお許しにならないかもしれません。

もしそうであれば、私をいつでも立ち止まらせて下さいますように!
あなたのみ声を聞き分ける耳と、立ち止まる信仰を与えてくださいますように!

あなたが私たちを造られた、その目的にかなった生き方をすることが私の幸せです。たとえ険しくても、見栄えがしなくても、私に”幸いな道”を歩ませて下さい。

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2008年7月14日 (月)

アラスカクルーズ3日目-1:日曜礼拝シリーズ:神の民として

今日は、Dr, Charles Stanleyによる日曜礼拝のメッセージでした。
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聖書箇所-1:(ヨハネの福音書15章1-5節) わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 わたしの枝で実を結ばないものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

説教の内容:
クリスチャンになったからといってすべてが解決するというものではないことは皆さんご存知です。
クリスチャン生活の中では、神に従いなさい、神に信頼しなさい、あなたの戦いを闘いなさいと、よく言われます。そのとおりですが、いったいどうすればよいのでしょう?
ガラテヤ書5:22-23節にあるような御霊の実を結ぶためには、日曜日だけみことばに対して真実であるというサンデイクリスチャンであってはいけません。

ここでキリストは”枝自体では実を結ぶことはできない”と言っていますが、実を結ばせて下さるのは自分自身でなく神であることを知っておく必要があります。枝である私達がいくら頑張っても神の目にかなった実を結ぶことはできません。クリスチャンに内住してくださるキリストの御霊がことをなしてくださるのです。

「自分が・・・しなければならない。」という思いは、欲求不満を生じさせるだけです。キリストとつながるということは、キリストのことをもっと知りたいと思い、自分のこともキリストに知ってもらいたいと願う、親しい関係です。そのために私達は聖書を読み、祈る時間をもつのです。

聖書箇所-2:ローマ人への手紙12章1-2節

そういうわけですから、私は神のあわれみゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として神にささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために心の一新によって自分を変えなさい。

クリスチャンの皆さん。神はあなたのすべてが欲しい、と言っておられるのです。
神にあなたの人生を明け渡しなさい。誰かがあなたの人生を見る時に「私もあの人の様に生きたい」と思われるような生き方をしなさい。神ご自身の行きたいところへ行き、神のしたいとされることをしたいと一心に願いなさい。自分の思いや意志を神にお委ねすること、そうすることでキリストにあって実を結ぶことになるのです。

聖なる供え物とは、神への従順です。神にすべての選択権を”お返しし”自分の力で善を行うのではなく、神の御霊によって行うことです。

クリスチャンの本来の姿は、神に明け渡した生き方をすることです。この世と調子をあわせてはいけません。あなたはテレビを3時間みることによって、クリスチャンがこの世から受けている影響を知っていますか?そうすることで、神の民であるはずのあなたは、この世のシステムがあなたを形作るのをゆるしているのです。現在、アメリカ人の約半数はホモセクシャルはOKであると言っています。
かつてはそのような状況ではなかったのです。テレビによってプログラム化されたのです。中絶も、性虐待も、今は「そんなことはよくあること」と大きく取り上げられません。

この世のシステムは本当に破壊的なのです!クリスチャンであるあなたは、この世にあなたを形作らせてはいけないのです。

この世はなんと悲劇的にも、神に敵対するシステムに冒されていることでしょう!
大多数の意見がこうであるからと言って、流されてはいけません。私達は神の民なのです。

クリスチャンであっても、もし一週間に一度しか聖書を開かないのであれば、世的なものとなってしまいます。下品な冗談を聞いても笑ってはいけない。この世のシステムとはちがう場所にたっていることを世に示しなさい。

敬虔なクリスチャンであることは、この世の中にあって、受け入れられないことです。
迫害を受けることもあるでしょう。
あなたの人生はキリストをこの世に示している人生でしょうか?
あなたは地の塩、世の光でしょうか?
敬虔に生きる人とは、聖霊にコントロールされている人です。
その人を見て、多くの実が結ばれていることを世の人々が見ることができる人です。
生きた供え物として自分を神にささげ、世の中のシステムに自分を形作らせない人です。
「私は世の中の考えに魅せられていないか?」
と、このように自己吟味しなさい。
キリストに従い、その教えに耳を傾けなさい。

クリスチャンはめぐみによって救われただけの人でなく、その内にキリストを持つことができ、世の中のどんなことに対してもキリストがその人にかわって事を成し遂げて下さるような人なのです。

だから、「キリストが私の内に住んでおられ、私は決して失望させられることはない」とい宣言しなさい。神は世の人に対して怒っているのではなく、あなたを通してご自身に導こうとされているのです。神は真実なお方であるのだということを人生に反映させなさい。

"You are not your own. You are bought with price." (1コリント6:19-20)

心の一新によって自分を変え続けなさい。神のことばを受け入れて聖霊によって語りなさい。
神の訓練を受け続け、みことばが真実であることを学び、神の思いが自分の思いになるようにまでにあなりなさい。

