マルコの福音書

2009年11月29日 (日)

マルコの福音書(10):神の御子としての権威(その2)

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「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。」
(マルコの福音書1章27節)

悪霊の上に立つ権威

聖書箇所: マルコ 1:23-28
すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。
すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

前回の箇所では、イエスが権威をもって教えられたことに人々が驚いたというところから、当時の宗教学者たちが乱用していた権力とイエスの持つ神の権威との違いについてお話しました。

人々がイエスの権威に新鮮な驚きを覚えた直後に、その権威を裏付けるできごとが起きたことが書かれています。

ここに登場します、『汚れた霊(unclean spirit)』とは悪霊のことです。
舞台は、神の宮であるはずの会堂でした。もっとも悪霊が現れにくいであろうと思われるような場所に悪霊につかれた男が現れました。私たちも、悪霊というものは、教会には現れないだろう、もっといえば、サタン的な働きは教会の中には現れないだろうという幻想を抱きますが、そうではありません。教会はイエスを神の御子であると信じ、十字架と復活によって罪をゆるされたことを認め、神のみこころにかなった生き方をしたいと思っている(あるいは少なくとも、そうすることが正しいことだと思っている)人々の集まりであって、完全に罪から自由に解き放たれた聖人の群れというわけではありません。教会は罪をゆるされた罪人の集まりにすぎないので、教会でもサタンが働く余地は十分にあります。

なぜ悪霊というものが出現するのでしょうか?

それにしても、私はこれまで、悪霊につかれた人というのを見たことがありませんが、福音書には数多くの悪霊が描かれており、実際に今の世の中でもそのような人がいるという話を聞いたことがあります。いずれにせよ、この時代は多くの人が悪霊につかれていたようですが、その理由は主にふたつ考えられます。

まず第一番目は、世に罪や悪がはびこっていたために働きやすくなっていたかもしれないということです。ユダヤ人たちは、神が立てた預言者を次々と殺し、神の言葉を取り次ぐ役目を担った預言者たちはつねにいのちの危険にさらされていました。それゆえ神は沈黙し、実に400年間の空白を置いていました。そのあいだに民の道徳は低下し、あらゆるところで不道徳と罪がはびこるひどい状態であったと考えられます。また政治的にもローマの支配を受けて苦しみ、人々の心は神から離れていたことでしょう。また初代クリスチャンの教会では、教会のメンバーの間でも性的な不道徳がはびこり、殺人までも起こったりしていたようです。今は聖霊を内に宿すクリスチャンが多くなり、目に見える形での活動しにくいのかもしれません。


第二番目は、イエスの働きが見えない世界にも及ぶことを知らせるため神が悪霊の出現をゆるしたのかもしれないということです。サタンは何をするにも、神のゆるしの範囲内でしか行動出来ません(ヨブ記)。神に逆らい続け、罪がある人間の存在をゆるしている今の世にあっては、神はある一定の範囲内でのサタンの働きをゆるしています(これは、神がサタンに悪を行うことを奨励したとかいう意味ではありません)。おそらく、神の御子が出現したことで、サタンの抵抗も激しくなっていたことでしょう。しかし、イエスはこの悪霊が口を開くことを多くの状況でお禁じになりました。

悪霊の性質についてわかることは以下のとおりです。

① 人に入り込んで活動する(その人自身が悪霊なのではないが人格が侵される)
② イエスが神の御子、キリストであることを知っている(1:24,34 ヤコブ2:19)
③ イエスにいつ滅ぼされるかを知っていて恐れている(1:24 マタイ8:29)
④ 人の言うことには聞き従わないが神には従う

この4番目が大切です。悪霊は人間の言う言葉に従いません。サタンはこの地上で活動する権利を主張しますが、神よりも力強い存在ではありません。悪霊とは、人間の力ではどうしようもコントロールできない存在であり、かつ私たちの人格をおびやかし、苦しめるものです。

今の世では、このような目に見える形で悪霊に遭遇するケースは少ないかもしれません。
しかし、目には見えない形で自分を苦しめているが、自分の力では、または誰の力をもってしてもどうにもならないことってないでしょうか?

ある人は、過去におかしたあやまちで心が苦しんでいるかもしれないし、ある人は家庭の崩壊かもしれないし、ある人には職場や学校での人間関係、ある人にとっては、今の医療では治癒しがたい病気であるかもしれません。どうしても離れられない悪習慣という人もいるでしょう。
私たちの人生は、そのようなことで溢れかえっています。そして私たちは、明日の天気をかえることも、身長を1cmのばすこともできない無力なものです。

しかし、イエスは、このような悪霊を追い出すという行為によって、人々はイエスが神の権威をもったお方であるという客観的事実を認めたのです。そして、もっと大切なことは、そのような権威と力を持ったイエスが、悪霊に悩まされる人の側に立って、悪霊に敵対して私たちを救い出してくださるということです。

(まとめ)   人々は、どのような人もコントロールできない悪霊をも従わせる神の権威に遭遇しました。

(黙想)
あなたの人生に入り込んでいるやっかいなもの、あなた自身ではコントロール出来ないものとはなんでしょうか? それをどのようにすればよいでしょうか?

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神様。あなたが悪の力を討ち滅ぼす力と権威をお持ちであることを感謝します。また私たちの手には負えないようなことがらにも解決をお持ちであることも感謝します。自分の力ではどうしようもないという状況に立たされたときにも、あなたが私たちの側に立って下さり、あるときは私たちを守り、あるときは試練に耐える力をお与え下さい。イエスの御名により、御前にひざまずいてお祈りします。アーメン。
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2009年11月10日 (火)

マルコの福音書(9):神の御子としての権威(その1)

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「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。」
(マルコの福音書1章27節)

今日は、新約聖書マルコの福音書の学びのつづきから、キリストの持っていた『権威』について学びたいと思います。まずはじめに、権威の定義を調べてみました。

権威(けんい、Authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。代名詞的に、特定の分野などに精通して専門的な知識を有する人などをこう称することもある。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

広辞苑では、このように権威と権力の区別は明確にされていません。このウィキペディアの書き方だと少しポジティブな印象がありますね。

さて、権威と聞いて、どのような権威を思い浮かべますか?
権威のある人って誰でしょう?
身近なところからは、ドライバーに対しての警察は権威がありますね。
「止まれ!」と言われたら従わないといけません。
仕事の上司とかも権威があるかもしれませんし、子どもにとっては先生や親もそうでしょうね。
大きな権威をもった人は誰でしょう?
一国の首相とか大統領の権威が一番大きいでしょうか。

権威という言葉を聞いた時に、どのようなイメージがありますか?
ちょっとコワいとか、うっとおしいとか、自分の意志に逆らうものといったようなネガティブなイメージがあります。

権威のある人に対しては、多くの人は、それを乱用しないでほしいと願います。
私は個人的には、権威というのは自分を守ってくれる役目があるものであると期待しています。
ここでは、イエスがもたれている神の権威とはどういうものか、イエスの権威について描かれている聖書箇所をちょっと書き出してみました。

まずは3回シリーズで、学びたいと思いますのでお付き合い下さい。

権威をもって教えられたイエス(マルコ1:22)
悪霊の上に立つ権威をもつイエス(マルコ1:23-27)
病気をなおす権威をもつイエス(マルコ1:29-34)

罪をゆるす権威をもつイエス(マルコ2:10)
被造物の上に立つ権威をもつイエス(マルコ4:35-41)
人の上に立つ権威をもつ者に対するイエスの教え(マルコ9:35)
自分のいのちを捨て、それを再び得る権威をもつイエス(ヨハネ10:18)
神以外、誰もイエスに対して権威をもっていない(ヨハネ19:11)

聖書箇所:マルコの福音書1章21節〜22節 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

カペナウム (Capernaum) について
正確な場所は不明ですが、おそらく今のイスラエルにあるガリラヤ湖の北側に位置する町であろうと言われています。遺跡群のある場所であると推測されています。

イエスがカペナウムに至るまでの経緯をさらっと調べてみますと、
ヨルダン川での洗礼→カナの婚礼→初期ユダヤ伝道(約8ヶ月)→カナ→ナザレでの排斥→カペナウム
という感じです。推測ですが、イエスは故郷のナザレを本拠地として活動したかったのではないかと思います。しかし、イエスを子どもの頃から知っている町の人々は近所の子どもであったイエスが神から来られたお方であるとは信じられず、イエスを排斥したのでした。こういう経緯があって、カペナウムはガリラヤ伝道の拠点とした場所として今後たびたび登場します。


安息日(Sabbath)———(創世記2:2、出エジプト16:23,20:11,35:2)
安息日とはユダヤ教の休日で、神が6日間で創造の業を終えられて7日目に休まれたということを覚えて一週間の最後の日(土曜日)を聖なる日として働かないように定められていました。
仕事をしないので、会堂にもっとも人が集まる日であったのではないかと思います。


会堂(Synagogue)について
ここは、主にユダヤ人が神に礼拝を捧げるところです。
普段は主に律法学者が律法を教え(ネヘミヤ8:8、ルカ4:20)、祭司が神への捧げものの儀式をします。また裁判所のような役目も担い(ルカ12:11)、このようないろいろな特権のもとに宗教的な階級が築き上げられていたようです(マタイ23:6)。

そのような場所に今回は特にイエスとはじめの弟子達(=一行)がそこに入り、イエスが教え始めたのです。そこで教えられた内容は他の福音書に詳しいですが、マルコの福音書では、その教え方に権威があったということだけが述べられています。

イエスが、権威のある者のように教えられた
「律法学者たちのようにではなく」とあります。
律法学者のように教えるとは、人の解釈をもとに教えるもので、これは一般的なものです。それ自体は悪いことではありません。
しかし、当時の律法学者の教えについて、おそらく人々が気づきはじめていたであろう問題点は、律法学者たちが自分の立場(存在意義)を守るために、聖書に書かれている律法に勝手な解釈を加えて様々な無理な律法を作り上げ、それを神の命令(=律法)であるとして人々をがんじがらめにしていたのです。
これはいわゆる権力の乱用であったと思われます。

それに対して、イエスの教えは権威があると言われています。
権威がある、というのは自発的に同意・服従を促されるようなものであるということです。
神が私たちに求めている人の歩みは、規則に縛られて、権力に恐れをなして生きて行く生き方ではない。こうしないと神の祟りがあると言ったような恐怖で人々を縛り付けるようなものではない。神はどのようなお方なのかということを知り、私たちを愛してくださる神がきよいお方であるがゆえに、私たちもその神に従うにふさわしい者になりたいという思いを抱いて歩むことが私たちに与えられた神の命令なのです。

こういった考えに裏打ちされたイエスの言葉は、人々の心の渇いたところを潤すものであったのだと思います。

後の箇所で出てくる人々の反応、
「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。」
(マルコの福音書1章27節)

という言葉の中には、人々が、この言葉に従いたいと思わされていること、そして、このような教えを今まで聞いたことがなく、心が渇ききっていたということがわかります。そして、心を潤してくれるイエスの教えをもっと聞きたい、そして実践したいという温かい気持ちが人々の心に湧き上がったような様子が伺いしれます。

・・・とはいえ、この物語には、このように神の代弁者として権威をもって教えるイエスを心良く思わない人たちが多く登場します。マルコの福音書は16章。まだ1章ですが、ここですでにイエスの投げかけられた言葉にこれから前途多難なできごとが続いてきます。

次回からは、イエスの力が闇の力を滅ぼすほどのものであったこと、私たちの苦しみを取り除いてくれるものであったものであるということを一緒に見て行きたいと思います。

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神様。あなたの御言葉をわたしに聞かせ、この心を潤してください。
あなたがどのようなお方であるか、私のためにして下さった奇しい御業の数々を味わせてください。
私から恐れを取り去り、あなたに仕える喜びで私を立たせて下さい。
あなたの権威のもとにへりくだり、あなたへの愛ゆえに「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛せよ」という命令に従う者になることができるようにお導きください。アーメン。
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2009年11月 4日 (水)

マルコの福音書(8):ガリラヤ湖のほとり(その2)

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聖書箇所:マルコの福音書1章16〜20節

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

今回も前回と同じところから学びたいと思います。
ここは、イエスがまず4人の弟子たちを招く場面です。前回はどのようなお方に声をかけられているのかということに注目し、それではクリスチャンはどのようであるべきかということについて、ちょっとだけ考えてみました。

今回は、声をかけられた弟子たちに注目してみたいと思います。

<無学な普通の人>

聖書の記述からわかることは、彼らは「無学な普通の人」(使徒4:13)であったということです。

のちにイエスの復活を目の当たりにして、すっかり変えられた二人が人間をとる漁師として活動しているときに、民の指導者、長老、学者、大祭司の面々の前でキリストへの信仰を弁明します。
そのときの記述がこのように書かれています。

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。(使徒の働き4章13節)

なぜイエスは、聖書に精通しているような学問に心得のある人を招かなかったのでしょうか?
それには、3つ理由があります。

① 神の御前で誰も誇らせないため(1コリント1:29)
神の教えが人間の知恵によるものではないこと、そして、「私は神より知恵がある」とか言わないようにさせるためです。神の知恵を無学な人にあたえ、それを知恵があると思っている人に聞かせることで、そのような高ぶった思いのある人にまで福音を知らせようという神の知恵でもあります。

これを読んで下さっているかたの中には、キリストの教えなんて難しい、それより自分が正しいと思う生き方をすればいい。そして、天国に入るかどうかは神に判断させればよいと思っている人がいるかもしれません。でも、福音は高等教育を受けていなくても理解できるものですし、キリスト教は道徳的な生き方をすることによって救いを達成させるような宗教ではありません。神に罪がゆるされていることを感謝し、それに応じた生き方をしていくことを教えるものです。

また、これを読んで下さっているほとんどの人は
「自分は神より賢いなどとは思っていない」と言われるのではないかと思います。
でもこんな風に思ってはいないでしょうか?