たしかにキリストにつながっているクリスチャンであっても様々な葛藤はあるでしょう。自分が握っていたいと思うものが必ずしも神のみこころではないこともあるでしょう。しかし、自分の思いだけで選び取る物はすぐにその手の中で灰と化してしまいます。神はそのようなものを握って欲しくないと思っておられるのです。神はさらに良いもの永遠に朽ちない宝でその両手を満たして下さいます。

あなたの両手を神に取ってもらいなさい。

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2008年7月 7日 (月)

日曜礼拝シリーズ:悪に打ち勝つ愛

聖書箇所(ローマ人への手紙12章9-21節):

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶべき者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。互いにひとつ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い人に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐は私のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

説教要約(というか理解できたところのメモから):
『愛には偽りがあってはなりません』
この箇所で最初に出て来るのは自己吟味です。私達は他の人を愛している「フリ」をしていないでしょうか?イエスは『あなた自身を愛するように』と言われました。愛とは善を求めるものです。愛は自分の人生において悪を正当化するようなことはしません。自分のことについて本当のことを述べ、他の人を励まします。
『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い・・・』
私達のように教会に集うクリスチャンは神の家族です。兄弟どうしのライバル意識で挑み合ってはなりません。
本当の愛とは不便なものです。神の愛をもって人々に仕えることは気付かれにくく、時に拒絶されることもあります。人というのは不完全なものです。”自分の示した愛にその人がどのように反応するか”を期待してはなりません。”自分がこの人を愛することによってこの人を変えよう”などとも思ってはいけません。人を変えることができるのは神だからです。私達はその人を愛し、神を待つのです。

愛は寛大です。与えることに喜びを見いだします。

『あなたがたを迫害するものを祝福しなさい。』
私達はイエスキリストのゆえに、ときに不当な理由によって迫害を受けます。
しかし本当の愛は自分を迫害するような敵をも愛するものです。

『悪に悪を報いることをせず・・・』
正しいと思われることは前もって準備しておくべきです。私達はこの世にあって、反対する人々に囲まれて生きています。しかし自分で仕返ししようとなど考えてはなりません。
仕返しをするとクリスチャンは、
1)神に愛されているという自分のアイデンティティを傷つける
2)神が愛されているその魂を永遠に失ってしまうかもしれない

愛はコストのかかるものです。しかし、愛は悪に打ち勝つものなのです。

*hide-tanの感想*
これはクリスチャン向けのメッセージです。この聖書箇所は、自分に対してあまりよくない言動をとる人にも少しは我慢して、ある程度の間は親切にしなさいという、そんなちょっとした「キリスト教的道徳」を説いている箇所ではありません。

この箇所はローマで自分や自分の家族の命が危険にさらされているクリスチャンに宛てて書かれたものです。「迫害するもの」とはただ単にちょっと意地悪な隣人というレベルではなく、そのようなことをする人々をも含んでいるのです。

しかも、”堪忍の緒が切れるまでは”そのような人をもゆるし、親切にしなさいと言っているものでありません。キリストの弟子は「誰かが自分に対して罪を冒したら、7回くらいはゆるすべきでしょうかね?」と訊きましたが、キリストは「7を70倍するまでゆるしなさい」と言われました。人が自分に行った悪の回数を数えるべきではない、そしてずっとゆるし続けるべきであると言われたのです。

私達は自分の愛する人を殺されて泣き悲しむ人が犯人に死刑をのぞむ姿を見て、悲しみと怒りを覚えて共感します。「反省して、まっとうな人間になり、この十字架を一生背負って歩んでほしい」と言う遺族がいれば「立派だ」と思います。しかし聖書には「そのような人のために祈りなさい」と書いています。そのひとがその罪をキリストの十字架によって処理してもらい、天国に入る保証を得て、神と人のために残りの人生を歩む為に祈りなさいと教えているのです。

そのような愛は可能でしょうか・・・?
はっきり言って、無理です!

でも、この聖書箇所を書いたパウロは理想論を書いているのではなく本気でそのように薦めているのです。パウロは、キリストが十字架の上で自分を処刑する者のために「父よ、彼らの罪をゆるして下さい。彼らは自分が何をしているのかわからないのです。」と祈られたということを思い起こしていたのかもしれません。そして、パウロ自身がクリスチャンへの迫害者として悪名高い存在であり、ステファノのリンチ殺人にも加担していたのです。彼は衝撃的なキリストとの出会いのあと、アナニヤというクリスチャンに祈ってもらい、キリストの弟子達から受け入れてもらいました。彼はキリストの十字架による罪のゆるし、限り無ない神の愛を知っていたから、自分が迫害者として、また迫害を受ける者としてもそれらを体験していたからそのように薦めているのです。そしてそれを実践しているクリスチャンがいるのは事実なのです。

もういちど、言いますが、ただ単に人間の思いや、人格の立派さではそのような無制限、無条件の愛を実践するのは無理です。

でも聖書には「神には不可能なことはありません」と書いているように、神が私達クリスチャンを通して働かれるなら、クリスチャンが神がそのようにお働きになることをゆるすのであれば、神の愛によって、そのような愛も可能になるのだと思うのです。