『聖書を少し読んでみたけど、十字架の身代わりなんて、ちょっと子どもじみているし、そもそもキリストだけが救いの道だとかいうのは、間違っている。私の描く神のイメージはもっと大きい。そういう点で聖書には少し訂正が必要だな。』

聖書に書かれているメッセージを否定することは、自分は神より賢いと思っているということではないでしょうか?

聖書のコリント人への手紙第一1章には、
1:自分の知恵によって神を知ることができないのは、神の知恵による
2:神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い

とあります。そして、”十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1章18節)”と訴えています。

”聖書の教えは馬鹿げている”と思ってしまう、そのようなあなたにも神の福音が届くようにと神は願っておられるのです。

② 土の器でも、中身は宝。(2コリント4:7)

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(コリント人への手紙第二4章7節)

自分がクリスチャンになるなんてまだまだ早い、とか、自分はクリスチャンだけど、とても他の人にイエス様を紹介するような器ではないとかお思いではないでしょうか?
私をよく知る人なら、私を昔から知っている人ならなおさら、あのhide-tanってクリスチャンなの?キリスト様のお話なんて、できた面(ツラ)か?と思う人もいることでしょう。
でも、わたしはこの聖書箇所に励まされます。そして、イエスが弟子として選んだ人が、普通の職業につく普通の人であったということも。

神が本当に神であるのなら、この世界でとるに足らないものと思われるような人を用いて、大きなこと、すばらしい業をなして下さるはずです。でも、そのためにはひとつだけ条件があります。

それは、自分の人生を神にゆだねるということです。
宝を入れる器は立派である必要はありませんが、中に他のものがあってはいけないのです。
自分の中に宝を入れてもらう為には、自分が大事に思っているものでさえ、神に明け渡さないといけないのです。「ゆだねる」という言葉は消極的な感じですが、クリスチャンの歩みは、「積極的に」神に自分を明け渡していく歩みなのです。

そして、宝とは神の福音のことです。

だから、もっとも大事なことは、福音に混ぜ物をしないということです。

神の御子であるイエス・キリストが、自分の罪の為に十字架にかかり復活して下さった。私の罪はゆるされ、私はキリストにあって神の子としていただいた。
ということに、酒やタバコはやめないといけない、とか、献金をしないといけない、とか、教会の会員になれなければいけないとかいう「混ぜ物」をしてしまってはいけません。

③ 完全なものとしてくださる。どんなことでもできる。(ヘブ13:20-21,ピリ4:13)

欠点だらけの私たちがキリストの招きに応じて従う時に約束されていることは、神はそのような欠けを補い完全なものと変えて下さるということです。
もともと非の打ちどころがないという人であれば、クリスチャンになる前後ではあまり分からないと思います。しかし、変えないといけないところがいっぱいある人が、どんどん変えられていくと、まわりの人々は、神が生きて働いているのだということを思わされます。神はあなたがコンプレックスを抱いているところや短所と思われるようなところを取り扱って下さり、神が私たちを愛しておられるというメッセージを世に伝える為に私たちを用いて下さいます。

だから、もし自分は欠点だらけで教会になんて行けないとか、キリストを信じるには、まず行いを正してから、とか思う必要はないのです。

網を繕っていたその手を止めて岸辺から、船から立ち上がることです。

あなたが今置かれている状況はひどい状況かもしれません。誰かによってひどくされたのかもしれないし、自分の悪い行いによって、悪い結果が生じてそのために苦しんでいるのかもしれません。自分には何の長所も無いと思っているかもしれません。でも、そういったことが少し改善されてからキリストに従うのではなく、この弟子達のようにすぐに立ち上がり、自分を人間を取る漁師に変えて下さるというお方のもとに向かうことです。
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彼らは、これまで漁師として生きて来ました。
キリストが「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたときに、これまでの彼らの漁師としての経験を生かすことも視野に入れていたものと思います。事実、イエスの一行はよく船で移動したのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)
キリストに従ったからといって、神に人生をゆだねたからといって、これまでの歩みが無駄になるようなことはありません。かえって、今までの歩みーそれが成功に満ちたものであれ、失敗だらけでもあれ、悲しみにあふれたものであれーを用いて下さいます。これまでの人生、あなたは神を捨てて歩んで来たかもしれないですが、神はあなたを捨てはしませんでした。神はあなたが生まれてから今まで、寄り添って歩んで下さっていたのです。もし、今日、あなたが神に向いて生きて行こうと決心するならば、これまでの人生で得たもの、失ったものを用いて神はわたしたちを神の目的にかなったものへと変えて下さいます。

だから、今その場所で、そのままの自分で、「はい、主よ。」と言いさえすればそれでよいのです。

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神様。今、わたしも自分の人生におけるガリラヤ湖のほとりで、あなたのお声を聞きました。
私はこれまであなたのことを知らず、あなたを悲しませるような歩みをしてきました。しかし、あなたはキリストの十字架のゆえにこのような私をも受け入れ、あなたの御用に役立つ器へと作り替えてくださることを感謝します。わたしは今、このままの状態で、後ろのものを置いて、あなたと新しい人生を踏み出したいのです。どうぞお助け下さい。アーメン。
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2009年10月25日 (日)

マルコの福音書(7):ガリラヤ湖のほとり(その1)

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聖書箇所:マルコの福音書1章16〜20節

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

この福音書の記者マルコはここで、イエスがまず4人の弟子たちを招いたことを記しています。
このうちアンデレとシモンは洗礼者ヨハネを通じて以前イエスに会っています(ヨハネ1:35-42)。
またヤコブとヨハネも洗礼者ヨハネの弟子たちであり、一説には、イエスといとこ関係であったとも言われています。なので、この4人は以前からイエスのことを少しは知っていたのです。

さて、そんな彼らですが、彼らはイエスに呼ばれたときに、ガリラヤ湖のほとりで漁師としての仕事をしていました。自分がなすべき大事な仕事をしている最中に彼らはイエスに呼ばれました。

”人間をとる漁師にしてあげよう。”

それは、人々が神に立ち返り、神の家族として永遠を過ごすことができるようにさせるイエスの働きに加わるということの招きでした。イエスは、彼らが最も大事にし、時間を割いていた営みである漁師ということばを用いて彼らを招きました。それは、
あなたの最優先順位を、時間を、神のために人間を獲得することに使いなさいという招きだったのです。

その言葉に対してとった彼らの行動は、正直、少しびっくりです。
”彼らは網を捨て置いて従った。”
”父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。”

これまで、もっとも大事にしていたものをその場で捨てて従ったというのです。

普通に考えれば、びっくりですが、もしかしたら、彼らはすでにイエス・キリストのことについてかなりのことを知っていたからではないかと思います。先ほどのべたヨハネの福音書1章では、アンデレがシモン(ペテロ)に”私たちはメシヤ(キリスト)に会った”と報告しています。
イエスが行った奇跡や、教えのすばらしさ、多くの人々の関心をかっていたことも知っていたことでしょう。彼らは、この人こそ、ユダヤ人を(ローマの圧政から)救い出すメシヤであると思っていたのではないかと考えられます。

それはいわば、選挙戦を有利に進めている選挙活動中のアメリカ大統領候補から声をかけられたようなものです。

”ホワイトハウスで一緒に国づくりをしないか”

と言われるようなものかもしれません。

このイエスからの招きの言葉は、イエス・キリストを信じたクリスチャンにとっては真剣に向き合うべき言葉です。私たちクリスチャンは、アメリカ大統領よりもずっと偉大なお方から声をかけられているのです。

”ちょっとこの仕事が片付いたら”とか、”自分の目標を達成したら、もう少し従順なクリスチャンになります”とかは言えないはずなのです。でも、私も含めて、多くのクリスチャンは実は、そのような偉大なお方からそのような召しを受けているような生き方をしていない、それが現状です。
自分のやりたいことを優先させたい、人気者でいたい、欲しいものはすべて手に入れたいという思いが、自分に声をかけて下さっている神がどのようなお方なのかに目を留められなくし、その声から耳を塞いでいるのです。

アメリカ大統領と一緒に仕事をしたいかどうかは別にして、キリストというお方は、私たちが考えるどのような人物よりも、魅力的な人物であり、エキサイティングな仕事をされるお方であることに違いはありません。本当は、彼らのように網を捨て、家族や仕事仲間も置き去りにしてしまうほどに気持ちが高揚するような召しなのです。

もちろん、すべてのクリスチャンが牧師や宣教師のような仕事をしないといけないということではありません。職業はそのままでも、神に召されているがゆえに、喜んで人に仕えるように仕事をする、または勉学に励むということを求められているのだと思います。でも、前にも書いたように、今、クリスチャンと自称する人々の中に、そのように生きている人は少ないのが現状です。

自分のためだけに生き、他者を顧みない。
品行方正である自分の「徳」をひけらかし、他者を裁く。
だらしない生活やふしだらな生活を”自由”であると主張する。

もし、クリスチャンがこのようであれば、神は生きておられ、あなたを愛しておられるというメッセージが誰に届くでしょう?誰がイエス・キリストを人生の師と仰ぎたいと思うでしょう?

でも、クリスチャンの中にもこのような人は、正直・・・多いと思います。
そのようなクリスチャンにイエスはこのように言っています。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

(マタイの福音書7章21~23節)

私たちクリスチャンは、どのようなお方に、どのような召しを受けているのかを日々考えたいものです。キリストは、私たちが喜びにあふれて、神と人とに喜ばれる生き方をするためにわたしたちを召して下さっているのです。

(つづく)

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私たちのためにいのち捨てることさえ厭わないほどに愛して下さっている神様。
私たちは、いつもあなたから召されていることの光栄や、重大さを忘れてしまうものです。
どうか、いつもあなたの”人間をとる漁師にしてあげよう”という言葉を覚えて生きることができますように。アーメン。
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2009年9月26日 (土)

マルコの福音書(6):キリストによる福音宣教のはじめ

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聖書箇所:マルコの福音書 (1:14-15)

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

”ヨハネが捕らえられて後”とありますが、イエス・キリストのガリラヤ地方における伝道までの間は一年間のブランクがありました。最初の約1年は、イエスは、ヨルダン川下流のユダヤ地方にむかって伝道旅行に出ていて、そこで教えを広めていたのです。

その一年間のできごとは、ヨハネによる福音書にしか記載されてません。

この間、イエスは弟子達を連れてユダヤ地方で神のことばを教え、弟子達はバプテスマ(洗礼)を授けていました。イエスの弟子となったヨハネ(ヨハネの福音書の記者)はもともとは洗礼者ヨハネの弟子であり、一時期、イエスと洗礼者ヨハネが同じ場所で教えを説いていたことから、もしかしたら弟子ヨハネだけが詳しく記述したのではないかと思います。

ヨハネの福音書以外で、この一年間のできごとが語られていないのは、ただ単に情報が不足していたというだけではなく、洗礼者ヨハネの役目が終わったところを意識して、そのあとの出来事を新しい神との契約のはじまりとして記載しようという意図があったのかもしれません。

”ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。”

さて、洗礼者ヨハネが、ヘロデ王に捕らえられ、ユダヤ地方で身の危険が迫ったイエスは、再び北上し、ガリラヤ地方に戻って福音宣教を開始しました。

イエス・キリストの生涯と聞けば、彼の行った数々の奇跡の物語に目が奪われがちです。
しかし、イエスが公生涯のうちに果たそうとした第一の使命は、人々を罪の悔い改めに導き、神の福音を信じさせることにありました。(マルコ1:38)イエスが奇跡を行ったのは、彼が神から来たものであることを人々に信じさせるためでもありました。

ところで、物語を書くにあたって、その登場人物が発する最初の言葉というのは、とても重要だと思います。この物語でも、いくつかの出来事が記載されていますが、マルコはここまでイエスを物語の中で沈黙させてきました。そして、いよいよ主人公であるイエスの注目すべき最初のセリフをこのように記載しています。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

これこそが、記者マルコが読者に伝えたいメッセージなのだと思います。


”時が満ち”というのは、この時があらかじめ決められていたときであることを示しています。キリストのおとずれは、私たちのために世の定まる前からすでに決められていたことなのです。そして、事実、預言者ダニエルによって正確に預言されたとおりにキリストは現れたのでした。(ダニエル書9:25-26)
そして、私にも時が満ちて、キリストに出会う瞬間がありました。これを読んで下さっているあなたも、今、この瞬間が”時が満ちた”そのときです。そして次のことばを一緒に考えてみましょう。


”神の国は近くなった”

これは、どういうことでしょうか?

それは、まず第一は、キリストが来たことによって、神の国に入るための道筋が用意されたという意味ではないかと思います。船で来ることしかできなかった100年前と比べて、飛行機で来ることができる今はアメリカと日本は近くなったということと似ているかもしれません。
今まで泳いでしか行けなかった神の国が、ユダヤ人に律法と預言が与えられることで船で渡れるようになり、ついには十字架の橋によって”近くなった”ということなのだと思います。

もうひとつは、神の国がキリストが人間世界に来て下さったことによって、神の国が実際のものとして認識できるようになったことも”近くなった”と表現できると言えます。

そして最後に、神の国は、最終的に世の終わりに打ち建てられるとともに、今の時代に生きているわたしたちクリスチャンの内にすでにキリストが造り上げているのではないかと思うのです。私が参加するバイブルスタディでも、キリストを信じている参加者全員が、『神の国はどこにある?』という質問に対して、

「来る世に来る神の国もそうだけど、その神の国は、キリストを信じて神の御霊が住んでくださっている自分の中にもあると思う」

と答えています。実は、わたしにもそのような確信があります。

”悔い改めて福音を信じなさい”