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2008年6月30日 (月)

日曜礼拝シリーズ:約束による贈りもの

聖書箇所:旧約聖書2サムエル9章

『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。』 (2サムエル9:7)

<この聖書箇所の話とあらすじ>
イスラエルのダビデ王は、王位を固めた時に、自分をかつて苦しめていたサウル王の息子である親友ヨナタン(彼は、父サウルの意に反する形でダビデ王をサウルから逃したが、後にサウル王とともに戦死)との約束を果たすためにヨナタンの息子を呼び寄せて、サウル王の元所有地をヨナタンの息子メフィボシェテにあたえ、王の食卓で食事をすることをゆるしました。

礼拝説教要約:
ダビデ王が前任の王であったサウルの息子ヨナタンの親族を探し出して、このように恵みを与えることにはリスクがつきまとっていました。その親族が彼のことを敵視している可能性がないわけではないからです。私達にとっても愛するという行為には、リスクが伴うこともあります。しかし、私達は愛すのです。それは正しいことだからです。

ダビデがここで言っている「恵み(God's kindness)」とは神の愛の現れです。神の恵みにはこれらの特徴があります。
1:あなたが自分では出来ないと思っていることを神ご自身がなして下さる。
2:あなたに対して常に誠実である。
3:その恵みを与えるべきあなたを探しておられる。

さて、ダビデ王に呼び出されたヨナタンの子は両足が不自由でした。ヨナタンのような勇姿はなく、王に殺されるのではないかと怯えて身を隠さねばならないみじめな存在だったのです。私達もそのような存在なのかもしれません。そして、私達は自分や他人のみじめな姿を見る時にそれを自分自身やその人自身に責任があるかのように考えがちです。イエスの弟子達は生まれつき、目が見えない人を見て、誰の罪によってこのようになったのかを質問しましたが、イエスは「誰の罪によるのでもなく、神のわざがこの人に現れるためである」と答えて、目が見えるようにしました。(ヨハネの福音書9章)
このときみじめな状態にあるメフィボシェテに慈悲を与えることで、ダビデは神の栄光を現したのです。メフィボシェテはダビデとヨナタンとの約束を知らなかったために、怯えていたのでした。

『サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのためにその者に恵みを施したい』(2サムエル9:1)

もしかしたらあなたは、(イエスキリストの十字架と復活によってもたらされた)神の約束を知らずに怯えて生きているかもしれません。しかし、恐れる必要はありません。神はあなたに恵みを受け取ってほしいと探し求めておられるのです。

メフィボシェテという名前には”恥さらし”という意味があるそうです。
彼は自分の姿を恥じ、自分のことを「この死んだ犬のような私」と言っています。恥は恐れをさらに増していたのです。一方でダビデはそのようなメフィボシェテの姿に関わらず、彼のすべての必要に応え、さらに良い物を分け与えました。そして、この章の最後は、このように締めくくっています。

"メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。" (2サムエル9:13)
私達も神の前にメフィボシェテのような存在です。自分の力では神の食卓につくことはできない、両足のなえたような存在です。しかし、ヨナタンのゆえに恵みに預かったメフィボシェテのように私達も御子イエスキリストのゆえに神の恵みをいただけるのです。感謝して受け取りましょう。


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2008年6月23日 (月)

日曜礼拝シリーズ:神のやり方?私のやり方?

聖書箇所:2サムエル6章
説教要約:ユダヤの王ダビデは、取り返した契約の箱をエルサレムに運んでいました。
お祝いをしながら運んでいる途中で、Uzzahという人が体勢を崩した契約の箱に触ってしまいます。

「契約の箱を触ったものは死ぬ」

という聖書の言葉の通り、彼は死んでしまいました。
ダビデはこのことで神に対して怒りと同時に恐れというふたつの感情をさせました。

ダビデはこれまで戦いのたびに神にお伺いを立てて、神の方法によって戦いを進めて来ました。
しかし、ダビデは神に対する礼拝を神の方法によって行うということをしていなかったのです。
「これは自分でできる」
と思い、神の契約の箱を運び礼拝を捧げるという重要なことをするのに神にお伺いを立てていなかったのです。そこで、神はUzzahへの裁きを通して、ご自身の言葉は絶対で、神の裁きは常に正しいのだということを示しました。

ダビデは、3ヶ月の間、契約の箱をObed-Edomに預けます。すると、神はObed-Edomを祝福し始めたのです。神の怒りは、ずっと続くものではなく神はあやまちを冒した私たちをもまたゆるし、祝福されるのです。

それで3ヶ月の間、ダビデは聖なる神に対する畏れと神の愛の普遍性を学び、生け贄を捧げることで、神の聖さを告白し、神の恵み深さを、それこそ裸になって踊って祝ったのです。これをみたダビデの妻Michalは、そんな彼を蔑みます。彼女は神のことを思わず、自分の立場と体裁を重視していたからです。神と私の関係は誰から他の人からどのように見られるかということを気にしながら築くものではありません。神は、神ののぞまれる形であなたに礼拝を捧げてほしいと召し出しておられるのです。

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