「悔い改める」とは、自分のして来たことを後悔して、涙ながらに「もうしません!」と決意する・・・みたいに思ってしまいますが、実は言語では「メタノイア」と記され、それは「考えを変える」という意味です。だから、そのような感情の変化を伴う必要はないのです。

ここで、イエスが言われている直接の聴衆の多くはユダヤ人なので、

「私たちはユダヤ人だから、神に選ばれているのだ。神は私たちがアブラハム、イサク、ヤコブの子孫だからこそ祝福をもたらされるのだ。」という考えを捨てて、神の前にへりくだって自分は罪のあるものであることを認め、神が用意してくださる新しい契約を受け取りなさい

というメッセージを伝えようとされたのです。

しかし、マルコはこの福音書をローマ市民に宛てて書いています。
ユダヤ人ではなく、キリストを見たことがない人たちにです。私たちと同じような読者です。
その読者にあてて、あえてキリストに語らせた最初の重要な言葉がこの言葉だったのですから、私たちもこの言葉を自分たちに向けられたととらえるべきです。神がマルコを通して、これを私たちひとりひとりに向けて語られようとした言葉として受け取ることを意図されていることは明らかです。

”悔い改めて福音を信じなさい”

私たちには次の3つの点についての考えを変えることを求められています。

① 自分は正しい→自分には罪があって神の義には到達していない ② イエスは普通の人間だ→イエスは神の子、キリストだ ③ イエスの十字架と復活は自分とは関係がない→それら私の罪の代償として支払われたものだ

もしかしたら、①は同意するけれども②や③は、信じられないとお思いになるかもしれません。
そのような方の考えはもっともだと思います。でも、ここまで拙い文章を読んで下さったことに感謝しつつ、ここまで読ませてくださったのは神様が働いてくださっているからだと思います。
や知り合いのクリスチャン、キリスト教会とコンタクトをとって、少しずつでも聖書について学んでいただければ、神様ご自身が理解と確信を与えて下さると信じています。

もしかしたら、②や③も信じたいけれども、自分のようなものが神を信じて生きていくなんて、自信がないと思われるかもしれません。そのような方こそ、神に喜ばれていると思います。
「自分こそが、神の子としてふさわしい!そうか、クリスチャンとして立派な人生を過ごそう!」
と自信満々でいては、神に従うことはできません。
でも、もしこれを読んで下さっているあなたが、自分なんて・・・と思いながらも、こんな自分でも受け入れて下さる神がおられるなら信じてみたいとお思いになられたら次のように祈ってみて下さい。
そして、やはり、や知り合いのクリスチャン、キリスト教会とコンタクトをとってその思いを伝えていただければ幸いです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

神様。今日、私はキリストの「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉を聞きました。わたしは、自分に罪があること、神の御子キリストが私の罪の身代わりとなって死んでよみがえられたことを信じます。どうか私の心にもあなたの神の国をもたらしてください。
アーメン。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(つづく)


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2009年9月20日 (日)

マルコの福音書(5):私たちの弱さ、悩みに寄り添う主

hide-tanと読む「マルコの福音書」(5)

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聖書箇所:マルコの福音書1章11-12節

そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

普通、こういう話の展開になると、ああ、きっとイエスは、これからの伝道旅行に備えて悟りを開くために修行に出られたのだなあと思われるかもしれません。実は、イエスは確かに聖書は読んでいたであろうけれども、父なる神と御霊を通して一体であったイエスにとっては、「悟りをひらく」という行為は不要だったのです。

またイエスが他の聖者と違う点のひとつは、どのように神に語りかけられて、それに応えたとかいう召命の出来事が記載されていません。それは、ひとつはこのお方が、神であられたからです。

そんなことを考えに入れながら、この箇所をもう一回読んでみましょう。

そして、すぐ御霊は、イエスを荒野に追いやられた。

とあります。バプテスマを受けて、神から来られた方であることを人々に示し、そして罪人の立場に身を置くということを表明した後、すぐに起きたできごとです。罪人の立場にたって、わたしやあなたの罪を背負うためには、その身代わりとなる人自身が潔白でなくてはなりません。

そこで、もし、山に隠ったりして何の誘惑になるようなインプットが無い場所で過ごして「潔白だ」といっても説得力がありません。それは、神にとっても、私たちにとってもそうですが、サタンにとってはなおさらです。ところで、サタンは、神に従う心のある人に手を下すときには、常に神に許可を求めます(ヨブ記1章6-12節、ルカ22:31)。だから、このときも、サタンは神に御子イエスを惑わすチャンスを与えるように強く求めたものと思われます。そして、神は正しい方ですから、ご自分の義を御子イエスの中に現すために、その訴えを受け入れたものと思われます。

その証拠として、イエスを荒野へと追いやったのは、他ならぬ神ご自身の霊(聖霊)である、と記述されているのです。

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

他の福音書には、40日間の断食のあとでサタンが試みにやってきたと書かれていますが、マルコのみはサタンが40日間ずっと試みを行っていたような書き方をしています。(おそらく、他の福音記事の著者たちは、最後の3つの試みについてのみ象徴的に書かれたのではないかと思います。)
サタンにとっては、イエスと一対一で向き合って、惑わすことができる滅多に無いチャンスです。
まさにサタンは全身全霊をこめて、ありとあらゆる知恵と不思議な業を使って、イエスを試みにあわせたに違いありません。

イエスは、40日間、断食をして、人の助けを得られない場所で、人が人生のあいだに受けるであろうサタンからの誘惑を数多く受けたのです。それは、敬虔なクリスチャンと言われるような人であっても、耐えきれないようなものであったと思います。

神の御前では、けっして出来ないようなことをさせるために、少しでも神から目をそらさせるために、人々はクリスチャンであってもなくても、たえずサタンは私たちの周りをうろついています(1ペテロ5:8)。サタンは美しい衣を着て、いかにも信用してもよいような身なりで私たちに近づき、美しいもの(お金、名声、権力、異性、社会奉仕といった立派な活動までも)をみせて惑わせます。そして罪を冒させます。
「美しいもの」はそれ自体が悪というわけではないのですが、それを間違った目的に使うことが罪なのです。サタンは、このように言うのです。

「あなたは本当にこの美しいものを手に取ってはいけないと神に言われたのですか?
こんなに美しいのに? 神はあなたが幸せになって繁栄することを願っておいでではないですか?」

しかも、人は(私も含めて)簡単にその手に陥りやすいのです。

こんなことを書くと、窮屈に思われる方もいるかもしれないですが、サタンの手に陥らずに神を信じて歩む生き方こそ、自由な生き方であると思います。私もそのような自由を手に入れたいと思いながら日々を過ごしています。

サタンは、クリスチャンでない人には極力クリスチャンに会わせないようにさせよう、聖書に目を触れさせないようにさせよう、教会の敷居を高くしてやろうとあの手この手で対策を練ってきます。あるときは、神に従っていない不道徳なクリスチャンや極端な考えのクリスチャンを反キリストの宣伝材料に用います。素晴らしいクリスチャンに出会ったときにも、「その愛にあふれた行為こそが素晴らしい」「(どんな神であっても)神を信じるというその心の持ち方自体が素敵だ」と思わせ、そのクリスチャンを突き動かせている神ご自身から目をそらさせようとするのです。

すべては、人が神に立ち返って永遠を神とともに過ごすという特権を得させないようにするため、神に目を向けて、その素晴らしさを味わい、永遠の神の愛の中で心を満たされて生きるというクリスチャンを減らすためなのです。

キリストが荒野で受けた試みの多くは、このようなサタンの甘いささやき、一見すばらしいと思えるけれども神のみこころには適っていない行動をとらせるようなものであったのではないかと思います。

「私に従いさえすれば、あなたがローマの圧政から人々を救い出すようにしむけてあげましょう。
 人々の心をコントロールし、あなたは民から絶対的な支持を得る王として君臨することでしょう。
それが、神からあなたに託された使命ではないのですか。
このような目にあっているユダヤ人を救い出すことが。」

こんな話も持ちかけたのではないでしょうか?

キリストは、人として生まれたので、罪を選び取ることのできる自由意志というものも持ち合わせていました。そのうえで罪を冒さず、神を愛し続けるという歩みが求められたのです。だから身代わりは天使とかではなく、人でなければならなかったのです。それは私たちには出来なかったことですが、キリストはわたしたちのためにしてくださったのです。

それは、キリストがサタンと行動をともにして栄光を勝ち取るというものではなく、神の道を十字架を背負って歩むことを示し、上のような「おいしい話」にもきっぱりと”NO"を突きつけたのです。
それは、悪の側にではなく、神の側に立つという第2番目の立場表明であったわけです。(第1番目については過去の記事参照)

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。(2コリント5:14)

そして、それは”御使いたちがイエスに仕えていた”とあるように、父なる神とのアクセスがある状態で耐え忍ばれたのでした。試みの中、イエスでさえも、御父の助けを必要としたのです。

それでは、イエスがこのような試練を耐え忍ばれたことにはどのような意味があるのでしょう。
それは、キリストが私たちの弱さを知り、同情されるお方であることを示しているというのです。

聖書の示す神はただ単に聖なる義なる神であるだけでなく、とてつもない愛をもたれていいるお方です。それは、どんな罪人にたいしても、減らすこと無く注がれる完全な愛です。

神は、私たちがどれほど弱いものか、どんな悩みを持っているのかを知って下さるだけではなく、自分が冒してしまった罪の結果、苦しんでいることがらについてもともに悩み、ともに苦しんで下さるお方なのです。

たとえば、ある人が飲酒運転をして交通事故を起こし、帰宅途中のサラリーマンをひき殺してしまったという悲惨な事件が起きたとします。キリストはもちろん、被害者家族の悲しみを共有してくださるお方です。一方で、

「お酒を飲むのをあれだけやめようと思っていたのに。仕事で嫌なことがあったことを忘れたいと思って同僚と飲んだやけ酒がこのような結果をもたらしてしまった。会社には戻れないだろう。子ども達を守るために妻にも離婚されるかもしれない。被害者家族の憎しみから逃れられないだろう。そして、なにより自分自身を受け止めることはできないだろう。」

と失意のどん底にある加害者のことも理解し、ともに悩んで下さるお方なのです。

「こんな自分は生きていてもいいのか?生きていけるのか?」

と涙する加害者に、

”生きていていいんだよ。私が十字架にかかったのは、そのようなあなたでも生きていくことができるためなんだよ。自分では一生かかっても背負いきれない十字架を私がかわりに担いでいるんだよ。私とともに歩めばいいんだよ・・・。”

と言って涙を拭って立ち上がらせてくださるお方なのです。「自業自得」とか「バチがあたった」とか言う言葉はキリストから発せられることはないのです。

次回、お話する聖書の箇所でイエスが語られる言葉は、このような神の愛が裏打ちされているのです。

私たちの大祭司(=キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

(ヘブル4:15-16)

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神様。あなたは私の弱さを理解して下さるお方であることを感謝します。
わたしは、あなたに従わず、自分の目に良いと思われることをしてきました。
しかし、イエス・キリストがしてくださった十字架のわざにより、私の罪はゆるされ、あなたのもとに近づことをゆるされ、我が子と呼んで下さることを感謝します。
どうかこれから先、あなたの喜ばれるような人生を歩んで行けるように手助けください。アーメン

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(つづく)

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2009年9月12日 (土)

マルコの福音書(4):その立場表明が意味するもの。

マルコの福音書(4):その立場表明が意味するもの。

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聖書箇所(マルコの福音書1章9-11節) そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

罪の悔い改めのしるしとして、人々が受けていたバプテスマ。
先に書いたように、ヨハネは、自分の罪を悔い改めず、形式だけのためにバプテスマを受けようとする人々を非難しましたが、他にも別の理由でバプテスマを授けることを拒否しようとした人物がいました。

それは、イエス・キリストです。

しかし、ヨハネはそうさせまいとして、言った。 「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」(マタイ3:14)

洗礼者ヨハネは、イエスが罪の悔い改めなど必要の無い、罪のないお方であることを知っていました。
彼は、「私には、かがんでそのお方の靴のひもを解く値打ちもありません」(マルコ1:7)とイエスがいと高きお方であると告白し、自分にはとてもそのようなことはできないと言ったのです。

そこでイエスはこのように答えたのです。

ところが、イエスは答えて言われた。 「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」 そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:15)

人間として生まれ、人間として育てられた人で罪がまったくない、悪いことなどしたことはないし、考えたことも無いと言えるような人はいないでしょう。幼子は教えられなくても、ウソをつくようになるし、他人の物を取りたがるようになるのです。人は罪を冒すから罪人なのではなく、罪人として生まれるから罪を冒すのだと思います。

キリストは、神としてのご性質を持ちながらも、同時に完全な人間でもあったので、罪がないのにも関わらず、罪人としての立場を取られたのです。それは、キリストご自身にとっては必要のないバプテスマでしたが、そうのようにすることによって、「私も彼らのうちの一人です」と神のまえに立場を表明したのです。それは、同時に、自らの身を神のさばきの下に置くことと同じでした。

それをわかりやすく(なるかどうかはわかりませんが)言えばこういうことです。

たとえば、不祥事を起こした会社の責任を、適正に仕事をしている会社の社長が代わりに謝罪して辞任することで責任をまっとうすることはできません。その不祥事を起こした会社の社長が謝罪し責任を問われることになります。

キリストが取った行為は、まじめに仕事をしてきたのにわざわざ、不正を行っている会社の責任者になったというようなことなのです。キリストは、公生涯のはじめにわたしたちの罪の責めを担う十字架をすでに背負いはじめていたのです。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。 人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6-8)
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」 (1ペテロ3:18)

そして、はじめの聖書箇所に戻ってみると、聖霊が下られて、天から声がしたとあります。
この場面は、三位一体の神が、その”みつにいましてひとつなる”さまを人々に現した驚くべき場面です。

それは、同時に罪のない神の御子イエスが人々の罪を背負わせて十字架の道を歩むということが、イエスの単独行為ではなく、父なる神のご計画であり、御霊なる神(=聖霊)の導きのもとに行われるということを確かに示すためでした。

イエスは、ヨハネに制止されたときに「今はそうさせてもらいたい。」と言われました。

”今は”と言われるからには、別のときには違うことをされることを意味しているはずです。

実は、この会話の直前に、洗礼者ヨハネ自身が”キリストは本来どのようなことをされるお方なのか”ということを預言しています。

「・・・その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 手に箕を持ってお られ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 (マタイ3:11~12)

本来、キリストは裁きを受ける側ではなくて、裁きを行う側であるというのです。罪のあるものを永遠に燃え盛る火の中に投げ込み、罪のないものをご自分の民とされるお方であると言われています。

実は、これはイエス・キリストが再臨されるときに行われることを示しています。聖書には、最後の審判のときには死んでいるものはみなよみがえり、キリストを信じ、罪を十字架によって滅ぼしていただいたと告白していた人だけが神の前に義と認められ、それ以外の人、すなわち、神のこれほどまでの犠牲を聞いていながら受け入れなかった人は、その罪とともに永遠に火で焼かれ続けると述べています。

しかし、神は人を愛しているので、ご自分の身を犠牲にして、そのような苦しみに会わないようにするために御子イエスをこのような苦しみのもとに置いたのです。
人間にはとても到達できない神のきよさの高みに達するために、私たちは自分の力でジャンプしてもできません。善行という小さなレンガを積んでも天には届きません。私たちは、信仰告白というチケットをもって、十字架の飛行機に乗り込まねばならないのです。
それ以外には方法はないのです。もしあるのならば、神の御子をそのような目に遭わせることなど必要なかったのですが、わたしたちが何気なし行っている罪(友達の悪口を言うとかウソをつくとか、神を無視して生きることなど)とはそのように恐ろしいものなのです。

このイエスのバプテスマ(洗礼)の出来事は、わたしやあなたにとって、とても意味のあることなのです。それは、キリストが私やあなたのために十字架を選び取って下さった瞬間だったのです。そして、キリストは遠く離れている方なのではなく、常に私やあなたの傍らにいて下さる方なのです。終わりの日に至るまで、私たちの悩み、苦しみを理解し、共有し、ともに歩んでくださるお方なのです。

キリストがヨルダン川で身を沈めたその時こそ、天地を造られた神ご自身が、キリストを通して私たちの側に立ってくださった時だったのです。そして、今は、わたしたちがそのキリストを自分の救い主として受け入れるときなのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
神様。わたしはこれまで、罪をおかして、あなたに喜ばれない心をもって歩んできました。
しかし、御子キリストが私の罪を背負って十字架について下さり、よみがえって私に永遠のいのちを与えて下さったということを知りました。そのことを感謝します。
どうか、これからの人生を私とともに歩んでください。
イエス・キリストのお名前でお祈りします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

このようなお祈りをぜひしてみて下さい。
きっと、あなたがこの世に生まれた瞬間から、神があなたとともに歩んでくださっていたこと、いつもそばにいて下さっていたということがわかる日が必ずやってきます。

(つづく)

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2009年9月11日 (金)

マルコの福音書(3):洗礼者ヨハネについて

マルコの福音書(3):洗礼者ヨハネについて

hide-tanと読む「マルコの福音書」イントロ
hide-tanと読む「マルコの福音書」(1)
hide-tanと読む「マルコの福音書」(2)

洗礼者ヨハネについて (マルコの福音書1章2節-8節)
洗礼者ヨハネは、4つある福音書のどれもに登場する重要人物です。
そして彼は、イエス・キリストの公生涯のはじまりに大きく関わった人物なのです。
この洗礼者ヨハネとはいったいどのような人物だったのでしょうか?

聖書箇所: 預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼は宣べ伝えて言った。

「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
(マルコ1:2-8)

洗礼者ヨハネは、イエスキリストの公生涯のまえに遣わされた預言者です。

(1) それは400年ぶりに現れた預言者でした。
そのまえは、神に逆らい続けていたユダヤ人の指導者達は神からメッセージをいただいた預言者を次々と殺していたのでした。神はついに400年間も沈黙を守りますが、いよいよ時が熟して遣わされた預言者、それが洗礼者ヨハネだったのです。

(2) イエスのいとこでした(ルカ1章36節)

(3) イザヤ40:3 マラキ3:1で預言されていた『エリヤ』でした。(マラキ4:6)
旧約聖書に出てくる代表的な預言者がエリヤです。彼は、死を経験すること無く火の車で天にあげられたと書かれています(第2列王記2:11)。神は王となられるキリストが来られるまえにエリヤを遣わすと言っておられたのですが、そのエリヤが洗礼者ヨハネだというのです。
本人にはその自覚はなく否定しているのですが、そのエリヤの再来である、とキリストは言っています(マタイ17:12-13)。ちなみに、面白いことに洗礼者ヨハネの格好は、旧約聖書に書かれているエリヤそっくりなのです。

「毛衣を着て、腰に革帯をしめた人でした」(第2列王記1:8)

(4) ヨハネも自分自身を荒野で叫んでいる者の声であると言った(ヨハネ1:23)

(5) キリストは洗礼者ヨハネを預言者よりすぐれた者と言った(ルカ7:26-28)

(6) 洗礼者ヨハネが遣わされた目的
① 罪の悔い改めにより、王の王をお迎えする心を整えるため(1章4節)
当時、王が通られる道は、きれいに整えることが常でした。今でも、外国からどこかの国王が来ればそうしますよね。ヨハネは,人々の心に王の王であるキリストをお迎えすることができるように、自分自身、神のまえに罪がある存在であることを知り、神の御前に悔い改め(自分の罪を認めて、罪から離れる決心をする)のしるしとしてのバプテスマ(洗礼)を授けていました。
バプテスマは、それまではユダヤ人でないひとが、ユダヤ教の神を信じる為に受ける儀式だったのですが、ユダヤ人に対して行った点で新しいものでした。また、聖職者たちがしていた浄めの儀式とも意味合いが異なっています。
預言から、キリストが来られる日が近いことを人々が感じていたと思われ,一部の人はヨハネこそ、その人だと思っていましたので、多くの人々がヨハネの教えを支持していたのです。ユダヤ人の宗教指導者たちも、心ではヨハネの言うことを聞き入れていないのに人々からよく思われたいという思いでヨハネのもとにやってきました。それをヨハネは諌めています(マタイの福音書3:7-8)。
ヨハネは民衆の心を神にむけさせ、「来るべきお方」に備えさせたる役目をしたのです。

② イエスが神の御子であり、来るべき救い主であることを指し示すため(ヨハネ1:29-31)
神の霊に満たされた力強い預言者である洗礼者ヨハネのもうひとつの目的は、ナザレ地方からやってくるイエスこそが、「来るべきお方」であると示すことでした。王がやってくるのに、それを告げ知らせる旗をもって先行する家来のような役目だったのです。イエスがキリストであることは、様々な旧約聖書の預言の成就から明らかなのですが、当時の人々には、それを指し示す指が必要だったのです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ヨハネのメッセージは今も、私たちの時代にも響いています。

この方こそ、あなたが待ち望むべきお方。この方こそ、あなたを罪によって遮断された、あなたの造り主である神との関係を回復してくださるお方。この方を受け入れるために、心の中にある様々な欲深い心、自己顕示欲、自分こそ正しいものである、自分こそ良い人間だという高ぶった心を取り除き、王の王であるキリストを心にお迎えするように心を平らにしなさい、とそのように今も響き渡っているのです。

荒野で叫ぶ声。それは、もしかしたらあなたも気付いていない、あなたの心の中にある荒野でもきっと響き渡っているはずなのです。

(つづく)

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2009年9月 6日 (日)

マルコの福音書(2):福音書の比較

hide-tanと読む「マルコの福音書」(2):福音書の比較

hide-tanと読む「マルコの福音書」イントロ
hide-tanと読む「マルコの福音書」(1)

久々にシリーズを再開です。忘れていた訳ではありませんが、旅日記に労力を取られてしまっていました。coldsweats01

さて、はじめて聖書を読んでみようという方にはマルコの福音書から始めることをおすすめしていますが、他の福音書(イエス・キリストの生涯を描いた物語)、つまり、マタイの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書のもつそれぞれの特徴について、まとめてみました。

なお、この記事は、私たちが教会でやっているBIble Study 101 in Japanese (日本語での聖書の学び会)で私が解説したものをもとにしています。

福音書とは? 
福音とは、英語ではgospel=good news(よい知らせ)の意味。キリストの生涯を著した書物を福音といいます。キリストによって人と神との間に平和がもたらされ、私たちは神の家族に加えられ、永遠のいのちをいただくことができるようになったということの知らせ。

四福音書について

マタイの福音書

1. 「メシアなるイエス」がテーマ。イエスが旧約聖書で預言されたメシアであることを証明すべく、イエスが行ったことと旧約聖書の預言を対比させている。

2. 作者マタイは元取税人でイエスの十二弟子の一人。職業柄、記録を取ることに長けていた。

3. ユダヤ人にむけて書かれたもので旧約聖書の預言が豊富(なので、旧約聖書を読んでいないと少し読みづらいが、旧約聖書を読んだあとに読むと目からウロコ!)

マルコの福音書

1. 「不思議なるイエス」がテーマ。イエスが行った奇跡に重点が置かれ、そのことを通して神の子なるキリストを伝えようとしている。

2. 作者ヨハネ・マルコはマリヤという金持ちの息子(使徒12:12)。バルナバといとこ。

3. 最も短い!はじめに書かれた。(A.D.60-70)ローマ市民にむけて書かれたものでイエスが行った奇跡を強調点。ペテロ(イエスの弟子の中でリーダー的存在)と行動をともにしていたので、ペテロによるイエス・キリストの生涯の記述とも言える。(1ペテ5:13)

4. マルコ自身が登場していると推測される記述。(14:50-52と10:17-22)

5. パウロの助手として(使徒15:38→コロ4:12、ピレ24節→2テモ4:11)

ルカの福音書

1. 「人の子なるイエス」がテーマ。普通の人とはかけ離れたイエスの品性,知性、慈愛に満ちた様子に焦点が当てられている。

2. 作者ルカは医者で歴史家。使徒パウロと行動をともにしていた。歴史家ゆえに出来事の順番が正確であると言われている。

3. ギリシヤ人を対象に書かれたもの。人としての美徳を尊ぶギリシア人に対して、理想的な人としてのイエスを紹介した。

ヨハネの福音書

1. 「神の子なるイエス」がテーマ。イエスを間近で観察した弟子のひとりとして、イエスが語られたことば、取られた行動などを詳しくしるし、イエスが神から来られたお方であるということを示している。

2. 作者ヨハネは元漁師。元洗礼者ヨハネの弟子。イエスのいとこ?十二弟子の一人。

3. 福音書の中でも,最もおそく書かれた。イエスの語られた内容に重点。記事の内容が他の福音書と重複しないことが多い。意図的に重複を避けたものと思われる。

よって、聖書の読み方としては、マルコの福音書で概略をつかんだあとで、ヨハネの福音書を読んで、キリストと作者ヨハネの「語り」からメッセージを受け取り、「使徒の働き」でどのようにして福音が外国まで広がったのかを知り、「○○への手紙」シリーズをいくつか読んで、ルカの福音書で詳しくおさらいし、手紙シリーズを読破して心の糧とし、黙示録(この世の終わりについて書かれているもの)でちょっと面食らいながらも、旧約聖書を読み進め、ある程度預言の書(とくにイザヤ書やダニエル書など)までは読んで、そしてマタイの福音書に戻って来られたらいいのでは?と個人的には思っています。

ちなみに私の場合、なにも知らなかったので、マタイの福音書から順番に黙示録まで読んで、そのあと旧約聖書を創世記から最後まで読んで、再び新約聖書に戻ってきました。でもそれはそれで、いくつかの面では面食らいましたが、楽しく最後まで読めました。それはなぜかと言うと、きっと自分にむけて書かれたものだと思って読んだからなのだと思います。

聖書はあなたに向けて書かれた神様からのラブレターです。そのように思って読んでみて下さい。
そうすれば聖書はただの古い書物ではなく、渇きを潤す水のように、あなたの心のすみずみに届くことでしょう。

(つづく)

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2009年6月25日 (木)

マルコの福音書(1):神の子イエス・キリストの福音のはじめ

hide-tanと読む「マルコの福音書」(1)

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。(マルコの福音書1章1節)

作者マルコは、この一文だけで、5つのことを述べています。

まず、これから物語がはじまるということ、その話の中心はパレスチナのナザレ地方出身のイエスのことであること、そして、そのイエスは“神の子”(=人の形をとられた神)であり、同時にキリスト(=救い主)であるということ。そして、この話は福音(=よい知らせ)であるということです。

神はイエスという人の形をとって、私たちの前に現れて、私たちを救い出してくださったのです。そして、それは私たちにとってよい知らせなのです。イエスが神の子であるということを、どのように明らかされるのか、私たちを何から、どのように救い出して下さるのか、そして、この物語が私たちにとってどのような意味があるのかは、これからのお楽しみです。

神様がもたらしてくださる“良い知らせ”とは何でしょうか?
それは、どれくらいよいのでしょうか?
それは、きっと、とてもよいものであるに違いありません。
たぶん、それは3億円の宝くじが当たるよりも良いことに違いありません。
ノーベル賞をもらうことより嬉しいことに違いありません。

1900年間も読み継がれている、この物語から、イエス・キリストというお方を通して私たちに示された“よい知らせ”というものを学んで行きましょう。

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